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セミ

 夢を見た。


 いや、あれは現実だった。


 現実で起きた出来事の映像だった。


 誰もいない映画館のスクリーンに映り続けているクローゼットの映像。台詞や曲も存在せず、古いフィルムを再生したかのようなノイズ音だけが流れていた。クローゼットは開く事も、開ける事も無い。ただジッと、クローゼットの映像が流れ続けている。


 これは、何の映像だろう? 


 誰の目線だろう?


 疑問ばかりが浮かぶ夢の中、僕の瞼は開いた。目を覚ましても、夢の事が頭から離れない。あれはきっと僕の過去の一部だろう。いつ、どこの記憶かは分からないが、僕の過去だという事は分かる。


 クローゼットから出て、リビングへ向かうと、そこには誰もいなかった。開けっ放しにしていたベランダから、セミの鳴き声が聞こえてくる。そのセミの声は、僕に何かを訴えかけるようにうるさかった。


 まだ寝ぼけ気味のまま、僕はコーヒーを飲んだ。お湯じゃなく水を使ったせいか、そのコーヒーは不味かった。


「……あぁ、今は夏か」


 セミが元気に鳴いているのだから夏なのだ。セミが鳴かなくなれば秋。雪が降れば冬。雪が溶ければ春。桜が散れば夏。じゃあやっぱり、今は夏なんだ。


 床に倒れると、後頭部に鈍い痛みとジワジワと広がる圧迫感を感じた。倒れた時、手に持っていたコーヒーを零してしまった。シャツが濡れてる。ベランダから差し込む日差しまで転がっていき、服を乾かす事にした。 


 セミの声がうるさい。立ち上がる気力が湧かない。立ち上がったところで、どうせまた床に倒れる。


「あああああ」


 声を出してみた。でもすぐに部屋の壁に吸い込まれ、声が消えてしまった。


「……あれ? なにやってんだろ?」

 

 クローゼットで寝てたはずなのに、どうやってかベランダ前で横になっている。それに服も濡れていて、零れたコーヒーとそれが淹れられていたと思われるコップが床にある。


 まただ。僕はまた、正気を失ってたらしい。今度はどれくらい正気を失ってたんだろうか。ため息を吐いた後、床に零したコーヒーを拭き、濡れたシャツを洗濯機に入れた。


 あの旅館で鶴と別れてから……多分、三日経った。すぐに戻ると言っていた鶴がこの家に戻る気配は無い。なんとか一人で暮らせてはいるが、たまに正気を失ってしまう。正気を失う直前と最中の記憶が無い為、その頻度がどのくらいかは分からない。その所為で外に出たくても出れない。


 時計を見ると、時刻は午前十時を過ぎていた。この時間に食べる食事は、朝食と言えるだろうか。 


 冷蔵庫の中には食材があるが、調理しなければ食べられない物ばかりで、ギリギリ食べられそうなのはマーガリンくらい。お腹は空いていない。むしろ、痛い。


 ピンポーン。


 玄関のチャイムが鳴った。扉の覗き穴から見てみると、桃姉さんが立っていた。ハッキリと表情には出していないが、怒っているように感じた。


 玄関の鍵を開けた瞬間、扉は勢いよく開かれた。しかし、ドアチェーンが邪魔をして、扉は中途半端の状態で止まった。


「こんにちわ信二君。今日は家に居たようね」


 桃姉さんは扉の隙間から顔を覗かせてきた。声では明るく振る舞っているが、下から上へと僕の体を眺めていく目は酷く冷たい。


「とりあえず、コレ、外してくれないかしら? 久しぶりにお話しましょうか」


「……」


「信二君? どうしたの? ほら、早くコレを外してちょうだい」


 桃姉さんはドアチェーンを掴むと、ガチャガチャと音を立てた。


 リビングに戻ると、ベランダに虫が転がっていた。近付いて見ると、それはひっくり返ったセミだった。足が開いていれば生きているから、これもまだ生きているのだろう。


 しゃがんでセミの様子を眺め続けていると、キッチンのコンロが点火する音が聞こえてきた。振り向くと、キッチンには桃姉さんが立っていた。


「あぁ、桃姉さん。来てたんだ」  


「……ご飯を最後に食べたのはいつ?」


「昨日食べたよ。さっき食べた」


「……少し待ってなさい。食べやすい物作ってあげるから」


 ベランダでひっくり返ってるセミに振り返った。いつの間にかセミはいなくなっていて、何処からかセミの鳴き声が聞こえてきた。


「信二君。しばらく、私が君の傍に居てあげるから。君が元通りになるまで」


 元通りって、どういう意味だろう? 


 そんな疑問が浮かぶと、僕の足は洗面台に向かっていた。


 洗面台の鏡には、生きているか死んでいるか分からない子供が映っていた。まるでさっきのセミのようだが、セミのように分かり易い見分け方が無い。


 鏡に映ってる僕は、生きているのか、死んでいるのか。

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