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忠臣(一) 涼州の御曹司

洛陽から千七百里。十一月の(りょう)(しゅう)にはもう氷が張っている。(こう)()(すう)は自室で木簡を開いていた。それを握って席を立ち、部屋を出て、回廊を渡り厨房まで歩いて行くと、(かまど)で燃えている火の中に木簡を投げ込んだ。夕餉(ゆうげ)の支度中の使用人たちが迷惑そうに皇甫嵩を見ている。前触れもなしに屋敷の主人が立ち入るべき場所ではないからだ。


部屋には火盆があったのだがわざわざ厨房まで来た。一刻も早く灰にしたかったからだ。裏切られたような気分だった。十年ぶりに親友から届いた書簡は宗教の勧誘だった。


燃えていく木簡を見ながら筆跡を思い出す。太学時代と変わらない、勇躍するような瑞々しい筆致であった。元気に過ごしているようだ。


太学ではろくなことがなかった。初日からさんざんだった。(もう)(しん)からの乗合馬車が洛陽手前五里の地点で故障して大荷物を引きずって歩くはめになったうえ、城門で不審がられて止められ荷物を漁られて持ち物がいくつかなくなってしまった。太学は洛陽城外にあり、そこに学生宿舎があるのだが、満室のため、皇甫嵩が入ったのは城内の民間の宿舎である。二人部屋を一人で借り切った。日暮れ時に到着して荷ほどきをしていると、見るからに軽薄そうないでたちの三人連れが部屋をのぞきにきた。


「君、いま来たばかりだろう? 僕たちの仲間に入れてやるよ」


疲労と空腹で不機嫌だったうえに彼らの口調も立ち居振る舞いも気に入らなかったので、何もとりつくろわずに返事をした。


「入れてやる、とは目上の者が目下の者に与える恩恵のような言い方だけど、君たちはそんなに偉いのかい?」


「ふふ、べつに偉くはないけどね。()(よう)と知り合いだよ。言葉を交わしたこともある」


言葉を交わしたことがあるだけで何だというのか。


「なるほど。親切にありがとう。着いたばかりで様子が分からないから、後でまたお願いしたくなったら相談させてもらうかもしれない」


「品定めしたうえ、いつでも声をかければ仲間に入れると思っているのかい? 君こそずいぶん偉そうだね。まあいいさ、いつでも声をかけてくれてかまわないよ」


三人連れは部屋から離れて行った。その向こうに何人かがたむろしている。


「誰あいつ?」


(こう)()()の甥だよ」


「ははは、強そう」


皇甫氏が羌族(きょうぞく)の鎮圧で功を上げてきたことを「強そう」と言ったのだろう。それを荒事に手を煩わせてきた田舎者だと笑うのだ。


気を取り直して荷物を片付けた。さしあたってすることがなくなり、床の上に一人で座った。明かりを点けずに作業していたが、もうすっかり暗い。建物の外は人通りがあってにぎやかだ。自分とは全く関係のない物音だ。夕食時だが、土地に不案内である。一人で探索してもいいが、ぼられでもしたら面倒だ。要領のいい者なら到着早々に連れを見つけるのだろう。


太学での成績優秀者には百人程度の枠で仕官の口があるが、皇甫嵩はそこを狙ってきたわけではない。太学に入らずとも仕官するあてはあるし、教育を受けることもできる。太学には人脈を作りに来た。皇甫嵩がそれをやりたいわけではない。一族から担わされたのだ。涼州で大きな功績を上げても高い学識があっても、名士の中で声望が上がるわけではない。叔父の皇甫規は功績、学識、節操において一定の評価を得ているが、それをさらに強化したいようだった。


洛陽に着いたらこの人を訪ねるようにと言われている相手が何人もいるし、先方からも、孟津に到着する日を知らせてくれれば迎えに行くと言ってもらっているのだが、何も連絡せずに一人で洛陽に入った。今からでも訪ねて行けば迷惑そうな顔を見せずに夕食をごちそうしてくれるだろう。


道中おなかが空くこともあるかもしれないと母が持たせてくれた、(あわ)胡麻(ごま)でできたカチカチの美味くもない餅を食べて済ませた。若かったからだ。親の知人にまともに挨拶もできないような若者特有の変な自意識である。賑やかな都市の中心で非常食が役に立つ時が来るとは思っていなかった。


入学手続きは知人が済ませてくれているので、翌朝からさっそく講義を受けに行く。太学構内に入ったものの、講堂の場所が分からない。敷地内には二百以上の建物があるそうだ。時間近くなれば講堂へ向かう人波ができるだろうと思っていたが、学生たちは三々五々、のんびりと談笑したり(まり)を蹴って遊んだりしており、一向に講堂へ行く気配がない。木陰で何か相談しながら書き物をしている真面目そうな学生たちに尋ねた。


「すみません、講堂はどこですか」


「ここをずーっと真っ直ぐ行けば分かるよ。そこの木で隠れてるけど、大きな建物だから。でも今から行っても入れないんじゃないかな」


入れないということがあるのか。


「ここにいる人たちはみんな講義を聞かない人たちなんですか」


「だろうね。あまり真面目に講義を聞く人はいないよ。目新しい内容もないし、早めに入らないと何も聞こえないからね。講義なんかより、君も一緒に(げき)(ぶん)を書かないか」


「なんの檄文ですか?」


「宦官誅滅を呼びかける檄文だよ。腐った連中が政治を腐らせているからね」


「よく分からないので、講堂のほうに行ってみます」


朝から脳みそが腐りそうだ。


歩き出すと講堂はすぐに見えてきた。大きな建物だが、建物の外まで学生が溢れている。建物近くに立っている学生は熱心に耳をそばだてているが、輪の周縁部にいる学生たちは聞くのを諦めてふざけ合っている。皇甫嵩は少しずつ輪の中心部ににじり寄ってみたが、どうやら『尚書(しょうしょ)』「舜典(しゅんてん)」の話をしているらしいとかろうじて分かっただけだった。


誰とも交流せず、講義も聴かず、自分は何のためにここにいるのだろうか。講義が終わり思い思いに歩いて行く学生たちの波にもまれて方向を失いながら、自分が今この場所から消えても誰一人として気付かないだろうと思った。この広い太学には、三万人もの学生がいるのだ。


次回でこの小説のキーパーソンが登場します。


正史『後漢書』党錮烈伝に「諸生三萬餘人」という記述があります。当時の太学生たちが人脈作りに明け暮れていた様子も見て取れます。

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