『忘れられた恋の証言者』
『忘れられた恋の証言者』
市民文化会館の2階席から幕間に女子トイレは長蛇の列だ。菜緒子は「ちょっと待って」と言って列に並ぶ。
「Cats」劇団四季が10年振りに公演がこの町へ来た。
「ここで待ってるから」
そう言って隆介は2階ロビーの壁に背を預けた。年季の入った文化会館の壁は冷たく、背中に触れた瞬間、思わず身震いする。けれど今日は涼しさを感じるだけだ。
9月初旬の風が窓から入り込み、心地よい。菜緒子と並んで座った2時間弱、わずかに香る彼女の髪の匂いが隆介の心を騒がせていた。
ロビーの窓から見える街の灯り。初秋の夕暮れ、風に揺れる銀杏の葉が黄色く色づき始めている。
窓の外を観察しながら、隆介は自分がこの場に立っていることの不思議さを噛みしめていた。
妻・三津子を亡くしてから十五年。ここ数年ほど前までは、女性と二人きりで出かけることなど想像すらできなかった。
菜緒子とは、隆介が働く書店に菜緒子が訪れたことがきっかけだった。
菜緒子は地元のサッカーチームの「清水エスパルス」の熱烈なファンだった。
隆介の働く書店は、Jリーグの正規代理店で各チームのユニフォームや色々なグッズを販売しているショップを併設していった。
毎週のように菜緒子はこのショップにくる常連だった。容姿からは熱烈なサッカーファンとは想像できない清楚な雰囲気の女性だった。
隆介は、そのギャップに戸惑い、興味を惹かれた。
その後、親しく言葉を交わすようになった。
そして、「劇団四季の『Cats』が10年ぶりに来るんですけど、よかったら…」と隆介が誘った。
迷った。菜緒子は思い切って誘いに応じた。
「すみません、お待たせしました」
ふと我に返ると、菜緒子が笑顔で目の前に立っていた。黒のパンツにオレンジのブラウスそしてベージュのニット。
初秋のシンプルながらも洗練された出で立ちだ。
菜緒子はにっこりと笑みを浮かべている。その笑顔に、隆介は一瞬言葉を失った。
「いや、そんなに待ってないよ」
「そういえば、喉乾いてない? まだ時間あるし」
「そうだね、自販機でジュースでも…」
隆介はそう答え、二人は階段を下りて階下の自販機へと向かった。階段を下りながら、隆介は菜緒子の背中を見つめていた。
彼女の薄い肩、まっすぐな背筋、軽やかな足取り。三津子とは違うタイプだけど、どこか共通するものがある。
それは内側から滲み出る優しさだろうか。
階下の自販機は、開演前とは違い、人影もまばらだった。
菜緒子はアイスティーを選び、隆介は麦茶を選んだ。
まだ残る夏の名残に、冷たい飲み物が心地よい。
「一幕、どうだった?」菜緒子が尋ねる。
「うん、素晴らしかった。特にあの…なんていうキャラクターだっけ、白黒の猫の…」
「ミストフェリーズね」
「そう、ミストフェリーズ。あのしなやかな動きがすごくて」
「分かる!私も大好きなんです、あのキャラクター」
会話は自然に弾んだ。初めて二人で外出したにも関わらず、違和感がないことに隆介は驚いていた。
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一部始終を見ていた人がいた。照江だった。
照江は2階の手すりから、隆介と菜緒子が階下へ消えていく姿を見つめていた。照江は隆介の亡き妻・三津子の高校時代の親友だった。
演劇部で中高一貫校の中学の一年からのつきあいだった。
十五歳の春、演劇部に入った二人は、すぐに親友になった。照江は内気で、人前に立つのが苦手だった。一方、三津子は華やかで積極的。
けれど、三津子は照江の繊細さを理解し、照江は三津子の明るさに救われた。
二人で初めて演じた劇は「夏の夜の夢」。照江がパック、三津子がハーミアを演じた。
舞台の上の三津子は輝いていて、照江はその姿に魅了されていた。
高校一年の夏、三津子は告げた。「私、隆介くんと付き合うことになったの」
隆介は別の高校の男子で、水泳部のキャプテンだった。照江も彼のことは知っていた。
真面目で、優しくて、時々見せる照れ笑いが可愛らしい男の子だった。照江は祝福の言葉を口にした。
けれど、心の奥底では複雑な感情が渦巻いていた。自分が隆介に抱いていた淡い恋心を、三津子は知らなかった。
高校卒業後、三人とも別々の道へ進んだ。三津子は東京の専門学校へ、隆介も東京の私大へ。
照江は地元の百貨店へ就職をした。それでも、長期休暇になれば必ず三人で会った。時が経つにつれて、照江の想いは諦めに変わっていった。
三津子と隆介の結婚式では、照江がスピーチを頼まれた。「二人の出会いを見ていた人間として」と言われて。
壇上に立ちながら、照江は心の中で自分自身に言い聞かせた。「彼らは幸せになるべきなんだ」と。
