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偶像(一) 邂逅(かいこう)

太平道に帰依したきっかけはささいなことだった。邸宅の同じ敷地内に母方の従姉妹が住んでおり、いつも唐周(とうしゅう)に親しげに接していた。事あるごとに唐周を頼りにして、助けてやると大いに感謝するのであった。自分がいてやらなければ生きていけないかのように唐周は思っていた。


その女がよその男と親しくするようになった。さりとて唐周との接し方も以前と変わらない。あたかも便利な使用人のようである。もう一人の男には唐周に見せたこともないような表情を見せている。そこで、心底つまらないものだと思い、(こう)(ろう)の道を学び始めた。太平道に出会うのに時間はかからなかった。


出家信者になったのは二年前である。中心的な指導者には高い教養を持つ人も多いように思う。しかし教団全体で見ると、読み書きのままならない信徒のほうが圧倒的に多い。詩文と書の才がある唐周は重宝された。所を得た思いで過ごしている。


空気に秋の気配を感じるようになった。まだ強い日差しが地面を白く晒している。孤独な蝉が断続的に鳴き声をあげている。教団本部の(ほの)(ぐら)い主殿の中に、見知らぬ男が一人立って、唐周の書いた四句を眺めている。


蒼天已死(蒼天(すで)に死す)

黄天当立(黄天(まさ)に立つべし)

歲在甲子(歳は甲子に在り)

天下大吉(天下大吉なり)


太平道の標語として壁に大書したものだ。あの句を作るのには知恵を絞った。社会不安を象徴する句として流布している「蒼天(すなわ)ち死す」を利用しながら、無学な者にも分かりやすい文字と表現で、甲子の年に起こす革命を予告し太平の世がおとずれる希望を与える。信徒の狂熱を誘うものとして、この夏に承認を得たものだ。


男は壁に向かっている。唐周には背中を向ける格好だ。それでも「見知らぬ男」と認識できたのは、唐周がこれまでに見たこともない風格が後ろ姿に漂っていたからだ。唐周はそっと主殿に上がり、不思議な気持ちで男の背中を眺めた。


何を思ったのだろう。突然、決意に満ちた様子で振り向いた。獲物を狩るために動き出した豹のように。射るような眼光、冷徹な闘気、有無を言わさぬ威圧感。突風に吹きつけられたようだ。唐周は息を呑んだ。男は人がいることに気付くと瞬時に穏やかな表情になった。


「はじめましてだな?」


なんと渋い声だ。少しかすれた中低音。


「……はい」


突風で喉が締め付けられていた。声を出すのに苦労した。何者だろうか。初対面で、互いに何者かも分からないのに、横柄な口のききかたである。


(けい)(よう)(たい)(ほう)()(げん)()だ」


男は拳に手の平を当てて武人のようなあいさつをした。荊州(けいしゅう)揚州(ようしゅう)方面の統帥の馬元義。この男が馬元義なら最初の言葉が横柄だったのも分かる。教団に馬元義より目上の人間は教祖とその兄弟しかいないのだ。その地位からすれば気さくに挨拶してくれたと言えよう。さて、自分のほうにはとりたてて名乗るほどの肩書きもない。拱手(きょうしゅ)して自己紹介を返す。


()(たい)()の弟子の唐周です」


教祖張角の直弟子ではなく、末弟の(ちょう)(りょう)の弟子である。


「あの、この句、どうでしたか?」


「うーん……」


馬元義は腕組みをして、渋い顔でしばらく句を眺めた。読めない文字があるのかもしれない。


「とりあえず、字が上手いな」


「自分が書きました」


「へえ、すごいな」


馬元義は素直に感心したようだった。


「いえ、こんなの普通です」


「いや、上手い。やみくもに練習してもこうはならねえ。自慢しろ」


書には自信がある。


「自分で言ってしまうと説得力がないので……」


これを聞いた馬元義はふっと笑うと、唐周の肩をバシッと叩いてすたすたと歩いて行ってしまった。小癪な奴だと思われたのか、それとも自信を持つのはいいことだという意味なのか。おそらく後者だ。手の感触で分かる。こういう荒々しい表現方法には慣れていないが、悪くないと思った。叩かれた肩が熱気を持っていつまでも残っている気がした。


夕方に唐周は師の張梁に呼ばれた。作法通りに拝礼する。張梁は手振りで唐周に近くへ来るよう促した。


「君が作ってくれたあの標語ね」


「はい」


「あれは外部には出さないように厳重に扱うことになったよ」


「はあ」


どんどん広げればいいと思うが。


「何か問題でもありましたか」


「朝廷の目につくようなことは避けたほうがいいという話になってね」


これから潰す朝廷のことを気にかける必要があるだろうか?


「それはどなたがおっしゃっていたんですか?」


「みんなで話していて、そういう話になったよ」


みんな、というのはどの「みんな」なのか。おかしい。「蒼天(すで)に死す、黄天(まさ)に立つべし」という文言が朝廷を刺激するものであることは、最初から誰の目にも明らかだったはずだ。今日まで誰も指摘しなかったのに。――あの男か!


「馬大方ですか?」


「みんなだよ」


ごまかすのが下手だ。というより、ごまかす気はない。馬元義の発議でそうなったが追及するなという戒めだ。


初対面の挨拶を交わす前、標語を眺めていた格好から恐ろしい顔で振り向いていたが、あれは標語に対する不満の表情だったのか。よほど気に食わないのだろう。馬元義の持ち場は荊州と揚州で、普段はそちらにいる。あの標語は数日前に各地に向けて発布されたばかりだが、見てすぐに本部に飛んで来たのではないか。何がそんなに問題なのだろう。


問い(ただ)したかったが、もう持ち場に帰って行ったという。標語の扱いを半日でひっくり返して去った。嵐のようだ。

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