偶像(六) 密書
唐周が理解した様子を見てとって、馬元義は語を継ぐ。
「太平道の思想は今文学の系譜にあるから、世間で長らく言われてきた『蒼天乃ち死す』という言葉を今文学の文脈で解釈するんだ。獲麟の故事について、公羊伝には薪拾いをしている人が麒麟を捕まえたとある。今文学では、麒麟は木徳、薪拾いは火徳であるから、獲麟の故事は木徳の周の秩序が衰え、火徳の漢による秩序がもたらされる予兆であると解釈している。木徳の色は青だ。『蒼天乃ち死す』とは、漢の隆盛を待ち望む声だということになる」
ああ、最初に標語に対する感想を求めた時に、この話をしてくれればよかったのに。
「太平道の経典に『帝王のために承負の過を解かんとす』とあるように、太平道が説くのは勤王の思想だ。『上火精道徳の君に付せしむ』とあるように、太平道が盛り立てるのは火徳の漢だ。首領が皇帝を称する集団が多い中で、太平道の教祖の天公将軍という控え目な称号を見れば、革命の意志がないのは明らかだ」
教祖に革命の意志があると考える余地を容赦なく潰してくる。これが本気を出した時の馬元義の話し方なのか。
「それは信徒に周知したほうがいいんじゃありませんか。教祖が革命を目指しているのに馬大方が圧力をかけて止めているように見られていますよ」
「現状、革命を起こすことが希望だと思っている信徒も多いから、教祖と俺で意見が割れているという体にしておいたほうがいい。維新の方針が理解を得られなくなった時には俺を破門にするだけで話が終わるからな」
……馬元義だけは誠実だと思っていたのに。
「やっぱり、欺瞞に加担するんですね、あなたも」
結局は騙すのか。革命を起こすことが希望だと思っている信徒に配慮するのなら、標語を止める必要もなかったではないか。どうせ嘘つきなのだから!
唐周は駆け出した。まる一日前にも同じように走っていた。だがその唐周と今の唐周は同じではない。標語の書いてある本殿の前に至る。前日の今頃にも同じ場所に立っていた。だがその唐周と今の唐周は同じではない。後ろから影のように近づく人物がいる。
「馬元義の本性が分かったかい」
唐周は荒い息をつきながら答えた。
「あれはとんでもない食わせ者ですよ。人を欺いて使役するとは実に許しがたい。いや、断じて許せぬ! なにが兄さんありがとうだ、あのあばずれめ! 焼くべきはこの本殿じゃない、馬元義だ!」
唐周は支離滅裂なことを言っている。しかし影の男は優しく唐周の肩に腕を回して言った。
「わかるよ。一緒にやろう」
教団本部は向かい合った二つの山を利用した要塞になっている。両方の山にそれぞれ千人程度の信徒が暮らしている。教祖がいて本殿があるのは北側の山だ。唐周に絡んできた六人連れは革命推進派の中心人物で、彼らの仲間は北側の山だけで三十人近くいるそうだ。唐周はそういう派閥があることを知らなかったが、太平道は革命を起こすべきだと自然に思っていたので、彼らの宣伝は浸透しているといえよう。
その彼らが目の敵にしているのが馬元義で、常時監視しているという。唐周が馬元義に接触するたびに彼らが絡んできたのも道理である。
馬元義が拠点にいることはあまりない。どこの侠客かと思うような黒い氅をまとって五十人程度の帯刀した一団を引き連れて出かけることもあれば、どこの紳士かと思うような絹の袍を着て数人だけ連れて出かけることもある。県城の支配を固めたり要人と会ったりしているのだろう。五十人程度の帯刀した一団というのは彼らだけで何かをするのではなく、行った先の信徒が組織的に行動できるよう指揮をとる係だ。
革命推進派の監視に加わるようになって分かったことだが、馬元義は誰にでも優しい。一人一人とのやりとりを一瞬たりともおろそかにしない人物である。馬にまで優しい。帯刀の一団を連れて何かの作戦に出かけた後に何の取り柄もなさそうなどこかの子供を拾って帰って来たのには驚いた。どこも流民ばかりなのに、いちいちそんなことをしていてはきりがないと思う。なんの得にもならないのに信じがたい。無私であるとしか言いようがない。
あれは従姉妹と比べるべきものじゃなかった。あれは、誰のものにもならない偶像だ。馬元義に対しては敬意しかない。
季節は移ろい冬を迎えている。落ち葉を敷いた寂しい木の下で、馬元義が拾ってきた子供がぽつんと座って夕日を眺めている。きっと家族はもういないのだろう。ここでも一人なのだろうか。他人のようには思えず、唐周はおずおずと子供の側に近づいた。子供は不審げに唐周を見上げた。
「あ、ここ、いい眺めだね」
「うん……」
風景など全然見ていないようだ。眉間に皺を寄せて物思いに沈んでいる。
「お腹でも痛いの」
「……絹って、お金と同じだよね」
「そうだね」
絹は物を買う時にも使える。貨幣の一種と言えよう。
「毎日たくさん桑の葉を取って蚕に食べさせて、糸を取って織って。すごく手間がかかるのに」
「だから価値があるんだろうね」
「そんなものを、すぐ燃やしちゃう手紙を書くのに使う人がいるんだ」
この子供は貧しい暮らしをしてきたのだろう。感覚の違いに打ちひしがれたのではないか。しかしそんなことよりも唐周には気になることがあった。
「すぐ燃やすような手紙が絹に書いてあるのかい?」
「うん。馬大方が焼いてるの見た」
「そういう手紙はよく来るの?」
「知らない。一回しか見てない」
絹に書いた手紙……すぐに焼却する手紙を、絹に書く人間?
「何の手紙か聞いた?」
「ううん。部屋に入ったら、扉が閉まっていて中に人がいる時は勝手に入ってはいけないっていう礼儀の話をされて、べつに怒ってなかったけど怖かったから何も聞かなかった」
そういう姿は想像がつく。勝手に入って来るなと叱りつけたい気持ちをぐっとこらえて優しく説明する馬元義は確かに怒ってないけど怖かったろう。
「他には誰もいなかったのかい?」
「うん。お客さんがいたら勝手に入らないよ」
密室で一人で処分する絹の文書とは尋常ではない。密書……密詔……?




