【拾壱】
記憶がはっきりとはせぬのだが、あの青年は、かつて〝こん〟を大岩に封じた法師の子孫であると同時に、もとをたどれば同族の血を引いた一門の末裔であるらしい。
そのあたりの事情が曖昧なのは、封じられてしまった過去のせいか、はたまたあやかしであることを捨てたせいなのかはわからぬ。こんは、ぼんやりとした記憶のかけらを頭のすみからとり出し、またそれをぼんやりとしたまま、そっと同じところにおさめた。
青年はよく動く。ひとの身のまま宙を舞い、片手にひとりずつ人間を摑みなおしたと思うと、ぽいぽいと地面にほうり投げ、あっというまに羂索(けんじゃく)で縛りあげてしまった。ふたりの人間は目を見開き、口をあんぐりと開けて宙をあおいだまま、心をどこかに飛ばしてしまったようである。
闇色のコートを帳(とばり)のようにおおきく広げ、青年がこなたにやってきた。
こんは、ひとふさに戻った尾がふくらませて全身をぴりりとさせたが、かれはなめらかな仕草でアスファルトの上に片ひざをつく。
「それでは命婦どの。僕は、これにて失礼いたします」
「あ、あの……その。わたくし、は」
目線だけで人間たちをうかがえば、心得たようにほほ笑みがかえる。
「お気になされませんよう。あれは自業自得というものですから。同業者の責任をもって、僕がしかるべきところへ連れてまいります」
「ですが」
「命婦どの――いえ……金毛九尾御氣津之命(こんもうここのおみけつのみこと)」
語をさえぎって呼びかけられた名に、色を失っていた狐神のまるい頬が、わずかに赤味を帯びた。
青年は、ふところからとり出したちいさなものを、こんの両手にそっと載せる。
砂と埃によごれ、異臭をはなつ饅頭――ひとの供物。
「僕はさきほど、あなたがこの祈りにかえした言祝ぎを聴いておりました」
「……」
「ひとに添うことを選んでくださったその御心を、信じております」
「……はい」
では、と一礼し、青年は、郭公へも深ぶかと頭を下げて立ちあがった。縛られたふたりの人間をつつむように漆黒のコートをひるがえしたと思うや、そのまま昊天の彼方へ飛び去ってゆく。
遠くちいさくなる黒い影をまんまるの目で追い、こんは、ぽつりとつぶやいた。
「……あのかたは、ひとだと思っておりましたが、天狗だったのでしょうか?」
「天狗というより蝙蝠(かはほり)だが……深く考えずともよい」
ぱちりと団扇の鳴る音とともに、恬淡とした貧乏神の声がかえる。
「神が八百万(やおよろず)であるように、ひともまたそれぞれさ」
その声に、こんは、痩せぎすのうらびれた単衣をまとう神を見上げた。眠たげな目と、ようやく目線が合う。
「か、郭公どの。わ、わたくしは……」
「ひとが、にくいか」
こんは、つぶらな瞳に浮かぶ透明なものを、ぐいと口を引きむすんでこらえる。
「――――おれは、ひとが、にくいよ」
「かっこう、どの」
にくいと云うわりに、かれの目はやわらかくほほ笑んでいた。
「にくいと思うのは、期待するからだ。相容れぬと知りつつも、かたむく心を止められぬ」
「……」
「それはすなわち、いとおしいからであろうな」
こんの両目に、こらえきれない熱情がぶわりと湧いてきた。
「わ、わたくしも……っ、ひ、ひとが、にく……く、いとおし……ひくっっ」
「泣くなよ、ばあか」
こつり、とたてた団扇のほねが、両耳のあいだに落ちる。こんは、うっと声を詰め、またもぽろぽろと涙をこぼした。
「そ、それなのに、わたくしは、なんてあさましい……っ」
「そうさな。あいつらも良い薬になったであろうよ」
「で、ですが、ひとを殺めようなど……か、神がすることではありませぬ」
しょぼくれ、うつむき、両ひざを几帳面にたたんで嗚咽する狐神を、郭公は怪訝そうにながめた。
「そうか? 神は祟るものだ。善のみを与えるものではない」
「しかし……っ」
「ひとは、神の子のようなものさ。甘やかせてばかり、とはゆくまいよ」
「子は、いつくしむものでございます……!」
「腹が立つものさ」
真っ向から否定され、こんは濡れた目をぱちぱちさせて閉口した。
「生意気で、世間知らずで、依怙地で、臆病で、癇癪もちで、わがままで、腹の立つ生きものだよ」
(――云われてみれば、たしかにそうかもしれない)
思いあたるいくつものことに指を折り、納得しかけたおのれに気づいたこんは、あわててけものの耳のある頭を左右にうちふるう。
「そのとおりであろうに」
「ですが、どんな子でも守り、育てるのが親のつとめでございますっ」
「生真面目だな、おまえは」
郭公は、やぶれ団扇を童神に差し出すと、その縁(へり)に手のひらの異物をひょいと載せかえる。ぽいと社のほうにほうり投げれば、木陰からあらわれた人面をした黒い虫たちが、わらわらとたかってあっという間に喰らいつくす。
こんな時世にもまだあやかしが残っていたのかと、感心してこんが眺めていると、郭公が言葉をついだ。
「なあ。ひとはなぜ、こうもいびつで未熟なのだと思う?」
「未熟、で、ございますか?」
「おれは……な。ひとを創りたもうた神が、未熟だからだと思うのさ」
不遜にも聞こえる発言に、貧乏神はうすい唇のはしをひん曲げ、悠然とほほ笑んだ。
「子は、親に似ると云うだろう?」
「似て、おるのでしょうか?」
「似ているさ。生意気で、世間知らずで、依怙地で、ときに間違いを起こすのよ」
「……」
「心あたりがあろう?」
またも潤みがかる瞳を空にのがし、こんは、ぐいとへの字に口を結ぶ。
「なあ、こんよ」
「……は、ぁい」
「間違ったことはよくない。だが、許すことは必要だ。おのれが完璧でないのなら、なおさら、な」
「あい」
「ひとを許してやれ」
「あい……」
「そうしたらおまえも、おまえを許してやれ」
その一言に、ついに決壊したこんの涙腺は当分のあいだ修復されることはなく。
おいおいと地面に伏して号泣する童神の情けないすがたに、またも、男の口から洩れたため息がひとつ、夏空の熱に溶けるのだった。