いずれ訪れる「死」について
死とは生命の終わりであり、不可逆のものである。
この地球に生きるすべては、絶対に死を遂げる。
何をしても、何を成しても、絶対に死ぬ。
僕が「人は死ぬ」というルールに気がついたのは、
友人の母親の葬式である。
僕は当時、幼く、
死というものに深い理解があるわけではなかった。
それでも、参列者が悲しみ、
本人は眠ったまま、うんともすんとも言わない。
その光景を見て、
死は悲しいものであると思った。
そしてネットの発達で、
「死ぬ」ということを学ぶと、
自分というものが消えてしまう恐怖よりも、
家族や友だちが未来に死ぬ姿を想像して、
恐怖に陥った。
大切な人が死ぬことが、
果たして自分に耐えられるだろうか。
せめて僕が死んだあとに、
みんな死んでくれないだろうか。
そう思った。
そう。
当時、あまり自分の死について恐怖することがなかったので、
「死ぬのが怖い」と必要以上に唱える人が、
少し不思議だった。
いや、どうせ死ぬのだから、
生きているときに考えても意味がないのでは。
そう思っていた。
そして月日が流れて、二十歳になったとき、
かなり大きな風邪をこじらせることがあった。
だいたい十五日くらいは全快に時間がかかって、
そのあいだは、ほぼ毎日病院に通っていた。
そんなとき、病院で座っていたときに、
急に視界が暗くなりだして、
頭が霧がかったようになり、
何も考えられなくなった。
今思い返すと、
別に大したことではなく、
十数秒で落ち着いたのだが、
そうなった瞬間、僕は
「これは死ぬ」と思った。
死ぬ。
そう思ったときに、
僕は今までにないほど強く、こう思った。
死にたくない。
絶対に死にたくない。
まだやりたいことがたくさんあるのに、
死ぬのは嫌だ。
と。
驚いた。
今まで、死ぬことになっても、
それが運命だろう、などと考えていた僕が、
こんなにも、死を目前にすると、
怖がるのだと。
それからというもの、
僕は少し考えを変えた。
たぶん、百二十歳まで生きて、
夢をすべて叶えたとしても、
死の直前に、僕は
「まだ死にたくない」と思うのだろう。
ならば、どうせ恐れるのなら、
嫌だと思うのなら、
考える必要はない。
後悔なき死など、
絶対に迎えられないなら、
もう死について、あれこれ考える意味もない。
そう考えた。
これはまた変わるかもしれないし、
ずっとこのまま生きていくのかもしれないが、
これから僕が、
どんな人生を歩んで、
どう死ぬのか、期待している。




