9 彼女の事情
一仕事を終えれば、元の部屋に戻っては椅子に座り、問題用紙を眺める。
綾人は食器を拭いた。そう、彼女が食器ぐらいはとなぜか頼まれ洗ってもらったのであった。
そんな彼女は彩乃に案内されては、今はお風呂にてゆっくりしていることだろう。
泊まらせてもらっている身、その意識が彼女の言葉からも強いようだった。
試験の振り返りをしていると、外から車の警告音が聞こえてくる。
家のガレージは祖父たちが使用している。
なので、いつも通り開いたスペースに駐車したことだろう。
親が帰ってきた。
玄関のドアが開けば、歩奈が親の帰りに出迎える。
階段を駆け足で降りる音からわかること。うれしいのはわかるが、二、三歳ぐらいの頃、階段からすっ転んでしまい大泣きしたことを考えるとやめてほしいことではあった。
しばらくは二階には来ない。両親に顔を見せ、モモとも戯れ、そのあとやって来るのがいつもの事。
冷めている肉じゃがや味噌汁を温め直しておく時間があるのもいつも通りである。
「かえり」
「ただいま~」
二階のリビングに顔を出した人物は、明るいベージュ色のトレンチコートを着用していては疲れ切ったかのような声音で返答する。
彼女が綾人たちの母親、三原未波。黒髪ロングで綺麗な顔立ち。スタイルも良く綾人たち子どもから見ても、二十代後半と言われてもまだ通る、若く見える容姿の持ち主である。
帰ってきた母親に綾人は晩御飯を用意。母親は歩奈とお話ししながら自身の部屋で着替えを済ませ、椅子に座る。
目の前の食卓を見ては微笑み、綾人に礼を言った。
口にすれば美味しいと言い、歩奈と今日の出来事に関してお話しする。
話題の切り替えは次の学校の日の準備。教科書の入れ替えに歩奈が席を外せば、未波は息子の目を見る。
「受験どうだった? 寝坊しかけたんでしょ」
「……別に」
歩奈との話で合った兄が寝坊した件について訊かれると、少しバツが悪い。
問題に関しては、彩乃との話でもあった通り大丈夫じゃないかと思っている。
「それはよかった。そよいちゃんの事、聞きたいんでしょ。少しだけ待って」
先読みされるかのように未波に言われると、テレビやスマホへと目を向けながら食べ終わるのを待った。
未波からしては、不服そうな息子の表情が見て取れていたからか、受験に関してはしつこくは聞かないでいてくれた。
「可愛い女の子が来たでしょ。それとも一段と綺麗だった?」
歩奈の食器洗いに付き添い終われば椅子に座る。
開口一番の言葉には冷たい視線を送った。
「はいはい、そうですね」
「歩奈はどうだった?」
「おかあさんみたいに綺麗な人だった」
頭を撫でる未波の手はご機嫌で、うれしそうに受ける歩奈も笑顔が見て取れる。
綾人としては聞きたい話ではないので軽くあしらった。
呆れてしまうのは未波。これくらいの話しぐらい付き合ってほしいものだと不満顔にもなっている。
「てか知り合い?」
「お祖父ちゃんのお姉さん、その息子さんの子ども。小さいころ、宮代叔母さんに会ったこと覚えてる? 一度だけこの家に来て良くしてもらったでしょ」
「……顔が合ってれば、たぶん覚えてるになる。もしかして宮代さんとも会ってるってこと?」
「ううん、そよいちゃんとはお母さんだけ。少し会うことがあったの」
「ふーん」
過去を振り返ると、宮代叔母さんとはその一度に会ったことがあるような微かな記憶がある。
正月にたまたま顔を出していたのか、彩乃といっしょにお年玉をもらった、そんな記憶ぐらい。
いっしょに居た彩乃にはこう言いたかった、
「びっくりしただろうが」
「それで、こっちに来た理由って何? お兄ちゃんが受けたとこに入りたかったってこと?」
自身の肩に顎を乗せて来る彩乃は、こちらに気にした様子もなし。
訊きたいことを優先していた。
「ただいま。歩奈のお迎えありがとう」
「ふいふい」
