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僕のメガネは似合わない

作者: 丹波謙虎
掲載日:2026/05/12

 僕のメガネが壊れた。

 右側のフレームが、パキッと割れた。

 音は小さかった。けれど、その音は僕の中では、けっこう大きく響いた。何かの終わりみたいだった。右の耳にかける部分がぷらんと垂れて、レンズは無事なのに、メガネとしてはもう使いものにならなくなっていた。

 左側は無事だった。レンズにも傷はなかった。

 これなら、フレームを取り替えるだけでいいかな、と僕は思った。

 浪人生の僕にとって、メガネの修理代はそれなりに痛い。予備校代は親に出してもらっている。模試代も、参考書代も、交通費も、昼に食べる安いハンバーガーのセット代も、厳密に言えば親の金だった。

 だから、メガネくらい安く済ませたかった。

 昔、子どものころに両親に作ってもらったメガネは、たしか四万円くらいした。父親が会計のときに少しだけ顔をしかめて、母親が「目は大事だから」と言ったのを覚えている。僕はそのとき、目というのは高いんだな、と思った。

 でも今は違う。

 レンズ代込み五千円。追加料金なし。最短三十分。そういう看板が街にいくつもある。僕の目はもう、五千円でなんとかなるものになっていた。

 僕は駅前の量販店に行くつもりで、割れたメガネをケースに入れ、裸眼に近いぼやけた視界で街を歩いた。視力が悪いと、街は残酷になる。看板の文字は読めない。人の顔もよく見えない。足元が怖い。段差がよくわからないし、自転車が急に近づいてくる。信号の色はわかるけれど、向こう側にいる人の表情はわからない。世界の輪郭が全部曖昧になる。僕は信号待ちをしながら、メガネがないだけでこんなに不安になるのかと思った。世界は、僕の目に合わせて作られているわけではない。僕の方が、レンズを通して、なんとか世界に合わせているだけなのだ。


 ◇


 駅前の交差点を渡ったところで、メガネ屋があった。

 量販店ではなかった。古めかしい店だった。ショーウィンドウのガラスは少し曇っていて、そこに並んでいるフレームは、どれも今風ではなかった。細い金縁の丸メガネ、黒い太いセルフレーム、昔の映画に出てくる学者がかけていそうなもの。アンティークというより、時間に置いていかれた感じだった。店の看板には、古い文字で「眼鏡」と書かれていた。

 店名はなかったと思う。僕は量販店に行くつもりだった。けれど、なんとなく、足が止まった。

 興味本位だった。たぶん、それだけだ。古いメガネ屋に入る浪人生というのが、少しだけ小説みたいだと思ったのかもしれない。浪人生は、基本的に毎日が退屈だ。昨日と同じ参考書を開き、昨日と同じ問題を間違え、昨日と同じように親の気配を背中に感じる。そのくせ未来だけが毎日違う形で怖い。

 だから僕は、いつもと違うことをしたかったのかもしれない。

 扉を開けると、小さなベルが鳴った。店の中は、思ったより明るかった。古い木の棚が壁一面に並んでいて、メガネがいくつも置かれていた。床は磨かれていた。薬品の匂いと、古い紙の匂いと、どこかで嗅いだことのあるようなほこりの匂いが混ざっていた。

