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Ep2 「保険」という名の自白

 ──セントラルシティホテル前、夜。

 雨上がりの街は静かで、ネオンが濡れたアスファルトにゆらぎの線をつくっていた。


 一台のタクシーがゆっくりとエントランス前に停まり、ブレーキ音が夜に軽く響く。

 ドアが開くと、健司は千円札を二枚取り出した。


 「ここは私が払おう。運転手さん、釣りはいらない。今日は気分がいいんだ」


 そう言う声には、期待でわずかに昂ぶった色が滲む。

 彼は背広のボタンを外し、タイを緩めながら、横に立つ玲子をちらりと見た。


 玲子はまるで普段通りの所作でエントランスを進み、フロントで軽く手を上げた。


 「こちら、とても大事なゲストなの。このまま通すわね」


 初老の男性スタッフは、深い一礼を返した。

 その仕草はホテルマンの礼儀以上の敬意が込められていた。


 「玲子さま。ご安心ください。

 我々はなにも感知しません。どうぞ“商談”をお楽しみください」


 健司はその言葉の意味を測りきれず、ほう、と微かに息を漏らした。


 「君は……ここの常連なのかい?」


 玲子は上目遣いで柔らかく笑う。

 その笑みには、言葉と裏腹な“距離のある温度”があった。


 「少しコネがあるだけ。……ここに誘ったのは、あなたが初めてよ?」


 ――その一言に、健司の喉ぼとけが大きく動いた。


 *


 部屋の前。

 キーをかざす電子音が乾いた音で鳴り、ドアが静かに開く。


 健司を中に入れると、玲子は最後に自分も滑り込み、背後でカチリとロックをかけた。


 小さな音なのに、やけに部屋に響いた。


 振り返った健司は、苦笑を浮かべた。

 その苦笑には、渦巻いた感情がぐちゃぐちゃに混ざっている。


 「……来てしまったな、玲子さん」


 言い訳のようで、どこか境界を確かめているようでもあった。


 「いや、本当に……君があんなふうに言うから……

 仕事の話も、もちろんちゃんと聞くつもりだ。だが……」


 視線が、玲子の目元から鎖骨へ、さらに襟元へと滑っていく。


 「正直……落ち着いて話せる自信は、あまりない」


 玲子の表情は、変わらない。

 その沈着さこそが、健司には刺激になっていた。


 ──獲物が自ら檻に入る音が、今も耳の奥で鳴っている。


 健司はほんの少し距離を詰めてくる。

 だが、まだ触れはしない。

 その微妙な間合いの保ち方は、“紳士を装った、誘惑に弱い男”そのものだった。

 肩越しにかすかに漂う体温と、わずかな息遣い――それが部屋の空気をゆっくり温めていく。


 そっと健司から離れ、軽い口調で玲子は尋ねる。

 「少し緊張しているのね。何か飲む?」


 健司は緊張を隠すように軽く笑う。

 だがその笑みにも微かな張りがあり、視線だけは玲子の指先の動きや表情に吸い寄せられて離れない。

 まるで一瞬でも見逃せば、何か大事なものがこぼれ落ちるとでも思っているようだった。


 「飲み物、ありがたい。じゃあ……君が選んでくれたものでいい。せっかくだし、君の“気分”に合わせたい」


 健司はそわそわと周囲を見回す。

 落ち着かないふうを装いながらも、その視線の動きは妙に鋭い。

 部屋の照明や配置、そして天井付近の死角まで反射的にチェックしている――そんな“習慣”のような気配がにじむ。


 玲子は棚に置いてある酒を眺めながら健司に確認する。

 「じゃあ、少し軽いものにしておこうか。夜も長い事だし、ワインでいい?」


 「ワイン……いいね。軽くて、でも気分はほどよく上がる。今の私にはちょうどいいよ」

 健司は少し照れたように笑い、玲子がワインを手に取る動作をじっと見つめる。

 グラスに触れる指の角度まで追う視線――期待と緊張の入り混じった温度がそこにあった。


