明君(一) 政道の根幹
劉宏は可能な限り母と正室と息子とともに食事をとることにしている。膳の上には具の少ない汁と、青菜の和え物と、蒸した鶏肉、丸く盛られた粟が載っている。腹を満たすには十分だ。料理人の腕もいい。
今日はこの他に、中央の台の上にみその詰まった形のよい蟹が二杯載っている。母の董氏はそれを眺めると眉間にしわを寄せた。
「蟹なんて、高いんじゃないの」
倹約家で口うるさい愛情深い母である。
「献上品です。気にせず味わいましょう」
「たった二匹だけ?」
「木箱いっぱいにあったのですが、ほとんど痛んでしまっていたそうです。この二匹は生きていたので心配いりません」
「誰なの? 担当は。ぬかってるわね」
忘れ去られた皇胄として地方にいた頃から母の感覚は変わらない。劉宏が皇帝になってしまった今、人の責任を追及することは軽々しくはできない。人の命にかかわるからだ。劉宏はとりなすように笑顔を浮かべて促した。
「食べましょう」
劉宏は給仕に命じて一杯の蟹を董氏の皿に運ばせた。
「封諝、殻を取ってちょうだい」
「かしこまりました、太后様」
宦官の封諝がほっそりとした指で、だが力強く殻を外す。劉宏の横では皇后の何氏がむっつりとした顔で目線を横にそらしている。四人の食卓に蟹が二杯。蟹を食べるのは皇太后と皇帝だけだと思っているのだろう。
給仕がもう一杯の蟹を劉宏の前に持って来た。劉宏は蟹を手に取り、自分で二つに割って、片方を何氏の皿に載せた。何氏は目を見開いて劉宏の顔を見た。そしてにんまりと微笑んだ。この人の好きなところは、笑顔が人に迎合するためではなく自然に喜んで出ているであろうところだ。気性は激しいが素朴な人である。
劉宏は皇子の劉協に向かって言う。
「孝悌の心は人として生きていくうえでの根幹だ。弟は兄を、子は父を敬う。その心がけを国という単位に敷衍して、臣は君に忠を尽くし、天下の秩序が保たれる。このことはよく知っているね?」
「はい」
劉協はまだ三歳だ。おとなしく座り、話しかけられれば返事をするだけでも奇跡である。話の内容が理解できるとは思えない。だが心に刻んでおいて欲しいことは幼いうちから耳に入れるのもいいだろう。
「しかしその秩序を保つには、上に立つ者が徳を持っていなければならない。兄が弟から奪い、父が子を虐げ、君が臣に暴虐を働くようでは、忠も孝も悌も、尽くしたくても尽くしようがないからね。君、父、兄という立場にある者は、臣、子、弟を慈しまなければならない」
劉宏は給仕に命じ、自分の皿にあった蟹を劉協の皿に運ばせた。横に控える乳母の呂氏が劉協の手を押さえながら耳打ちをする。
「父上が召し上がってください」
その対応は間違いではないが乳母の言いなりになるくせがつくのはいいことではない。数年で引き離すのがよかろう。
「私が協にゆずったのだよ。これは慈だね」
董氏が舌打ちをした。
「封諝、これの半分を陛下に」
「かしこまりました、太后様」
封諝は給仕に蟹を半分に分けるよう指示を出そうとした。
「まどろっこしい。あなたが手で割ればいいじゃない」
封諝は「私の手で割ってよろしいんでしょうか」と問うように劉宏の顔をうかがった。劉宏は笑みを浮かべて言う。
「殻の外し方が上手いと思っていた。そのまま続けるように」
封諝は蟹を割り始めた。董氏は自慢げに言う。
「封諝は何をやらせても器用なのよ」
ずいぶんと封諝を気に入っているようである。
二杯の蟹が四人の皿に半分ずつに分けられた。まどろっこしい手順を踏んだが、単純に四人で蟹を分け合いたかっただけである。
劉宏の家族の仲は決して悪くない。だが政治的に難しい。劉協の上に息子がもう一人いる。何氏が生んだ長子の劉弁である。宮中はなにかと不穏で赤子が無事に育たないため、道士に預けて外で育てさせ、現在に至る。
いま蟹を分け合った三歳の劉協は側室の子で、生母が早くに亡くなったため皇太后が養育している。つまり皇帝劉宏、皇后何氏、側室の子の劉協、劉協を養育している皇太后董氏がここにおり、皇后が産んだ長子劉弁は外にいる。宦官たちは先を見据えてすでに太后派と皇后派に分かれている。だから劉宏は可能な限り董太后と何皇后と劉協とともに食事をとることにしている。当事者同士が毎日のように顔を合わせて馴染んでいれば、万が一難しい状況になっても残酷な事態は避けられるかもしれない。
もっとも、劉宏は難しい状況など作らないつもりである。劉弁が嫡長子なのだから早々に宮中に呼び戻して皇太子候補として遇すればよい。だがその前にやるべきことがある。