「さっきのはそう言った感じ。ひとり暮らしもしたいって話だったから、高校生の間くらいでもって歓迎したの。元はお祖父ちゃんがいいよって言って。綾人には伝えてなかったけど、家からだとここまで二時間以上は掛かるの」
「? これ、ひとり暮らしじゃなくない?」
「いろいろあるのよ。お母さんも高校生で一人暮らしさせるってあまり気が進まないの。大学生になってからはいいけど」
一人暮らしがしたいから。綾人としてはしたいと思わなくもないし、なんとなくしてみたいと思ってもしまう。
ただ漠然とした考えに母は許してくれない。
何事にも理由を聞いてくることが多い。なんとなく、それは未波の頭を縦に振らせる理由にはならないのだ。
彩乃は一人暮らしといったことに例えで話すも、結局今の家が良いと返答し未波はどうして聞いたのやらと苦笑。歩奈は言いたいだけ言っては、まだ離れないでと未波に抱き寄せられている。
「──久しぶり。元気にしてた?」
そう口にする未波は、息子たちにではなく目の前の扉を見て言った。
さすれば、様子を伺っていたのかお風呂上がりのそよいが顔を出し、居心地が悪そうに視線を向けていた。
「お久し振りです……」
「お久し振りです。覚えてる? 未波叔母さんの事」
「は、はい、覚えてます。ただ……変わってなくてびっくりしました」
「本当? そう言ってくれてうれしい。上のふたり、口を開けば悪態ばっかりなの。あ、お風呂でちゃんと温まった? 綾人みたいに寒い格好で風邪ひかないでよ?」
笑顔で話す言葉の上、刺してくるふたりは仲良く視線を逸らして対応。
そよいは久し振りと言ったこともあってか、未波からの流れる言葉には頷くことしかできていない。少し距離感がつかめないでいるようだった。
「変わらず未波叔母さんって呼んでいいから。それか未波お姉さんでもいいよ?」
「あ、あの……」
「未波婆さんでいいから。お姉さんって歳じゃないし」
「お兄ちゃんの言うとおり、未波婆さんでいいですよ。もう三十五だし」
戸惑うそよいを前に、さらにややこしくさせるふたり。
彩乃はというと未波の様子を盗み見るも、目が合ってしまいニッコリとされる。
「……彩乃?」
「ゲームに戻りまーす」
口角を上げながら逃げる彩乃は、そよいにすれ違いざま冷蔵庫の話をする。
そうなると自身の部屋に持って行こうとアイスを取り出し部屋に戻って行った。
「そよいちゃん、迷惑かけると思うけど三人をよろしくね。ないとは思うけど、特に綾人がなにかしたら言いつけなさい、ほっぽりだすから」
「するわけないだろうが」
「なら──て、そもそも心配はしてないから。お母さん化粧落としてくる」
そう言って立ち上がると、三人に笑いかけながら未波は下の階に降りて行った。
「み、三原くん──」
名前を呼ばれると、視線を向ける。
しかし、歩奈もそよいが呼んだことに反応し顔を向けていた。
そんな歩奈は、お姉ちゃんが持って行ったアイスを見て自分も取り出している。
そよいはと言うと、反応した歩奈に対してごめんと謝りたいが元気よく手を上げられてしまった。
「三原です!」
「歩奈は歩奈って呼んでもらえるから反応しなくていいぞ。それにいつ男の子になったんだ」
「なってない」
「だったら返事しなくてよし。──どうかしたの? 羽織るもの欲しかった?」
「お、お風呂入っても大丈夫だから……」
「ありがとう。お祖父ちゃんとお祖母ちゃん入ったか知ってる?」
わざわざ伝えに来てくれたらしい。
本来は母親への挨拶だろうが関係ない、礼を言えばふたりも入ったと知り風呂に入る準備をしようと腰を上げる。
「歩奈、そよいお姉ちゃんにも渡してあげな」
彩乃が言っていただろうが、たまたま漁る歩奈に言えば手招きしている。
すぐに向かってくれる、と勝手に思っていたのだが動かない。気にせずこの部屋を出れば……向かってはいた。
何かやってしまったのか。少し心が痛まなくもない出来事に、頭を洗いながらどうしてかと考えることになった綾人であった。