Ep4 まだ、ちっちゃいままだね
健司の膝がわずかに折れ、壁に手をついて支える。
急激な血の引き方に、足先が自分のものではないように震えていた。
玲子は一歩、また一歩と近づく。
その足取りは静かで、浴室の蒸気さえも怯えて逃げていくようだった。
そっと、囁くように健司の耳元に向けて言った。
「……今日は私があなたの“記念になるようなもの”を撮ろうかな」
健司の呼吸が荒くなる。
肩が大きく上下し、息が吸い切れず喉の奥でひっかかる。
「き、記念になるようなものって……」
「そのままの意味よ」
玲子の声は甘く、しかし氷のように冷たい。
甘さと冷たさが混在し、健司の鼓膜を刃物のように撫でた。
「あなたがしてきたことを……あなたがしたがってるように……私が、全部お返ししてあげるの」
健司は必死に威勢を張ろうとするが、声が震えている。
強がりが、喉の奥でうまく形にならない。
「お、俺は取締役部長だぞ! こんなことをしてただで済むと思っているのか!」
玲子は手を上げて静止させる。
指先のわずかな動きで、健司の抵抗心が完全に封じられた。
「それで恫喝しているつもり? ほんと下手ね。でもいいわ。“可愛がり方”は、これからゆっくり教えてあげる」
部屋の空気が一気に重くなる。
照明の下で健司の汗の粒が鈍く光り、逃げ道のない圧迫感が肌にまとわりつく。
健司の汗の匂いがかすかに広がり、玲子の口元には薄い笑みが浮かんだ。
「さあ――覚悟はできたかしら?」
玲子は肩をすくめ、軽く笑った。
その仕草の余裕が、健司にとっては処刑宣告に等しかった。
「先に言っておくわ。私を襲っても無駄よ。あなたが仕掛けたカメラの映像も、私が押さえた証拠も――全部クラウドに自動バックアップ済み」
一呼吸した後、玲子は口角を上げた。
「あなたが手を上げた瞬間、警察にも奥さんにも、“可愛い娘さん”にも同時に飛んでいくわよ」
健司は蒼白になり、何も言えない。
顎が勝手に震えだし、口を閉じても歯がぶつかり合って音を立てそうだった。
玲子は、はぁとため息をつくと視線を落とし、冷たい声で続けた。
「それにね……あなたの相手をするの、やっぱり嫌」
その声音には軽蔑すら混じっており、汚いものを見るような距離感があった。
「だから――自分でしなさい」
その瞬間、空気が一段階、深いところまで沈んだ。
健司の心臓の鼓動だけが異様に大きく響き、世界の音がすべて遠ざかった。
健司は息をのみ、肩を震わせる。
胸の奥で硬い何かが砕けるような音がした気がした。
玲子は一歩だけ近づき、健司の耳元に囁く。
香水の心地よい匂いが近づくのに、健司の体は強張ったままだった。
「ねえ……あなたのためにも、よ。私に反抗するのは得策じゃないし……あなたが一番よくわかってるはずでしょ?」
健司は顔も上げられない。視線は床の一点に吸い込まれたまま。
まるでその一点が、唯一の“安全地帯”であるかのように。
喉がかすかに鳴る。反論などできるはずもない。
立場も、証拠も、主導権も、全て失われた。
彼の中で“健司としての尊厳”だけが最後に残ったが、それも急速に溶けていく。
「大丈夫。あなたが“正しく”すれば、私は何もしないわ」
玲子はその言葉に、少しだけ甘い響きを混ぜた。
それが逆に、落とし穴の正体を知っている者ほど恐ろしく感じる優しさだった。
何もせずに沈黙している健司に対し、玲子はいらだちを覚えた。
「早くして。一人で出来ないんだったら、奥さんに手伝ってもらう?」
玲子は撮影する手は緩めずにハンドバッグからもう一つのスマホを取り出し、軽やかに指で操作した。
その無駄のない指の動きは、慣れた職人のようで、健司に絶望を悟らせるには十分だった。
左手のスマホのスピーカーから呼び出し音が流れ、ふいに途切れた。
「もしもし、どなたですか?」
落ち着いた女性の声が部屋に響く。その瞬間、健司の表情は蒼白になり、両手を前で大きく振りながら、止めろというジェスチャーを必死に繰り返した。
呼吸も荒く、声にならない悲鳴が喉の奥で擦れていた。
玲子は満足そうに通話終了ボタンを押した。
その優雅な動作が、健司には“処刑台のレバーを下ろす人間の手”に見えた。
「頼む、妻にだけは言わないでくれ! あの金目当てだけの女に知られたら……する……自分でするから」
「分かってくれて嬉しいわ……ねえ、その腰に巻いたタオル、撮影の邪魔なんだけど、とってくれないかな?」
鋭い視線で健司のタオルを刺した。その一瞬の視線だけで、彼の抵抗心は完全に黙殺された。