 奥に老人がいた。白い髪をきれいに撫でつけた、小柄な男だった。白衣のようなものを着ている。眼鏡屋の店員というより、昔の理科室にいた先生みたいだった。

「いらっしゃいませ」

 老人は僕を見るなり、少しだけ微笑んだ。

「ああ、フレームが。それは大変でしたね」

 僕はケースから壊れたメガネを出した。

「右側だけ割れてしまって。レンズは無事なんですけど、フレームだけ替えられますか」

「ええ。できますよ」

 老人はメガネを受け取って、レンズを光に透かした。

「レンズは、そのまま使いましょう」

「できますか」

「できます。あなたには、まだ必要でしょうから」

 僕はその言い方が少し気になった。

 でも、メガネ屋がレンズについてそう言うのは、別に変ではないのかもしれない。僕には視力が悪い。レンズは必要だ。当たり前のことを、少し変な調子で言われただけだ。

 老人は棚の奥から、いくつかフレームを出してくれた。

 不思議なことに、その中のひとつは、僕の割れたフレームとほとんど同じ形をしていた。色は少し違う。前のものより濃い茶色で、光に当たると奥に赤が混じって見えた。古いけれど、古臭くはなかった。顔にかけてみると、少し重い。けれど、嫌な重さではなかった。

「一万八千円です」

 老人が言った。

 僕は少し迷った。

 高い。量販店なら五千円で済んだかもしれない。レンズごと変えたとしても、もう少し安いものはあったはずだ。でも、思ったほどでもない、とも思った。一万八千円。浪人生の僕には高い。けれど、払えない額ではない。財布の中には、予備校の昼食代を削って残した金と、正月にもらって使わなかったお年玉の残りがあった。

「これにします」

 そう言うと、老人はうなずいた。

「よく見えると思いますよ」

 老人は僕の古いレンズを、新しいフレームに入れてくれた。作業は思ったより早かった。量販店の三十分よりも早かった気がする。老人の手つきは静かで、何かを修理しているというより、もともとそうだったものを元の場所に戻しているみたいだった。

 新しいメガネをかけると、世界の輪郭が戻ってきた。棚の木目。老人の白い眉。ショーウィンドウの曇り。外を歩く人の足。店の隅に置かれた古い時計。何もかもが、また僕の知っている世界になった。

「どうですか」

「見えます」

「それはよかった」

 老人は少しだけ笑った。

 僕は会計を済ませ、店を出た。ベルが鳴った。外の光が、少しまぶしかった。


 ◇


 それから数日、特に変わったことは起きなかった。

 僕は予備校に行き、英文法の問題を解き、数学の解説を聞き、帰りにコンビニで安いパンを買った。家では母親が、僕が勉強しているかどうかを直接は聞かないようにしていた。父親はテレビを見ながら、たまにニュースに文句を言った。

 僕のメガネは、少しずつ顔になじんできた。

 重さにも慣れた。

 ただ、ときどき、鏡を見ると自分ではない人間みたいに見えた。前のフレームとほとんど同じ形のはずなのに、どこか違う。浪人生というより、古い本を読んでいる人みたいだった。賢そうという意味ではない。時代に少し遅れている人みたいだった。

 その日、僕はファーストフード店にいた。

 予備校の授業と授業の間に、二時間ほど空きがあった。自習室に行くつもりだったが、席が埋まっていた。図書館に行くには少し遠い。家に帰るには短い。だから、駅前のファーストフード店に入った。

 平日の午後で、店内はすいていた。

 僕は窓際の席に座り、コーヒーを飲みながら参考書を開いた。コーヒーは百円だった。正直、うまいとは思わない。でも、浪人生がファーストフード店で飲むコーヒーとしては、これくらいでいい。

 参考書のページには、関係代名詞の説明が載っていた。which、that、who。僕はシャーペンを持ったまま、窓の外を見ていた。

 街を人が歩いている。スーツの男。ベビーカーを押す女の人。制服の高校生。荷物を両手に持った老人。イヤホンをつけて歩く若い男。誰もがどこかに向かっていて、誰も僕のことを見ていなかった。僕は、窓の内側にいる。百円のコーヒーと、開いた参考書と、解けない問題を前にして、外を歩く人々を見ている。

 そのときだった。女の人の頭の上に、文字が見えた。最初は、看板の反射だと思った。あるいは、窓ガラスについた汚れが、たまたま文字のように見えたのだと思った。でも違った。文字は、その人の頭の少し上に浮かんでいた。黒い文字だった。太くも細くもない。手書きではなく、印刷された文字のようで、でも看板のように物質感があるわけでもない。ただ、そこに浮かんでいた。