 グラスを用意する小さな音だけで、健司は期待するように声を弾ませる。

 「君とゆっくり話せる時間があるのは嬉しいな。“夜も長い”って言い方……なんだか期待させるよ」


 コツン、とワイングラスを合わせ、二人は酒を喉に通す。

 玲子は一息にワインを飲み干すと、唇の端を少し濡らしたまま甘く囁いた。


 「ええ……期待して。ふふ……なんだか、少し火照ってきちゃった。シャワー浴びてくるね。あなたも、準備しておいてね」


 玲子の言葉を聞いた瞬間、健司の表情がわずかに強張り、そのあとすぐに危うい笑みが浮かぶ。

 抑え込んでいた欲と警戒心が、同時に呼吸を乱すような表情だった。


 玲子が立ち上がり、シャワー室に向かって歩く姿を、男は息を飲むように追う。

 細かな腰の揺れ、背に落ちるしなやかな髪、その一つひとつに視線が吸い付いたまま離れない。


 「……わかった。ゆっくりシャワーを浴びてもらって構わない。その……戻りを楽しみにしてる」

 声が少し掠れていた。

 その掠れには、期待だけでなく“これから起きることへの興奮”のような影も微かに混じっていた。


 玲子がシャワールームに入った途端、閉まりきらない扉の向こうで、健司の表情がわずかに一変する気配がした。

 さっきまで期待に浮かれていた顔に、別の色──薄暗い下心がゆっくり滲みはじめる。

 「……チャンス、か」


 誰に聞かせるでもなく、喉の奥で低くつぶやいた。


 男はスーツの内ポケットから乱暴な手つきで、三つの隠しカメラを取り出す。

 指先は震えている。

 だがそれは罪悪感ではなく──興奮と、相手を“囲い込める”という甘い錯覚に酔った支配欲の震えだった。


 「玲子さん……君が本気なら、私だってそれなりの“保険”が必要だろう?」


 男の目がベッド付近、棚の影、照明の死角へと忙しなく走る。

 手慣れた素振りを見せながらも、視線の動きは浅い。

 欲に追われている時の男特有の“呼吸の乱れ”が、遠目でもはっきり分かる。


 シャワーの音が微かに部屋へ響く。

 その音に安心するように、男はカメラを設置し、角度を微調整しては満足げに頷いた。


 「よし……ここならバレない。これがあれば……はは、君も俺を簡単には切れなくなる」


 完全に勘違いした満足感に酔い、録画開始のランプを確認する。


 ──その一部始終を、部屋の片隅で玲子が予め仕掛けておいた“カメラ”がすべて鮮明に捉えていた。


 シャワーの水音の裏で、スマホ画面に映る健司の姿を眺めながら、玲子はゆっくりと唇の端をつり上げる。


 ──かかった。


 男が震える手で小型カメラを取り出し、部屋の隅へ視線を走らせ、落ち着かない足取りで位置を調整する。

 そのぎこちなさと呼吸の速まりは、画面越しでも手に取るように伝わる。


 欲望のためなら理性を簡単に捨てる──その性質が、隠す気もなく立ち上っていた。


 玲子は濡れた髪を後ろへ払い、画面に映る男の姿へ小さく吐息を落とす。


 「ふふ……しょうもない」


 まるで手のひらの上で小動物が勝手に罠へ飛び込むのを観察しているかのような目で、彼の“慎重さを装った必死さ”を冷静に見極める。


 玲子は画面をタップし、自分の仕掛けた複数のカメラのストリームを切り替えた。


 どの角度でも、どの瞬間でも──

 男がやましい動作をするときほど、視線は泳ぎ、喉ぼとけが上下し、肩がこわばる。


 玲子は冷たい笑みを深めた。


 「ほんと……男ってわかりやすい」


 シャワーを止め、タオルをゆっくり胸元から巻きつける。

 鏡に映る濡れた自分の顔に、楽しげな光がわずかに宿る。


 「さあ……次はどう追い込もうかしら」


 その声は、獲物を料理する前の料理人のように静かで、そして愉悦を含んでいた。

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