【拾】
(――ひとは、嫌いだ)
いったい何時いかなる理由で、おのれがこの世へ顕現したか定かではない。気がついたときにはひとでもなく精霊でもない化生の身で、ただ世にあった。
退屈だった。悠久を生きるあやかしにとって、時とはただ流れるもので、ときおり精をとり入れるために生命を奪うものの、それは風を噛みしめるほどの味気なさしかなかった。
ところが、ひとは違った。なにが面白いのか、歯を食いしばり、地を這いずるようにしても生きようとし、生きるために奪い、殺し、嘆きながら死んでいく。
まるで、火花を見ているようだった。
うつくしく、一瞬で消えゆく明るいきらめき。
その謎が知りたかった。そのうつくしさに、混ざり合いたかった。
それだけだったというのに。
ただ少し、未来を教えてやったら。
ただほんの少し、真実をみせてやったら。
――――火花たちは、手のひらを返してこちらを攻撃しはじめたのだ。
(なぜだ? なぜなのだ?)
さっぱりとわからぬ。さきに騙しあいをしていたのは、ひとであったというのに。こなたより前に殺しあっていたのは、ほかならぬひと同士であったのに。
(ひとは、わからぬ。わかろうともせぬ)
異なるもの、未知なるものをかたくなに疎んじ、拒絶し、否定する。
そうして似たもの同士が寄りあつまり、さらにその内から異形をはじき出すのだ。
だというのに、いっぽうで他を羨んでは求め、つぎつぎと未知に手をのばして呑み込んでいく。
異様だ。
奇妙で、はらわたの底がぞわぞわとふるえるほどの混沌。
(まったく愚かしい)
愚かで、目先のことしか理解せぬ、どこまでも奇怪で醜いいきものだ。
(ああああ、ほんに腹立たしいことよ)
ひとの手で追い回され、毛皮を切り裂かれた痛みは、今も忘れぬ。
(あああ、ほんに口惜しいことよ)
やさしく笑んだ目が憎しみに変わり、あたたかい言葉を吐く口から罵声を浴びせられ。
(あああ、忌々しい。ひとめ……)
追われ、追われて、散りぢりに岩に封じ込められた。
(ひとなぞ……嫌いだ)
あの、きらきらした命を近くで見たかっただけだというのに。
(ひとなぞ、消えてしまえばよいのだ)
あの耀きが手に入らぬのなら――――痛めつけて、握りつぶしてやろうか。
ほの昏い愉悦に、ぞろりと牙の生えた長い口が、三日月に割れる。裂き尾に巻きとったふたつのひとに、少しばかり力をこめてみる。弾力のある、あたたかな肉体。壊れそうで、だが芯のあるしなやかさ。
(ああああ、火花だ。なんてうつくしい……)
どうせなら丸ごと頭から喰らうてやろう。
生きたまま、あんぐりとそれらを呑み込もうとした、そのとき。
「――――おうい、こら!」
轟(ごう)、と風にのった砲声が、狐の耳朶をたたきつけた。
風の先をうかがえば、地のうえに立つひとりの男。
ひとではない。物の怪でもない。鬼でもなく、かといって神と呼ぶには陰気が勝りすぎている。うす汚れた単衣に、蓬髪。やぶれた渋団扇。どれをとっても威厳の欠けらもないはずなのに、その存在は不思議と清涼であった。
「ほう。やっとこちらを見たか」
にやり、と不遜に笑う。苛立ちが胆(はら)をくすぐる。邪魔をされてなるかと牙をむけば、またも笑みがかえされた。
「おまえ、それはひとだぞ?」
(――なにを今さらそのようなことを言うのだ)
「ひとを喰らえば、おまえは堕ちる」
(今さら、堕ちようが同じことだ)
「さすれば、ひともまた堕ちよう……な」
(ひとがどうなろうが、知ったことではないわ)
「ならば、これはどうだ?」
腕をふりあげ、たかだかとなにやら投げつける。空を舞う白狐は、避けようとして身をよじりかけ、はっと強張らせた。投げつけられたちいさなそれが、音もなくやわらかく鼻づらに当たって、地面にほとりと落ちる。
ほのかに漏れる、あわわとした想い。
『この土地が一日もはやくもとの姿をとり戻しますように』
『みなが健やかにすごせますように』
『このさき、みながこの土地で穏やかに暮らせますように』
想いのさきで、陽炎のように揺れる、ちいさな影。ちいさな祈り。
そのまぼろしの背後から、しずかに、男の声が投じられた。
「そのイカサマ法師らもひとだが、な。これもまた、ひとよ。
なあ……おまえ。ひとに添うために神になりたかったんじゃないのか?」
(――――――ああ)
妖狐の真珠色のひとみが、ゆらりと感情に揺れた。
「神になるんじゃなかったのかよ。なあ――こん、よ」
「…………郭公、どの」
ふわりと、力をうしなった白狐の尾から落ちたふたりのひとを、黒い服の青年が無言で抱きとめた。