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偶像(五) 太平道の根幹

翌日は夜明け前に部屋を抜け出した。朝になればあの六人に捕まるかもしれないからだ。特に行くあてもないので昨日見た厩舎の中にもぐり込んだ。動物しかいない場所はいい。


外が明るくなると馬元義が入って来た。これを見たくてこの場所にいたのかもしれない。厩舎の中が薄暗く外が明るいので、入って来る時に光を背負って来るだろうと思ったのだ。それが見たかった。光を背負っているので表情が見えないが、侵入者を見て少し面白いと思っているような声でこう言った。


「馬に警戒されているぞ」


そうだったのか。馬に悪いことをした。馬元義は手に持っていた何かを唐周に手渡した。


「馬のおやつだ。あげると友達になれるぞ」


(なつめ)の実だ。丁寧に種を取ってある。言われるがままに馬に与える。ごりごりと音を立てながら食べている。馬の感情表現は全く分からないので喜んでいるのかどうかも分からない。馬元義は唐周に構うことなく飼い葉桶を覗いたり馬の蹄を調べたりしている。


「……誰も信じられないんです」


自分はなんの話をしているのだろうか。


「自分のことも信じられないんです」


「おー、それは辛いなあ」


さほどのこととも思わぬ様子で馬の毛をといている。


「馬大方はそういう時あるんですか」


「ずっとそうだぞ」


「嘘ですよね」


「自分が生きていてよかったのかとずっと思ってるんだ。だから毎日よかれと思うことをやってみてる。誰か一人でも幸せにできれば生きていたかいがあったと思えるだろ」


「人間って、何があれば幸せになるんですか?」


「小さいことでいいんじゃないか? 飯がうまかったとか日差しが気持ちいいとか」


「じゃあなぜ料理人にならないんですか?」


「料理人か……」


料理人という選択肢についてまじめに考えるような表情をしたので笑ってしまった。馬の毛をとかす様子をしばらく眺めた。朝食の時刻を告げる鐘の音が聞こえた。急に恥ずかしくなったので走って逃げた。


朝食をもらう列に並んでいると、


「師弟」


と声をかけられて肩をつかまれた。この男の体臭まで覚えてしまった。不快である。


「さっき馬元義と何を話していたんだ?」


こう言いながら列に割り込んできた。


「べつに何も。馬に棗をあげると友達になれるとかです」


「君は馬よりも簡単らしいな。あの男から何をもらって手懐けられたんだ?」


「失敬な」


「まあ分かるよ。個人的に話しているぶんには感じいい人だからな。ほだされるなよ。人をたらし込んで利用することしか考えていない男だ」


「何を根拠に」


「君の文才を封じたいんじゃないか」


「あの標語は教団の方針に合わなかったんです。師父から直接聞きました」


「言わされたに決まってるだろ。いったん承認されたのに馬元義が来たら止められたんだぞ。革命推進が教祖の本意だ。あの男は荊州・揚州の地盤を笠に着て教祖さえもないがしろにしている」


「そんなふうには……」


「まだ分からないのか? そうでなければ最初に標語が承認されたことに説明がつかないだろ」


朝食の列を抜け、標語の書いてある本殿の前に行く。誰も信じられない。この建物を焼けばいいのだろうか。それとも、拠点を山ごと焼くか。山を焼き討ちするためにはどんな準備をすればいいか、具体的に考える。どういう道具を用意するか、どこで調達するか。計画を考えていると少しは気持ちが慰められる気がした。


修道をうちやって一日じゅう山の中をぶらぶらしていたら夜になった。拷問のように満天の星である。寒さと風が心を落ち着かせてくれた。空腹も疲労も眠気も感じず、むしろ覚醒してくるようである。東の空がぼんやりと青くなるのを見て、馬元義に確認してみようと思った。


厩舎の中に入るのも入口の前に立つのも気が進まないので入口の反対側の窓の外で待機する。空が明るみを増した。(ひばり)が鳴いている。確信に満ちた足取りで傾斜を踏む音が近づき、厩舎の中に入った。馬に優しく話しかけている。


――君は馬より簡単らしいな。


あの男の不愉快な声を脳裏から払うように窓の中をのぞく。横顔が見える。板を一枚距てているだけなのにとても遠く感じる。窓の一部が覆われたことで中に入る光の加減が変わったからだろうか。馬元義は唐周のほうに顔を向けた。あの落ち着きのある中低音で言う。


「一晩中(みぞ)に填まったまま抜けなくなっていた狸みたいな顔をしているぞ」


そんな狸を見たことがあるのだろうか。馬の世話を中断して唐周のほうに体を向けた。唐周は切羽詰まった声で言う。


「革命ではなく天子の(まつりごと)に力を取り戻すという方針はいつ誰が言い始めたのですか」


「教祖が太平道を興す前からだ。今そっちに行く」


馬元義はさっと外へ出て、厩舎を回り込んで唐周の前に立った。見たこともない冷厳な顔つきをしている。


「教祖は宗教家である以前に憂国の士だ。()に在っても心は漢の忠臣だ。太平道の言う『根本を念ぜよ』とは『礼記』にある『物に(いた)れ』のことで、太平道の根幹は大学の説く格物(かくぶつ)から始める平天下だ。方法は革命ではなく維新だ」


すごいことを言う。太平道の根幹が「大学」だとは。馬元義が『礼記』を持ち出したことにも驚いた。言及箇所は『礼記』「大学」で、「物(いた)って(のち)(いた)る。知(いた)って(のち)(まこと)なり」云々とあって、最後が「天下(たい)らかなり」だ。俗に、人間の生き方の基本は忠孝であると理解されている一節である。「維新」については「(しゅう)旧邦(きゅうほう)なりと(いえど)()(めい)()れ新たなり」とあり、歴史ある国に新たな息吹が吹き込まれるという意味だ。


太平道の根幹が「大学」なら、太平をもたらす方法は、維新。

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