 今日死のう。

 僕は、息を止めた。女の人は、普通に歩いていた。年齢は二十代後半くらいに見えた。黒いコートを着て、肩に鞄をかけている。髪はひとつにまとめていた。顔色は悪い気がしたが、倒れそうというほどではない。足取りも普通だった。信号を待つ人たちの中に混じって、ただ、街を歩いていた。

 その頭の上に、今日死のう。と書かれていた。

 僕は立ち上がった。椅子が床をこすって、変な音を立てた。コーヒーの紙コップが倒れそうになり、僕は慌てて押さえた。参考書もシャーペンも席に置いたまま、店を飛び出した。自動ドアが開くまでの一秒が、やけに長かった。外に出ると、女の人は信号を渡り始めていた。僕は走った。

 普段あまり走らないので、すぐに息が上がった。鞄が肩で跳ねる。メガネが少しずれる。僕はそれを片手で押さえながら、女の人の後ろ姿を追った。

 横断歩道を渡りきったところで、僕は声をかけた。

「あの」

 女の人は振り返らなかった。

「あの、すみません」

 ようやく振り返った。近くで見ると、思ったより若かった。あるいは、疲れているせいで年齢がわかりにくくなっているのかもしれない。目の下に薄い影があり、唇は乾いていた。

「なんですか」

 声は低かった。僕は、何を言えばいいのかわからなかった。今日死のう、が見えました。そんなことを言えるはずがなかった。死なないでください。それも違う気がした。知らない浪人生に突然そんなことを言われたら、怖い。大丈夫ですか。大丈夫ではないから、あんな文字が出ているのだろう。

 何も言えないまま、女の人が眉をひそめた。

「あの」

 僕はようやく言った。

「よくないと思います」

 女の人は、しばらく黙っていた。

「なにがですか」

「えっと」

 僕はメガネの縁に触った。

「今日、そういうのは、よくないと思います」

「宗教ですか」

「違います」

「ナンパですか」

「もっと違います」

「じゃあ何」

 何だろう。僕にもわからなかった。

 僕は浪人生で、未成年で、予備校の授業の間に百円のコーヒーを飲んでいた。大学にも受かっていないし、将来のこともわからない。人を助けた経験もない。友達も多くない。知らない大人の女性に話しかけるのだって、たぶん人生で初めてだった。

「とにかく、今日じゃなくても、いいんじゃないですか」

 僕は言った。

「だから、なにが」

 僕は黙った。死ぬことです、とは言えなかった。言った瞬間、僕は彼女の中にあるものを、勝手に外へ引きずり出してしまう気がした。僕に見えているだけのものを、彼女の許可なく僕が先に言葉にしていいようには思えなかった。彼女の頭の上には、まだ文字が浮かんでいる。今日死のう。それはさっきより濃くなっているように見えた。

「君、いくつ」

「十八です」

「高校生?」

「浪人生です」

「へえ」

 女の人は僕を上から下まで見た。

「自分の人生も決まってない子に、なにがわかるの」

 その通りだった。僕は何もわからない。

 僕自身、自分の人生がどこに向かっているのかわかっていなかった。去年の春、合格発表の番号の中に自分の番号がなかったとき、僕は思ったより泣かなかった。ただ、家に帰る電車の中で、窓に映る自分の顔が、いつもより少し曖昧に見えた。

 それからというもの、僕は宙ぶらりんだった。高校生ではない。大学生でもない。社会人でもない。何者でもない。勉強していると言えば聞こえはいいが、本当は毎日、昨日の自分を引き延ばしているだけなのかもしれなかった。だから、女の人の言うことは正しかった。僕には、何もわからない。

「わかりません」

 僕は言った。

 女の人は、少しだけ意外そうな顔をした。

「じゃあ、なんで話しかけたの」

 頭の上の文字です。そう言ったら、たぶん終わる。この人は僕を本当に変な人間だと思って、すぐに立ち去るだろう。それどころか、助けを呼ぶかもしれない。僕はそれを責められない。

