明君(三) 恩師
皇帝になって三年が経ち、劉宏は元服した。十六歳になっていた。もろもろの行事を終えて一息ついた頃、最も信頼している宦官の張譲が一通の文書を持って来た。子供の頃に教えを受けていたあの講師からの書簡だった。講師の記憶の中では劉宏はまだ十歳のままなのかもしれない。平易な文章で「どうすればまともになるのかという質問を受けていましたね。答えがみつかりました。太平清領書を使います」と書いてあった。
『太平清領書』は読んだことがある。順帝の頃に宮崇という者が納めたものが書庫にあり、青と赤の派手な彩色が目について手に取った。内容は取り立てて目新しいものでもなかったが、「承負」という概念が気に入った。上古以来あまたの人々が少しずつ間違ったことをしてきたために世界の本来のあり方が損なわれており、現在の世の中が悪いのは今を生きる人のせいばかりではない、ということだと理解している。次の箇所は劉宏のためにあるような文章だと思った。
今や下古、帝王に万万人の道徳有り、仁思天心を称すと雖も、兇の絶えざる所以は、乃ち承負なり。災乱以て来たりて独り積久す。愁い自ら苦しみて之を念じ、其の一理を楽しまんと欲すと雖も、変怪盗賊万類、夷狄猾夏、乃ち先王の失にして、一人の独り致す所に非ず。当に深く其の本を知るべし。是を以て天吾をして書を出しめ、帝王の為に承負の過を解かんとす。
『太平清領書』は、代々の帝王によって積み重ねられた「承負」の過失を解くためにあるのだ。
講師の書簡は簡潔すぎて分からない。詳しい話を聞くために宮中の私室に呼んだ。六年ぶりに会う師は以前より日焼けして、体つきもがっしりとしていた。布教活動で外を歩くことが多いのだという。
「布教活動、ですか?」
「うん。太平道という宗教を興したんだ」
劉宏が皇帝になっても昔と変わらない口調で話してくれるのは嬉しい。師は一生、師である。だが「宗教」と聞いて落胆した。現実的な世直しではなく、心を救うだけなのか。劉宏の心中を見透かしたように、師はくすくすと笑った。馬鹿にしているのだろうか。
劉宏が苦言を呈そうとすると、師は笑いを収めて言った。
「流民を吸収して、良民に戻す」
「え?」
「太平道の力で流民を吸収して、国家の良民に戻すよ。暮らしがたちゆかなくなって流民になる人が後を絶たず、耕作放棄地が増えているから、この状態を長く続けていてはいけない。私が流民をまとめて、君が彼らに土地を割り振ったらいいんじゃないかな。耕作が軌道に乗るまで相応の援助をしないといけないけどね。金も私が集めるよ」
「そんなこと、できるんですか?」
「できそうだよ。『蒼天乃ち死す』という言葉を聞いたことはあるかな?」
「はい。生活苦に絶望した民の恨み言として、この世の終わりだという意味合いでささやかれている言葉です」
「この言葉の背景には終末思想がある。世の中がどんどん悪くなって、いよいよ世界が終わると思っているんだね。太平道の教えはこの不安に対応できる。過失が積み重なっていくことを太平道では『承負』と呼んでいて、それを放置すれば世界は終わってしまうけれども、行いを正せば建て直せるという教えだからね」
「思想で流民がついてくるとは思えません」
「病気平癒のまじないや房中術もあるから、分かりやすいところから入ればいいんじゃないかな。『太平清領書』が説くのは保守的でしっかりとした思想だから、まずは知識人に教えを説いて味方になってもらうつもりだよ。そうするとお金を出してくれるからね。それを元手にして互助組織のようなものを作れば、流民は喜んで仲間に入ってくれると思う」
「知識人への布教はどのようにするのですか」
「一人一人の悩みや志に応じて太平道の教えを伝えるだけでいいと思うよ。『太平清領書』はよくできているからね」
「教えが良いだけで金まで出すものでしょうか」
「心が動けばね。『太平清領書』の思想に心が動かない人はいないと思うよ。どんなに間違ったことがあってもいつでもどこからでもやり直せるという、勇気が出る思想だからね」
劉宏が書庫で見つけた『太平清領書』を読みふけってしまった理由もそこだった。こんなにひどい世の中でもまだやり直せるなら、どんなことでもしようと思ったのだ。
ただ、何をやればいいかが分からなかった。この日、師はそれを示してくれた。
この年に疫病が流行した。病気平癒のまじないを含む布教は大いに受け入れられたようだ。翌年には師の名前は宮中にまで聞こえてきた。
大賢良師張角、善道を以て天下を教化す。
張角。それが師の名前である。
延熹五年 長沙、零陵
延熹六年 桂陽
延熹八年 桂陽、零陵
延熹八年 渤海
延熹九年 広陵
延熹十年 廬江
建寧三年 済南
熹平元年 会稽
過去十年間に異民族の蜂起を除いてもこれだけの反乱が起こっていた。だが張角の名前が宮中まで聞こえてきた熹平元年を境に、反乱は起こらなくなった。
歴史改変や歴史ifのつもりはなく、正史の解釈からひろげた話を書いています。あとがきで説明させていただきますね!




