貧乏神さまとネギ坊主 【弐】
青年からのきびしい視線を気にもとめず、男は舐めるように酒をあじわいながら、にやりと笑う。
「富を増やすも減らすも、まずはひと社会の在り様を学ばねばな」
「商業神に経済学が必要ですか?」
「昨今は、商いも一様ではない。神の見えざる手はそう都合よく助けに来ぬと、ひとも悟ってひさしいものさ」
青年はあきれ顔で反論をしかけ、口を閉ざした。
かれは貧乏神。元ひとであったゆえにひとに執着するこの神は、超越した絶対的存在ではなく、ひとにつきまとう影法師のような親しみがある。
一見、災厄に思える霊験も、富を失くすことで人生をもういちどやり直すところにあるのだと、かれは思う。それは、商売繁盛と五穀豊穣をつかさどる稲荷神の対極というより、むしろ表裏であるように感じられるのだ。
社に寝そべる男は、猪口と酒びんを両手にかかえて、早くもうつらうつらとしている。
かたわらで行儀よく正座をした童子は、満足そうに尾を揺らしつつ、油揚げをほおばるなどして。まことにこの二柱は、いまの世の不穏さなど気にとめぬほど和やかだ。
ほかの神がみは、この地を捨て、みな天つかたへ去ったというのに。
月あかりの満ちる夜空は、今宵はひときわ華やかな藍色だ。蒼い闇に山と大地がくろぐろと陰影を刻むなかで、ふわりゆらりと蠢く、いくつもの影。
巨大なのっぺらぼうのようなもの。足のたくさんはえた蛇のようなもの。蟲。目玉。髪の毛。
ひとの肉体を思わせるこれらは、ひとの想念の澱みから生まれ出でたものたちだ。
(――今日はまた、数が多い)
古来より生息する化生とはまるで存在の異なるそれらの姿を見据え、青年は口唇をひきしめる。
ひとのほとんど住まぬこの地に、ひとより生じる異形が跋扈する理由。
それは――――この地を離れたひとびとが、遠き地よりふるさとを想うがゆえ。
(おのれで選び、おのれから捨て……それでもまだ求める、か……)
愚かだと謗るのはたやすい。
過去の判断をあやまちだったと云えば、諸悪の根源をみつけた気になるやもしれぬ。
それでも、ひき返すことは許されない。神であろうとも。
すべての傷み、澱み、穢れを引きずったまま、歩みつづけねばならないのだ。
――コノ土地ヲ返セ。
夜のけものが哭いている。
――フルサトヲ返セ。
おおん、おおんと赤子のようにわめいている。
(わかっている。おまえたちも哀しく、不甲斐ないのだな)
かれに慰めるすべはない。ただ――――その情念を形骸(かたち)ごと斬り捨てるのみ。
膨れあがったひとの闇が、ひとを侵食するまえに、夜のうちに消し去るのだ。
ぐっと腰に佩いたものの柄を握りしめるかれに、ふと声がかかった。
「おい、ネギ坊主。おまえも呑め」
「僕はこれから仕事です」
「その面(つら)で、か」
いつのまにか起きあがっていた貧乏神が、無造作に、きよらかな酒を満たした猪口を突きだす。
神の手づからの一献に、青年はわずかにためらい、腰のものから手をはずして受けとった。
「こんな月夜に、しかめ面は似合わん」
「仕事に行くときはいつもこの顔です」
「やすめ、やすめ」
さすが貧乏神、というべき台詞を吐いて、男は一升びんの中身をたぱたぱとおのれの口に垂らす。
青年は、しばし手のなかの猪口をにらんだ。透明なおもてに映る月は、この世のものとも思われぬほど澄みきっている。息を吐き、月影ごと一気にあおった。
「ひとの澱(おり)というあれらは、な。しょせん甘えておるのさ」
「甘え……?」
「さようさ。普段は律せるはずのひとのなかのけものが、解き放たれて、構ってほしいと泣きわめいているのさ。たまさかには、ほうっておくがいい。さすれば……」
「さすれば?」
聞きかえし、なにかに気づいた青年は、貧乏神の見つめるさきの空をあおいだ。はっと後ろをふり向けば――――にこにこと油揚げを食んでいた狐神の姿が、ない。
そのとき山間から、けーん、と鳴く声。
「さすれば、望月に誘われたものどもが、たっぷりと遊んでくれようさ」
蒼い宵空に蠢いていた闇のけものが、金のたてがみをもつおおきな白狐に咬みつかれ、穴のあいた風船のごとく、しゅるしゅるとちぢんでいく。はたまた、こまかな人面虫に似たものにたかられ、ずぶずぶと地中に呑みこまれる。
「な?」
「……まったく、あなたというかたは」
首をふり、苦笑する青年の天藍色の双眸に、ようやく秋の宵のごとく晴れやかな光がともされた。