 だから、別の言葉を探した。

「見なかったことにしたら、たぶん、僕が嫌だったからです」

 女の人は黙った。

 信号が青になり、周りの人が歩き出した。僕たちだけが、歩道の端で止まっていた。

 女の人は、何かを一生懸命考えているようだった。この意味不明なシチュエーションに必死に意味を見出そうとしているかのようだった。長い沈黙の後、彼女は言った。

「つまり、自分のため?」

「そうかもしれません」

 女の人は、少しだけ目を細めた。

「変な子」

 女の人は呆れたように息を吐いた。けれど、立ち去らなかった。それだけで、僕は少しだけ救われた気がした。救われるべきなのは僕ではないのに、変な話だった。

「さっき、ファーストフード店にいました」

 僕は言った。

「知らないよ」

「コーヒー、飲みかけで出てきました。戻りませんか」

「なんで」

「席が、まだあります」

「知らない子とコーヒー飲む理由にはならない」

「僕がおごります」

 女の人は僕を見た。それから、ファーストフード店の方を見た。

「本当に、意味わかんない」

 そう言いながら、女の人は歩き出した。やはり相手にされないかと思った。でも、彼女の歩く方の先は、ファーストフード店だった。僕は少し遅れて、その後を追った。


 ◇


 ファーストフード店に戻ると、店員が少しだけ僕を見た。たぶん、急に飛び出して、知らない女の人を連れて戻ってきたからだろう。僕は見られていないふりをして、コーヒーを二つ注文した。

 百円のコーヒーを二つ。

 合計二百円。人命に関係しているかもしれない時間にしては、あまりにも安かった。

 僕たちは窓際の席に座った。女の人はコートを脱がなかった。鞄も肩にかけたままだった。いつでも立ち上がれるようにしているみたいだった。僕は新しいコーヒーを彼女の前に置いた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 その声は、とても小さかった。女の人は紙コップに触れたが、すぐには飲まなかった。僕も飲まなかった。窓の外では、さっきと同じように人が歩いていた。信号が変わる。車が止まる。自転車が通る。誰も僕たちのことを気にしていない。

 彼女の頭の上には、まだ文字があった。今日死のう。僕はそれを見ないようにしようとした。でも、見えてしまう。メガネを外せば見えないのではないかと思った。けれど、外すのが怖かった。外しても見えたらどうしよう。外したら彼女の顔までぼやけて、僕は何もできなくなるのではないか。

 沈黙が落ちた。僕は何か言わなければいけないと思った。死んじゃだめです。生きていればいいことがあります。親が悲しみます。未来があります。どれも言えなかった。

 僕自身、生きていればいいことがあると胸を張って言えるほど、人生を信用していなかった。未来があります、なんて言葉は、模試の判定がずっと悪い浪人生には重すぎる。親が悲しみます、という言葉も、場合によっては刃物みたいになる気がした。

「僕」

 僕は言った。

「今年落ちたら、たぶん家の中の空気がかなり悪くなります」

 女の人は僕を見た。

「なにそれ」

「今もそこそこ悪いです」

「でしょうね」

「母親は、体にいいものを食べさせようとしてくれます」

「いいお母さんじゃん。それの何が嫌なの」

「いいお母さんなので、余計に申し訳ないです」

 女の人は、紙コップを両手で包んだ。

 コーヒーの湯気はもうほとんど立っていなかった。

「申し訳ないって、けっこう疲れるよね」

「はい」

「怒られる方が楽なときある」

「ありますね」

「優しくされると、借金みたいになる。返さなきゃいけない感じがする。でも、返せないまま、増える」

 彼女は、窓の外を見た。

「昨日まで、大丈夫なふりをしてたんだけど。今日、ふりの仕方を忘れた」

 それだけ言って、彼女はまたコーヒーを飲んだ。

 僕は、理由を聞きたかった。どうしてですか。何があったんですか。誰かに何かされたんですか。家に帰れないんですか。仕事ですか。恋人ですか。家族ですか。お金ですか。病気ですか。聞きたいことはいくらでもあった。でも、聞かなかった。理由を知れば助けられると思うのは、たぶん僕の都合だ。問題集の答え合わせみたいに、原因がわかれば解法があると思いたいだけだ。

