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愛の循環

 今日は土曜日。鶴が来てから様々な理由で会わずにいたけど、そろそろ会わないと愛想をつかされる。嫌らしい。鶴が来てから様々な理由で会わずにいたけど、そろそろ会わないと愛想をつかされる。鶴が働き始めたとはいえ、桃姉さんの代わりに生活資金や学費を払えるとは思えない。


「じゃあ、行ってくるね。夕方には帰ってくるから」


「分かりました。いってらっしゃいませ、貴方様」


 家事を一緒にやるようになってから、鶴は僕が誰かと出掛けたりする事を許してくれるようになった。とりわけ桃姉さんに関しては、僕の生活面の援助をしてくれる恩人として慕っている。


 待ち合わせの駅前に着くと、革ジャン姿の桃姉さんが壁に寄りかかって待っていた。


「おはよう、桃姉さん」


「信二君。おはよう。今日はデートに誘ってくれてありがとうね」


「デートって。ただ出掛けるだけだよ?」


「男の人が女の人を誘う行為はデートなの。それにしても、どうして誘ってくれたのかな? 今まで通り家で良かったのに」


「その、せっかく会うなら遊びに行った方が良いと思ってて」


「……そう」


 桃姉さんは自然と僕の肩を掴むと、そのまま僕を抱き寄せた。男の僕よりも男らしい。


 それから僕達は、映画を観て、お昼ご飯を食べ、色んな店に立ち寄りながら過ごした。久しぶりに桃姉さんと一緒に過ごしてみて、改めて感謝してもしきれない恩人だと実感した。


 僕が一人になって、親戚にも引き取られずにいた頃、桃姉さんは僕の前に現れた。初めて会った時から、桃姉さんは僕に優しかった。慰めの言葉ばかりで助けてくれなかった周りの人とは違い、桃姉さんは僕の話を親身に聞き、手を差し伸べてくれた。桃姉さんは親戚の人でもなければ、亡くなった両親の友人でもない。そんな赤の他人の優しさに、僕は縋ってしまった。


 今でこそ僕の周りには真面目さんやアメリア、そして鶴がいる。けど、それ以前までは桃姉さんだけだった。


「信二君。君は今、幸せ?」


 歩道橋の上。夕日で空が夕焼けになる頃、桃姉さんは振り返って僕に問いかけた。


「うん。桃姉さんのおかげで、僕は幸せだよ」


 僕は桃姉さんに感謝を伝えた。相手を気遣った言葉ではなく、本心からの言葉で。


 すると、桃姉さんは微笑みを浮かべながら、僕の眼前に立った。


「信二君。今でも私は思い出すの。アナタと初めて会った日の事を。一人でベンチに座ったまま、何処か遠くを眺めていた君の姿を。そうしてまた覚えるの。この子は、私が管理しなきゃいけないって」


 僕の肩を掴む桃姉さんの手に力が入る。桃姉さんの爪が服を隔てても突き刺さり、痛くて少し表情に出てしまった。


「私は善人とは程遠い存在。君に言えない秘密や、君に言った嘘は沢山ある。けれど、君を愛している事だけは本当で本物」


 痛い。桃姉さんが肩を掴む力が、突き刺さっていく爪が、僕を見下ろす瞳が。僕に対する優しさは感じるのに、痛くて、息苦しくて、怖い。


「私に依存して。私に溺れて。私で痛がって。私で苦しんで。君が他の誰かと幸せになっても、君の不幸は全て私で埋め尽くして。それが私にとっての幸せなの」

 

 桃姉さんの口が開いた。見えた歯には、人間の歯とは思えない鋭い牙が二つあった。その牙を見て、僕は保健室での出来事を思い出した。今目にしている牙で、桃姉さんは僕の首を噛んだ。


 僕は桃姉さんを突き飛ばした。また首を噛まれるんじゃないかと思って、自分の身を守ってしまった。首に手を当てると、噛まれていないはずなのに、噛まれた感覚がある。この鮮明さは、過去の経験から呼び起こされたもの。やっぱりあの時の出来事は、夢なんかじゃなかったんだ。


 視線を桃姉さんの方へ戻すと、桃姉さんは僕を見て微笑んでいた。


「そう、そうよ! それでいいの!」


 恍惚とした表情で。恋をする乙女のように。桃姉さんは怯えてる僕を眺めていた。


 僕はどんな言葉を出せばいいのだろうか。今覚えてる恐怖をそのまま伝えるべきか。見て見ぬフリをして無視すべきか。


 桃姉さんが分からない。さっきまであんなにも優しかったのに、どうして今はこんなにも恐ろしいのだろう。理想的な大人の落ち着きを見せていたのに、今はとても落ち着いてなどいない。


「信二君。憶えておいてね。私の愛は本当で本物。私は君の為なら何でもする。私は自分の為に君に何でもする。与えるだけの愛は偽物。与えて、求めて、循環してこそ愛は成り立つの」


 またガラリと雰囲気が変わった。さっきまで怖かったはずなのに、今の桃姉さんには安心感を覚えてしまう。例え桃姉さんの本性が怖い人であっても、恩人としての桃姉さんが記憶に焼き付いているせいで、正常に判断出来ない。


 僕にとって桃姉さんは、良い悪いの区別が意味をなさない特別な人なんだ。


 歩道橋を下りた後の事はよく憶えていない。気付けば一人で家の前まで帰ってきていた。


 チャイムを二度鳴らしてから家に入ると、鶴が玄関前に立っていた。


「おかえりなさい。貴方様」


 こんな風に、いつも鶴は温かく迎えてくれる。僕はそんな鶴の温かさを貰ってばかりだ。 


「ただいま。鶴」


 僕が返すと、鶴は幸せそうに笑った。そんな鶴の笑顔に、自然と僕も笑ってしまった。


 なんとなくだけど、桃姉さんが言った「与えて、求めて、循環してこそ愛は成り立つ」という言葉の意味が分かった気がする。

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