一人
鶴が一向に元気にならない。アイツらと鶴は違うと何度言っても、鶴の口からは「ですが……」と納得いっていない言葉が漏れるばかり。
せっかく来たのなら楽しもうと思っていたが、鶴がこんなんでは、ここに居続けても意味が無い。女将が料理を運びに来たら、晩ご飯を食べて帰ると言おう。
そう思った矢先、襖の向こうから女将の声が聞こえた。襖が開くと、お膳に乗せられた晩ご飯が運ばれてきた。女将は配膳用の服に着替えており、通常の両腕と、脇から左右二本ずつ生やした腕を使ってお膳を二つ持っている。
「お食事になります。そちらの方には、人間に合わせた材料を使用しておりますので、少々メニューが異なっております。ご了承ください」
「ありがとうございます。すみません、急で申し訳ないんですけど、この料理を食べたら僕達は帰ります」
「それはまた急な……どこかで、気に障るような事でも?」
「その、僕がいたらやっぱりマズい気がして。実は―――」
僕は風呂場での出来事を女将に話した。話しても無駄だと思っていたが、意外にも女将は話し終えるまで真剣に僕の話を聞き、僕の話が終わると深々と頭を下げた。
「大変申し訳ございませんでした! 我々従業員の配慮が足りておりませんでした!」
「い、いや、別に謝ってもらう為に話したわけじゃありませんよ? それに、アナタが謝る必要なんてありません」
「……少々、お話してもよろしいですか? 当旅館がどのような目的で営業されているかを」
僕が頷くと、女将は姿勢を正し、視線を鶴の方に向けながら話し始めた、
「昔、人間に化ける事が出来た我々は、その能力を使って悪行を積み重ねてきました。お連れの方のように、人間に害を与えない存在は稀でした。時代が進むにつれ、人間達は賢くなり、凶悪性は更に増しました。人間に化ける能力はあっても、他の能力で劣る我々は徐々に動きづらくなり、人間社会に溶け込むようになりました。しかし、元々が人間ではない我々のほとんどは、人間社会を生きていく中で身も心も疲弊していきました。抑え込んでいた加害性は徐々に牙を露わにし、それを発散しようとしても、現代で逃げおおせる事は叶わない。それではやがて、疲弊と加害性の両方に押し潰されてしまう。そんな彼ら彼女らを少しでも癒やせればとするのが、当旅館の役目なんです」
女将の話を聞き終え、改めて鶴が他とは違うのだと理解した。鶴は一度だって僕に危害を与えようとせず、僕以外の人間にだって不愛想ではあるものの、危害を与えてはいない。むしろ、心から僕に尽くしてくれている。
でも、それは特例中の特例。ほとんどの場合は、あの風呂場に現れた六人組のような者ばかりなのだろう。
ベランダから鶴が家に入ってきたあの日。もしも、鶴にもアイツらのような加害性があったらと思うと、ゾッとする。
「いくら人間に化けようとも、どれだけ人間に好かれる方法を心得ても、内に秘める加害性は消す事は出来ません。お連れの方はおそらく、良い人間とばかり縁を持てたのでしょう。少し嫌味のように聞こえるやもしれませんが、羨ましいです」
「でも、女将さんも良い人ですよ? 僕の話を真面目に聞いてくれたし、こうして普通にいられてるじゃないですか」
「必死に隠しているだけです。もしもお連れの方がいらっしゃなければ―――」
「ッ!?」
突然、鶴は料理が乗ったお膳を女将に投げつけ、両腕を翼に変えて僕を覆い隠した。
「……本当に羨ましい。アナタのように人間を【守る】事が出来たなら、どれだけの同胞が救われるでしょう」
僕を覆い隠していた翼が引いていくと、鶴は部屋の端で座り込んでしまった。俯いて隠された表情は、同族を傷付けた罪悪感からの後悔か、どれだけ羨ましいと言われても同族には変わりない事を悲しんでいるのか。
女将はぶつけられた料理で汚れながらも、表情には怒りの陰も無く、やはり真剣な表情で改めて座り直した。
「お客様のご要望は承りました。当旅館は日帰りも可能なので、今からお帰りになられても構いません。念の為、出口は別の所を使いましょう。後をつける者がいるかもしれません」
そう言うと、女将は襖を開けて、先に廊下へ出た。
「鶴、帰ろう」
「……」
鶴の手を掴んで待っていると、やがて起き上がって歩き始めた。その表情には生気が無く、僕を見ても微笑んではくれなかった。
女将の後に続いて廊下を歩いていくと、従業員しか立ち入れない場所へ連れてこられ、非常口と書かれた扉の前で女将は振り返った。
「こちらから人間の世界に戻れます。改めまして、この度は申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げる女将に、僕も思わず頭を下げてしまった。
非常口の扉を開けると、その先は見覚えのある通りだった。僕の家から近い通りだ。ドアノブに触れた人物の居場所付近に繋がるのだろうか。最後の最後で、非現実的な要素が出てきたな。
「……貴方様」
「ん? どうしたの?」
「……お先に、お帰りになっててください。後で、向かいますから」
「でも―――」
「必ず帰ります。ですが、帰る前に、こちらの方への非礼をお詫びしようと思って」
「そんな、お詫びだなんて!? こちらは全く気にしていませんので、どうぞこの方と一緒にお帰りになってください!」
「ワタクシが気になるんです。それに、少し人間の世界から離れて考えたい事がありまして」
「そう言われましても……あの、よろしいのでしょうか?」
僕は鶴の目を見た。その瞳は僅かに揺れていた。何か考えたい事があって、それはあっちでは答えが出ない事なのだろう。
「分かった。先に帰ってるよ。でも、ちゃんと帰ってきてね。鶴が帰ってこなかったら、僕は飢え死にだ」
「フフ……ええ。必ず、帰ってきます」
鶴は今出来る精一杯の笑顔で僕を見送ってくれた。少し不安だけど、鶴の言葉を信じて待つ事に決めた。
非常口を通って元の世界に戻ってきた。振り返ると、通ってきた非常口は消え、コンクリートで出来た家の塀がある。
「……また一人か」
電灯に照らされた夜の道を一人で帰った。心なしか、この世界が怖く思えた。不安と恐怖からくる焦燥感に、帰路へつく足を駆けていく。