 人の人生は、参考書ではない。僕はそう思った。たぶん、初めてそう思った。

「ふりの仕方って」

 僕は言った。

「忘れたら、今日は休んでもいいと思います」

 女の人は僕を見た。

「それ、慰めてる?」

「たぶん」

 彼女は少しだけ笑った。

 本当に少しだけだった。そのとき、頭の上の文字が揺れた。

 今日死のう。

 その文字が、にじんだ。コーヒーの湯気のように、輪郭が崩れた。黒い文字が薄くなり、消えるのかと思った。僕は息を止めた。文字がほどけていく。そして、別の文字が浮かんだ。

 今日かえってビールでも飲もう。

 僕は、全身の力が抜けるのを感じた。椅子の背もたれに、背中がぶつかった。心臓が、今さらになって強く鳴り始めた。手のひらに汗をかいていた。喉の奥が痛かった。自分がどれだけ緊張していたのか、そのとき初めてわかった。

「ああよかった。いいですね。ビール」

 僕は言った。

「僕はまだ未成年だからよくわからないけど、きっと気分転換になるんでしょう。お酒って」

 女の人は、しばらく僕を見ていた。目つきが変わった。怖がっているというより、気味悪がっている顔だった。けれど、さっきまでのように突き放す感じではなかった。

「なんで、わかったの? ビールの話」

 僕はメガネの縁に触った。買ったばかりの、古めかしいフレームだった。一万八千円。浪人生には高い。でも、今だけは、少しだけ元を取った気がした。

「あ、なんででしょうね。多分、メガネのせいですかね」

「意味わかんない」

「ですよね」

「本当に意味わかんない」

 女の人は紙コップを見下ろした。

「ビール、好きなんですか」

 僕が聞くと、彼女は少し考えた。

「好きっていうか」

「はい」

「冷蔵庫に一本だけ残ってるの、思い出した」

 女の人は、それから、窓の外を見た。

 夕方の街は、さっきと同じように人が歩いていた。僕が店を飛び出す前とも、僕が彼女に話しかける前とも、何も変わっていないように見えた。

 でも、彼女の頭の上の文字は変わっていた。今日かえってビールでも飲もう。それは、すごく立派な言葉ではなかった。希望でもなかった。決意というほどでもなかった。ただの予定だった。でも、僕にはそれが、さっきのどんな言葉よりもましに見えた。