健司は何か諦めたように、腰に巻いたタオルを落とした。
タオルの落ちる軽い音が、妙に大きく響く。
数瞬のためらいの後、右手を腰の下あたりに持っていき、上下に動かし始めた。
その顔は羞恥と屈辱にまみれ、真っ赤に染まっていた。
震える指先が、自分で自分を追い詰めている現実を証明していた。
健司の瞳から一筋の涙があふれた。
こらえようとしていた防壁が、ついにひび割れた証だった。
「もういい……もう、やめてくれ……」
玲子は不思議そうに健司に問う。
その声音には、本当に“不思議”と思っている静けさがあった。
まるで部下の書類ミスを指摘する程度の軽い関心しか感じられない。
「私、なんか難しいこと言ったかしら? 取締役まで登りつめたあなたなら、簡単なことでしょう?」
顔が屈辱にまみれ、うめき声が漏れる。
そのうめきは懺悔でも謝罪でもなく、“壊れかけた心が漏らす音”に近かった。
「……ダメなの? じゃあ、少し手伝ってあげるね」
玲子はスマホは健司に向けたまま、左手でテレビのリモコンを探り、操作した。
その動きは驚くほど落ち着いており、プレゼン前の準備ほどの緊張すら感じさせなかった。
テレビから流れる艶めかしい女の声が部屋に響いた。
その人工的な甘さが、健司の精神を追い詰める残酷な“背景音”になっていく。
しばらく様子を見ていた玲子は、スマホを健司の下に向けて残念そうにつぶやいた。
「……まだ、ちっちゃいままだね。でも、記録はちゃんと撮れたから、まあ、いいか……」
わざとらしく残念そうにつぶやいた玲子だったが、何か思いついたように、ぱっと顔を明るくする。
「そうだ!」
その変化の軽さが、健司には“悪夢の歯車がさらに噛み合った”ように感じられた。
「可愛い娘さんに見てもらえば、いけるでしょ。ちょっと待ってて。今、ビデオ通話にするから」
健司は娘の名前を呼ぶように、口をパクパクさせた後、白目をむいた。身体がぐらりと前のめりになり、床に落ちたバスタオルの上に顔をうずめた。
名前すら声にできず、父親としての最後の誇りがつぶれる音が部屋に静かに落ちた。
健司の身体が床に崩れ落ちた後も、彼の肉体は羞恥と無意識の解放の狭間で痙攣を続けた。
精神が折れたあと、身体だけが遅れて反応しているかのようだった。
彼の意識が消滅した後、数瞬の遅れを伴って、絨毯に一筋、じわりと濡れたシミが広がった。
その広がる輪郭は、健司が守り抜いてきた“地位”“権威”“作られた威厳”が溶け落ちる象徴のようだった。
玲子はハンカチを取り出し、鼻を覆う。
そして、その惨めな肉体の最後の反応を冷たい目で見下ろした。
もはや人間というより、“壊れた装置の最後の動作”を見るような無感情さだった。
玲子の顔には、「この肉体にはもう、抵抗する倫理も意志も残っていない」という、支配者としての静かな確信が浮かんでいた。
床の絨毯についた濡れたシミをじっと見つめる。
「あら、最後はちゃんとできたのね。やればできるじゃない」
玲子は短く息を吐き、スマホの画面を淡々とオフにした。獲物の処理を終えた者だけが見せる、温度のない静かな表情だった。
――バスルーム横の小さなデスクに向かうと、ホテルの便箋を一枚抜き取り、迷いなくペンを走らせる。
《目が覚めたら、あなたに選択肢が二つあることを思い出して。一つ、沈黙に従うこと。二つ、社会的な死を選ぶこと。証拠はすべてクラウドに預けてあるわ》
書き終えると、その便箋を丁寧に折り、健司がうずくまっている顔の横、絨毯の上に重しを置いて静かに残した。文字は淡々としているのに、そこに逃げ道は一つもなかった。
玲子はふたたびスマホを取り出し、手際よく報告メッセージを打ち込む。指先は乱れることなく、まるで日常の業務連絡でも送るかのように滑らかだった。
《依頼は完了。対象は今後、一切抵抗不能。クラウドの動画は依頼者に引き渡してちょうだい》
送信を終えると、乱れた服を整えた。玲子は何かを思い出したように少し考えた後、再びスマホを操作した。
《念のため、暫くターゲットは監視してちょうだい。万が一騒ぎ立てた場合は、物理削除する》
追加メッセージを送った後、倒れた健司にも濡れた絨毯にも一瞥すらくれず、部屋のドアを開けた。
静まり返った廊下に出た瞬間、玲子の口元に再び薄い笑みが灯る。
エレベーターホールへ向かうその歩みは、すでに勝敗を決した者だけが持つ、揺るぎない確信に満ちていた。