三津子の訃報を聞いたのは十五年前の二月だった。葬儀では泣くことすらできなかった。
そして、その葬儀で、十五年ぶりに隆介と再会した。憔悴しきった彼の姿を見て、照江は決意した。隆介を支えようと。
けれど、それはなかなか叶わなかった。彼は心を閉ざしていた。
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「あ、そろそろ時間だね」
隆介は腕時計を見ながら言った。二幕の開演が近づいていた。
「そうですね、戻りましょうか」
菜緒子が言い、二人は再び階段へと向かった。階段を上りながら、菜緒子は少しはにかんで口を開いた。
「隆介さん、今日は誘ってくれてありがとうございます」
「いや、誘って良かったですか」
「ええ、勿論、良かったですよ」
菜緒子は茶目っ気たっぷりに笑った。
隆介は彼女の笑顔に見とれた。三津子とは違う。けれど、心が温かくなる笑顔だった
「菜緒子さんの予習のお蔭で展開がよくわかりました」
菜緒子は隆介の誘いがあった次の日、『Cats』の全曲を収録したサイトのリンクを送って、予習するよう勧めていた。
「少しは、ミュージカルの見方が変わりましたか」
「ええ、ありがとう。本当に楽しいと思えました」
言葉に詰まりながらも、隆介は素直な気持ちを伝えた。菜緒子の頬が僅かに赤くなる。
2階に戻ると、開演のチャイムが鳴った。飲みかけのジュースを持って席に戻る途中、隆介は、幕間で飲料は持ち込み禁止のアナウンスを思い出した。
「大丈夫、客席が暗くなるので…」菜緒子は隆介の心配を察知して囁くように話した。
二幕が始まり、舞台上ではCatsの世界が広がっていた。グリザベラが「Memory」を歌い始めた。
過去の栄光を忘れられず、今は孤独な彼女の歌声が会場に響く。
舞台上のグリザベラが高らかに歌い上げる。新しい生活への希望を胸に。
二人は感動して、席から立ちあがって拍手を惜しみなくした。
「素晴らしかったね」隆介が言った。
「うん、最高だった」菜緒子も笑顔で答えた。
二人の足跡が、秋の夜道にゆっくりと刻まれていく。そして、それは新しい物語の始まりだった。
隆介は家のドアを開けて、玄関の明かりをつけた。暗い部屋が一瞬で浮かび上がる。
「ただいま」
誰もいない家に向かって、習慣のように声をかける。返事はない。もう長いこと、返事はなかった。
靴を脱いで、玄関の横にある靴箱に丁寧に収める。菜緒子と過ごした夜の余韻が、まだ心の中に残っていた。
リビングのソファに腰を下ろすと、ポケットからスマホを取り出した。画面を見ると、未読のLINEメッセージがあった。
照江からだ。
「隆介くん、今日文化会館で見かけたの。分かった?すごい美人と二人だったけど、再婚したの? 祝福半分、やっかみ半分で聞いてるわよ(笑)」
隆介は驚いて、メッセージを何度も読み返した。照江が劇場にいたとは知らなかった。彼女も『Cats』を観に来ていたのだろうか。
スマホの画面を見つめながら、どう返事をしようか考える。照江は三津子の親友だった。三津子を亡くした後、照江は時折連絡をくれた。
最初の頃は慰めの言葉を、そして少し経って、「元気?」という短いメッセージを。
照江の優しさを、隆介は感謝していた。けれど、彼女の前で、新しい恋について話すことに躊躇いがあった。
「再婚? そんなことないよ。今日初めてデートみたいなものだったかな。書店に来てくれる常連のお客さんなんだ」
そう書いて送信した。短い返事だったが、これ以上何を書けばいいのか分からなかった。
数秒後、既読のマークがつき、すぐに返信が来た。
「そっか〜。でも楽しそうだったわよ。彼女、とても美人で素敵な人に見えたわ」
隆介は少し考えてから返信した。
「うん、菜緒子さんはとても素敵な人だよ」
そう打ち込んでから、一度削除した。また書き直す。
「そうかな。今日は久しぶりに楽しい時間を過ごせたよ」
送信した後、隆介は深く息をついた。照江の言葉が頭の中で繰り返される。「再婚したの?」
心の奥で、ささやかな願いが芽生えていることに気づいた。「そうだったらいいのに」
その思いに自分でも驚いた。三津子を亡くしてから、ずっと一人でいることが当たり前だと思っていた。
それが、菜緒子との時間を通して、何かが変わり始めていた。
再びスマホが振動した。照江からの返信だった。
「良かったわ。隆介くん、幸せになっていいんだよ。三津子もきっとそう思ってるわ」
隆介は画面を見つめながら、喉が詰まる感覚を覚えた。照江の言葉が胸に染みた。
「ありがとう、ちょっと勘違いだけどね。彼女は既婚者なんだ」
と返した。それ以上の言葉が見つからなかった。