「帰る」

 彼女は言った。

「ビール飲む。そして、寝る」

 女の人は紙コップを置いた。

 それから立ち上がりかけて、なぜか、少しだけ止まった。

 忘れ物を思い出したみたいな顔だった。

 けれど、テーブルの上にあるのは、冷めたコーヒーと、僕の参考書だけだった。

 女の人は鞄からスマホを取り出した。

「ROINE、交換する?」

「え」

 僕は間の抜けた声を出した。

「言っとくけど、べつに年下の浪人生に興味なんてないから」

「いや、そういうのは、はい」

「なにそれ」

 彼女は呆れたみたいに息を吐いた。

 それから、スマホの画面を操作した。

「お礼をしたいな、と思った」

「お礼ですか」

「そう。変な子に話しかけられて、変なこと言われて、なんか、死ぬのをやめたお礼」

 死ぬ、という言葉が、紙コップの上に落ちた砂糖みたいに、しばらくそこに残った。女の人は僕の顔を見ていた。

「驚かないんだね。死ぬって言ったのに」

 僕は返事に詰まった。

 女の人は、少しだけ目を細めた。

「知ってたんだ。私が、そういうこと考えてたってこと」

 僕はメガネの縁に触れた。新しいフレームは、まだ少し硬かった。鼻の上に、重さがあった。

「メガネのせいです」

「やっぱり変な子だ」

 彼女はそう言って、少しだけ笑った。

 でもその笑い方は、さっきまでより少しだけやわらかかった。

 彼女はスマホをこちらに向けた。

 頭の上に文字が見えたことは、言わないことにした。たぶん、それは言わない方がいいことだった。僕はスマホを取り出した。ROINEのコードを表示するまでに、少し手間取った。ふだんあまり使わない機能だったからだ。彼女は僕の画面を読み取った。登録名が表示された。僕の友だち一覧に、知らない大人の女の人の名前がひとつ増えた。

 それは、命を救った証拠ではなかった。たぶん、そんな大げさなものではなかった。ただ、今日死のうと思っていた人が、今日かえってビールでも飲もうと思い直して、ついでに僕の連絡先を持っていった。それだけだった。

「じゃあね、浪人生」

 彼女は立ち上がった。

「知らない女に急に『よくないと思います』って言うの、本当にやめた方がいいよ。普通に怖いから」

 彼女は自動ドアの前で一度振り返った。

「あと、そのメガネ、似合ってないよ」

 そう言って、彼女は店を出ていった。

 自動ドアが閉まった。僕はしばらく、その背中を見ていた。

 外はもう夕方だった。店のガラスに、街の灯りが少しずつ映り始めていた。彼女の頭の上には、もう何も浮かんでいなかった。ただ、疲れた大人の女の人が、今日帰ってビールでも飲むために、夕方の街を歩いていくだけだった。

 僕は席に戻った。参考書は開いたままだった。関係代名詞のページ。which、that、who。シャーペンは転がって、ノートの端に当たって止まっていた。

 紙コップの中のコーヒーはすっかり冷めていた。

 僕はそれを飲んだ。苦かった。でも、飲めないほどではなかった。


 ◇


 それ以来、人の頭に文字が現れることはなくなった。

 予備校へ向かう電車の中でも、駅前の交差点でも、ファーストフード店の窓際でも、誰の頭にも何も浮かばなかった。スーツの男にも、制服の高校生にも、ベビーカーを押す女の人にも、母親にも、父親にも、僕自身にも。

 理由はわからない。あの古い眼鏡屋にもう一度行ってみたけれど、店は見つからなかった。たしかにあの道だったと思う。たしかに、曇ったショーウィンドウがあって、古い木の棚があって、白髪の老人がいたはずだった。けれど、そこにはシャッターの下りた空き店舗があるだけだった。隣の店の人に聞く勇気はなかった。聞いて、そんな店はずっと前からありませんよ、と言われたら困る気がした。

 だから、聞かなかった。メガネは、ちゃんと僕の顔に残っていた。一万八千円のフレームも、古い茶色も、少し重いかけ心地も、全部本物だった。なら、それでいい気がした。

 あの日の夜、ROINEに短いメッセージが来た。


 ビール飲んだ。

 まずかった。

 でも飲んだ。


 僕は少し迷ってから、返事をした。


 コーヒー飲みました。

 苦かったです。

 でも飲みました。


 それから、一度、彼女にランチを奢ってもらった。彼女は僕が大学に入って成人したら、ビールをたっぷり飲ませてやると、謎に意気込んでいた。女の人とはちょくちょくROINEをしたり、食事をしたりするようになった。会うたびに、彼女は僕のメガネを似合わないとバカにした。

 メガネは、まだ少しだけ顔になじまない。鏡を見ると、前の僕とは少し違う人間が映っている。右側のフレームが割れる前の僕より、ほんの少しだけ古くて、ほんの少しだけ遠くまで見ようとしている顔だった。見えなくていいものは、もう見えない。でも、見えたことがあるという事実だけが、鼻の上に重さとして残っている。

 このメガネをかけて、大学に行きたい。

 なんとなくだけど、そう思った。


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