第三 聖なる青龍の刺青 龍のごとく肯ぜよ 龍肯之神
メソポタミアの愛と豊穣と金星の女神イシュタル、砂漠の女王、天の女主人、ウルクの支配者は大いなる神の威厳を失わなかったが、怒りと苛立ちを露わにし、
「お前はいつもそう言う。
汎神であり、一切何もかもそれ自体であり、id est、全網羅であり、又は一個のモノでしかない、そのこと以外ではない、と。
それが自在無礙、自由奔放だ、と。聞き飽きたわ。前後・左右・上下の三つの軸(三次元)の座標で表される空間であるのみでなく、無数の軸の座標で表される空間の自由度は無際限であり、その自由は狂裂であって、いかなること・状態・動きも可能である、と。遍満自在。ありとしあらゆる〝もの・こと〟である、と。
それゆえ、理など虚しい。いや、それ以前だ、と。
存在は〝あらぬ(τὸ μὴ ὂν)〟ですらない。無言、無表情。無機質でドライ、無味乾燥、絶空さえも絶つ。
それは神聖ですらある、と」
イゐユは黄金の獅子なる哄笑をする。
「何もかもよく知っているわね。お前は熟知している。あたしの代弁者だわ。
ま、当然よね。下劣な人間ですらも知るものを、女神たる者が知らぬはずもないけれどもね。
真の真理は、誰ものが知り、それゆえ、誰も知り得ぬ。小鳥や蜥蜴や真鯛も知る、草花や木々すらも知る、巌も石も山も風も星も空たちも知る。蛋白質や脂肪酸も知る、水素や炭素も知る、無も空も知る。
そんな知識を知ることなど不可能だわ。誰もが知り過ぎて、全体であるがゆえ、認知不可能、〝あらぬ〟だわ」
「だから、一個のモノであると言いたいか。途方もない自由度。
全体であり、かつ、一個のモノというでなく。つまり、兼ねるのではなく、ただ、ただひたすら、一個のモノであることのみである、と」
「阿呆らしい、ムキになって」
「〝全網羅〟とは、畢竟、部分でしかない。〝全網羅でないこと〟や〝一個のモノであること〟でなくては、全体とは言えない。
つまり、『兼ねるのではなく、一個のモノであるということだけである』でなくちゃ、全網羅でない、と。
そう言うか」
「はあ。ところで、お前は何がしたいの?」
「強者を前にしたときの畏怖と憤激。この激情は実存(現〝実存〟在)、生ある存在、たとえ実在でなくとも強い情があればそれが現存在、それが我が崇高なる神聖、あゝ、お前を無き者としたい」
「知ってるくせに。あたしは〝あらぬ(τὸ μὴ ὂν)〟よ。〝あらぬ〟は〝あらぬ〟ですらない。〝あらぬ〟にあらぬ。無性格、無際限な狂裂のニュートラル、狂絶の中庸、どこへも奔る過度の自由、余りにも自由過ぎて自裂する自由狂奔裂」
それが今、在る、眼前Real。
それゆえ、それなればこそ、ここは、時・ところが変わって、中華の国、唐の時代(AD618-907)。Realはどこにでもゐる。
だから、天台山の國清寺に赴く者がいた。
代々、県の役人をしていた家の出身で、劉耳という者、まだ二十七歳であったが、職を辞し、旅に出た。
彼の寺に噂に高い聖者が逗留していると聞き、是非とも逢いたいと決意したのである。今日も、杖を突いて傘をかぶり、山路を急いでいた。
急ぐ理由は早く御尊顔を拝したい気持ちからであったが、もし急がねば日も暮れていたであろう。虎の出るという山である。急ぐわけであった。
國清寺三聖の一人、豊干は虎に騎っていたと云う。
だが、今回逢いたいのは総髪で毛皮を纏う奇行の禅僧、豊干ではない。
仏教の師ですらない。
世にも稀な聖者が降臨したと云う。
「神か」
そう囁く者もいた。
資産家の家に生まれたため、経典書籍を買い漁り、龍樹や世親、老聃や荘周を在家独学で研究し、飽き足らぬ想いであった彼、劉耳は達磨大師に逢わんとする慧可のような気概でいた。求道、その言葉が彼を駈り立ていた。
日入の正刻(酉時、酉の刻、午後五時から午後七時、正刻はその真中で、午後四時)に到着したが、来てみれば、十数人の旅装束が立って何かを待っているかのような様子であった。
「もしや、あなたもですか」
一人が声を掛けてきた。
「ええ、さようです。で、あなた方も」
「そのとおりです。何でも、晡時(申時、申の刻、午後三時から午後五時)に寒嚴までにお出掛けらしい。すぐに戻って来られるであろうとのことですが」
寒嚴と言えば、寒山の住んでいた、年中寒さの厳しい山ではないか。六、七十里(中国の一里は四百メートル)ほど。
「何と。すぐにですか、雲にでも乗っておられるのであろうか」
「さて、それは。ですが、あり得ない話ではないですな」
すると、どうだろう。
「おお、あれは」
衆が叫ぶ。
黄金の雲が虹色に螺鈿のような光を帯びながら、降臨する。
阿弥陀如来と文殊菩薩、普賢菩薩、四天王と十二神将、龍神の王たち、乾闥婆など天龍八部衆、数多の飛天を伴い、荘厳にあらわれる。
「おお、おお」
皆余りの崇高に打たれて感涙するも、阿弥陀如来が雲上で跪く。
天穹に梵鐘のように響く声で、
「お迎えに上がりました、龍肯様」
劉耳に向かって言った。
稲妻が走る。
劉耳は悟った。
「そうだ、俺だった。俺はイリューシュ、龍肯の神であった。萬事・萬物・萬象である汎神は捨てられた一個の缶詰の空き缶に過ぎない。捲られた蓋の逸れ上がったブリキの」
誰もが驚いて眼を丸くしている。劉耳の顔の左半分に青龍の刺青が浮かび上がる。
吃驚している大衆の上を跳び、劉耳=イリューシュ=龍肯の神は黄金の雲に飛び乗る。
「では、諸君、ご機嫌良う」
黄金の哄笑を残して。そのシンバルの響きのような黄金は霧のように天穹を眩さで蔽い、万象をゴールドに変える。
燦然と燃え輝きながら、去って逝く。彼が五聖のうちの二柱目、龍肯。龍のごとく大いなる肯定。全肯定の神性。
アシュタローノ・ミケーネス、悪魔の大貴族、大公爵、大枢機卿、大審問官、彼は両性具有Ανδρογυνισμόςであった。
「イシュタルからの手紙にあったとおりだ。
今や五聖が次々この地に降臨している。
無数の宇宙を含む一世界、その一世界もまた無数にあり、その無数にあるありとしあらゆる全ての世界に遍満している彼らが改めてこの一個の惑星にあらわれた。
これは何の前触れか。由々しきことか」
そして、眷属の一柱を振り返り、
「知恵者イマヌエルはいるか」
「猊下、ここに」
「私はお前に命ずる」