キッチンに立ち、水を一杯飲んだ。時計を見ると、もう夜の11時を過ぎていた。明日も早い。寝る準備をしなければ。
寝室に向かう前に、リビングの棚に飾られた三津子の写真に目を向けた。笑顔の彼女が、いつものように優しく微笑んでいる。
「今日は、楽しかったよ」
そっと呟いた。罪悪感があるだろうか。不思議と、そうは感じなかった。むしろ、三津子も喜んでくれているような気がした。
ベッドに横になり、天井を見つめる。菜緒子の笑顔、彼女と交わした会話、二人で観た舞台の感動が、次々と思い出された。
そして、照江の言葉。「幸せになっていいんだよ」
そうだったらいいのに——絶対に現実にはならないけど。
隆介は目を閉じた。心地よい疲れと、穏やかな期待感に包まれながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
『Cats』を観てから六カ月が経った。菜緒子と隆介はコメダ珈琲で待ち合わせていた。
お店でバレンタインデーのチョコを渡すタイミングがなく、休日に遅ればせながら隆介に渡すことになった。
『Cats』を観てから二人は時々ランチをすることで一層と親しくなった。会うと時間を忘れて何時間も仕事や近況を話す仲になっていた。
なんの気なしに、隆介が菜緒子を顔をじっと見て「菜緒子さんのお顔は若い時から変わらないの?」
「うん~、変わったかな」
「でも、面長な美人系…でしょ」
「えーと、写真を見る?」
菜緒子はスマホをスクロールして写真を探す。
「お祭りの時の写真があった筈なんだけどな…これならいいかな」
スマホを向かい側に座っている隆介に見せる。衝撃が走る。
「……美人、すこしピンチしていい?…美人」
そこには、集合写真の左の前列でこちらを向いて微笑んでいる女性がいた。
隆介の脳裏には「美人」としか表現できないほど言葉を失った。美人の言葉にある冷たさはまったく感じない、正真正銘の「美人」がそこにいた。
「これは、まいったなあ」と呟いた。
心の中で「照江が美人と言ってた意味がわかった」
隆介は写真を見つめたまま言葉を失った。そこには今の菜緒子の面影はあるものの、その輝きは比較にならないほど強烈だった。
まるで太陽のように眩しい笑顔で、周りの人々さえも引き立てているように見える。
「驚いた?」菜緒子が少し照れた表情で尋ねた。
「いや、というか…」隆介は言葉を探した。「今でもきれいなのに、若い頃はこんなに…」
「昔とは少し変わったかな」菜緒子はコーヒーに口をつけながら、懐かしそうに笑った。
「でも、歳を重ねるのも悪くないわ。経験や思い出が増えていくから」
隆介は改めて目の前の菜緒子を見た。確かに若い頃の写真のような、人を圧倒するような美しさではない。
けれど、静かに佇む姿、柔らかな物腰、優しい目元に宿る温かさ。それらは年月をかけて育まれた美しさだった。
「今の菜緒子さんも十分きれいだよ」
素直な気持ちを口にすると、菜緒子の頬が僅かに赤くなった。
「ありがとう」
そしてふと、隆介の胸に温かいものが広がった。こうして菜緒子とお茶を飲み、他愛もない会話を楽しむ。
それがどれほど幸せなことか、今までの人生ではわからなかった。
六十を過ぎて、人生の折り返し点どころか、既にラストスパートを迎えているはずの自分。
菜緒子が既婚者であることも知っている。それでも、こうして時間を共有できることが貴重な贈り物のように感じられた。
「なんだか不思議ですね」隆介はゆっくりと言葉を紡いだ。「人生の最終コーナーに差し掛かった今になって、こんな幸せな時間をもらえるなんて」
菜緒子は静かに微笑んだ。「人生に『最終回』なんてないわ。毎日が新しい始まりです」
「哲学的ですね」隆介は少し苦笑した。
「でも本当ですよ」菜緒子は真剣な表情で続けた。
隆介は窓の外を見た。春の陽射しが店内に差し込み、テーブルの上のコーヒーカップを黄金色に染めていた。
その光の中に、三津子の優しい微笑みが見えるような気がした。
「そうだね。新しい物語…か」
隆介はもう一度菜緒子の姿を見つめた。こんな素敵な人と友人として時を過ごせることは、確かに奇跡のような贈り物だった。
たとえ菜緒子が自分のものにならなくても、こうして隣にいてくれるだけで、心は満たされていた。
「ところで、チョコをお渡ししたかったのよ」菜緒子はバッグから小さな包みを取り出した。「遅れてごめんなさい」
「ありがとう」隆介は包みを受け取りながら言った。「大切にいただきます」
春の光が差し込む窓辺で、二人は静かに微笑み合った。人生の最終章に差し掛かって、思いがけず訪れた幸せ。
まるで、長い人生の終わりに贈られた、最高のプレゼントのように。