第六 自由狂奔裂
イマヌエルは奥義書『時空の書』と一枚の羊皮紙に書かれたメモとを部下のヴィルヘルムに渡して言う、
「この書に従い、時空を超えて、このメモに記された處へ逝け。イゐユがゐるであろう。彼女を見張って、その行動を逐次報告しろ」
「そのようなことが可能でしょうか」
「やるしかない」
退出してのち、熟考したヴィルヘルムは部下のエルロックに依頼した。
「この任務はお前が適任だ」
一次元では一方向にしか進めない。二次元では前後・左右など、二方向に進める。三次元では前後・左右・上下に動ける。四次元では、さらに運動可能域が増える。三次元に意識を置いている我々には説明できない。
という前提の下、ヴィルヘルムは鹿狩り帽を被ったエルロックに説明した。
「十二次元の空間ではあらゆる處に速やかに逝くことができる。速やかと言うよりは同時だ。十二次元空間に三次元の時間を足せば、現在・過去・未来を自由自在に移動できる。
百二十次元では一次元時間であっても、異世界も含めて、あらゆる時代のあらゆる處に同時にゐることができる」
「時空(時間と空間)の次元はどこまであるのですか」
「無限だ。単に数が多いと言うだけではない。そのパターン(在り方)のバリエーションは無際限だ」
「神が万能なわけです」
……その神に立ち向かおうとしているのだ、ヴィルムヘルムは歎息した。
奥義書『時空の書』にはそのための陀羅尼(真言・真咒)が記されていた。
エルロックはメソッドに従って、修法し、真咒を唱え、指定された場所に行った。
白亜紀のシダ類が繁茂するカフェで、イゐユはティラノザウルスの文豪アレクサンドルとともに、ギムレットを飲んでいた。まだアメリカ大陸が分離する前の大陸だった。
アレクサンドルは言った。
「ほう、それは興味深い。
すると、六千万年後のホモ・サピエンス・サピエンス(属名ホモ・種名サピエンス・亜種名サピエンス。現生人類。ちなみに、同じ種のホモ・サピエンス・イダルトゥは絶滅した)は文字により小説を書くわけですね」
「そうよ」
「我々はサウンド、もしくは匂い、あるいは触感覚(つまり、石や粘土や草木)で構築します。
しかし、印刷という技術を考えると文字が最適かもしれませんね。我々の手法は一般公開を考えていません。伝わりませんからね。特定の文化・学問・習慣の下でなければ伝わらない。
それに音やフレイバーやタッチなら概念を必要としない。代理・代替を要さない。つまり、諸概念のことです。
ダイレクトに存在が訴える。無機質・無表情で、直截です。抒情がなく、甚深です」
「それが最上だね。でも、実際は大丈夫。活字&概念の代替藝術、文學は、いかしてるよ」
そこへエルロックがあらわれた。
イゐユが言う、
「遅かったな、エルロック。いや、冗談だ、ピッタリだよ。
互うはずもない。全ては、あたしが決めて設定し、あたしが動かしてるンだから。あたし自身なんだから」
「やれやれ、思ったとおりだ。ヴェイルヘルム様も無謀なことを考えてみたものだ」
「仕方ないよ」
イゐユはかたちばかりの憐れみの表情を做り、笑いながら言葉を続け、
「全てはあたしだ。お前らに自由意志などない。そもそも、人間存在はない。ただ、化学的現象の累積があるだけだ。心臓や脳波が止まっても、髪も爪もしばしの間は伸びる。別物なのだ。他者の寄せ集め。
物的現象に過ぎない。
今の議論じゃないが、諸概念や思考だって、直截ブツさ、Blues harpのサウンドと何ら変わらない」
「さぞかしそなんでございましょう。あっしらには未遂不收です」
「当然ね、概念では非を捉えられない。言い掛けて言葉が出ずに止まって、あんぐり。
でもね、そうでもないわ。
それに、エルロック、そんな奥義書なんていらないのよ。
偉大な思想家や哲學者たちは云う、〝私は真理に達した。究極のアルケー(原理)を得た。最大の公理を得た。奥義を掴んだ。眞究竟眞實義を会得した。解脱し、悟った。大いなる神と合一した。畢竟の神、彝ヰ啊ゑえ烏乎甕に荘厳された〟と。
そう喚いては時代の者に否定される。哲學史は哲學の栄枯盛衰、哲學変遷史だ。永遠不動の真理はない。時代の気分は変わる。人類も滅ぶ。永遠永劫はない。
炎のように思惟をしても、全ては疑える。ゼロからの説明はできない。人間はただ立ち尽くすしかない。何も遂げられず、どこにも收まれない。
だって、現実しかないんだもの。何も〝あらぬ(τὸ μὴ ὂν)〟よ。ドライな現実しかない。無機質、無味乾燥。存在は無言、無空絶空以上の非。
あゝ、だから。
あなたたちは、いつでも〝此處〟にいるわ。あらゆる異世界の、あらゆる時代の、あらゆる處に。
あなたたちも汎神、大丈夫、全部いいわ。あんたも未遂不收、『ゐを』と同じ。どこでもいつでも何もかも、よ。躬も裂け砕け天翔け躍るよ、何もかも八方破よ、ユカイじゃない? 最高に楽しいわ。 It's a Gas!」
狂裂自在、自由狂奔裂は、未遂不收。
龍のごとく肯ずる。