表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/23

偶像(二) 誤解

六年前の(こう)(がい)からか、十年前の疫病の流行からか。それとももっと前からなのか。流民は増える一方で、天下が乱れて久しい。漢の天命はもう尽きている。絶望する民を慰め流民を吸収してきたのが太平道だ。これが「蒼天已に死す、黄天当に立つべし」という状況だ。一刻も早く天下に秩序をもたらすために、漢を潰さなければならない。あの標語は革命を加速させるための狼煙(のろし)になるはずだ。なぜ止める?


鉅鹿(きょろく)の西北八十里の地点にある教団本部は山中の要塞である。少ない平地を利用しながら建物が点在しているが、本殿は頂上付近の広い台地にある。この台地の端にある柏の樹の陰に座って読書をするのが好きだ。今日は『(せん)()(ろん)』を読んでいる。引用やたとえ話が多すぎて読みづらいが内容は良い。


昼下がりの黄色い日差しが台地に注いでいる。季節が進んで、もう蝉はいない。木立からは山雀(やまがら)のさえずりが聞こえている。下のほうから数人が談笑しながら台地へ登ってくるようだ。その中に、ここ一ヶ月頭から離れなかった声が混ざっている。あの男が来ている。近づいてくる一団の声を聞きながら、唐周の目は木簡の上を滑って行く。『潜夫論』を巻いて閉じ、立ち上がった。


一団が台地に至り、本殿に歩いて行く。離れて行く後ろから唐周は呼びかけた。


「馬大方!」


呼んでから怖くなった。自分は何を話すつもりだろう? 馬元義は颯風とともに振り向いた。同行者たちに手で先へ行くよう促すと、一人でこちらに近づいてくる。怖い。おおらかな表情で


「唐()(てい)


と応じながらあの武人の拱手をする。顔も名前も覚えられている。こちらも礼を返す。目の前まで来た。こちらの発話を待っている。唐周ははるかに本殿のほうを指さした。


「私の書いたあの標語ですが、どこか気に入らないところがありましたか」


馬元義はすーっと息を吸い込むと、少し憂いを含んだなんとも優しげな微笑を浮かべてこう言った。


「あれは君が考えたそうだな」


喉が締め付けられたようだ。なんとか声を出す。


「そうです」


馬元義は小さく頷いた。


「率直に言う。気に入らない部分はある。それを言う前に、まず、いいと思うところを言っておく」


最初に褒めてから批判するのか。本題から入ってもらうほうがいいのだが。


「あの四句は簡潔ながら、甲子の年に世の中が良くなるという希望が伝わってきていいな。難しい言葉を使わないところがいい」


その通りだ。あなたぐらいの教育水準の人に分かるように書いた。


「最初の二句も対句になっていて感じがいい。詩のことはよく分からないが、俺くらいのやつがいいと思うくらいがちょうどいい匙加減なんじゃないか? あまり難しいと分からない信徒も多い。小難しい美文調で書くよりよほど高度なことだと思う。お利口さんなだけの人に頼んでもああはならない」


唐周が気を配った部分を的確に言い当てている。こんなに喜ばせておいて、これからけなすのか。


「それで、気に入らない、というか困る部分なんだが」


聞きたくない。いや、聞きたい。


「あれが文字で出回ってしまうと実務的にまずいことになる。現状、各地での協力体制の構築と資金確保の過程で時々違法行為に及ぶことがあるのは知っているな?」


「はい。ぬるい手段では何もできませんから当然です」


「関係各所にあらかじめ話を通しておけば摘発されないが、万が一摘発されても信徒のつてをたどれば裁判を長引かせることができる。朝廷では秋の終わりになると恩赦を出すかどうかが議題に登ることが通例で、これも信徒のつてをたどれば恩赦を出すほうに決議を誘導することが可能だ。この手があるから大胆な行動に及ぶことができる。しかしこれは困窮したどこかの賊の暴動という形で処理される場合の流れだ」


馬元義は憂わしげな表情で語を継いだ。


「あの標語の最初の二句があるとそうはいかなくなる。蒼天(すで)に死す、黄天(まさ)に立つべし。これは漢にかわって太平道教団が天下を牛耳るという意味ととられかねない文言だ。これをかかげると、ただの暴徒ではなく、国家転覆を企てる叛徒として処理されてしまう。大逆罪には恩赦は適用されないから、捕まった者はみんな死ぬことになる。それは避けたいので、あの二句は文字として外へ出してはいけないと思っている」


「それは逆ではありませんか」


「逆?」


「あの句をかかげれば、誰にも退路はなくなります。命がけで革命を成し遂げるしかありません。革命を加速させるための秘策です」


「本気で言っているのか」


「もちろんです」


馬元義はふと顔をそむけ、目を閉じてふーっとため息をついた。手を固く握りしめている。何か気に入らないのだろう。そのままの格好でもう一度ため息をついた。


「なんですか? 思ってることがあるならはっきり言ってください」


もう一度ふーっとため息をつくと、落ち着いた表情でこう言った。


「太平道で世の中を良くする、という目的を達成するために、どういう方法を採るのか聞いたことはあるか?」


「漢王朝を潰し、腐敗した役人を一掃します」


「誤解があるようだ。三師叔(さんししゅく)に説明してもらおう」


三師叔とは唐周の師の張梁のことだ。馬元義は唐周を連れて後殿のほうに歩き出した。途中まで東に向かっていたが、


「まず師父(しふ)に相談する」


と言って北に進路を変えた。馬元義の師父とは教祖の張角(ちょうかく)である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