7 沈み
一階の部屋へと案内されたそよい。
緊張の糸は未だ張ったままで、見知らぬ場所にいるためかひとりの空間に居ても寛げる状態ではない。
言葉通りに驚いた。まさか同じバス停で降りた人物が三原綾人だったとは。
それに加え辻褄が合った。どうして受験校が同じはずなのに、同じバス停で乗ることがなかったのか。
予想だにしていなかっただけに、彼が家から出てきたときは驚きのあまり固まってしまい、言ってはいけない一言を口に出してしまった。
だけど驚いたのは向こうも同じようで、受験といった気遣いから自身の事を伝えておらず困惑している姿が見てとれた。
それならよかったと思える。もし、昨日からここに泊まりに行っていたら彼を困惑させ、あまつさえ受験への影響も大きく左右させたのかもしれない。
受験校が遠いことから茅島の叔父さんに誘われていた内容だった。けれど、ほっとしたため息はこの気持ちの表れだった。
事前に届けていたキャリーケースから物を出し終えると、スマホから着いた旨をメッセージにて送っておく。
既読がすぐに付けば向こうからも返事が。それに対しても一言で返しておくと、そよいはキョロキョロと周りへ視線を移す。
大きな家、とは思ってはいたけれど案内された部屋は予想より広め。自身の家の部屋とよりも広かった。
ただ先ほどのダイニングと思わしき部屋と同じ広さと言ったことに関しては、少し心苦しいと思わなくもない。
部屋を出ると、一階のリビングに出ては目の前のテレビが視界に映る。
テレビを見ていいなんて言われたけれど、この時間帯に何かやっているのだろうか。
そもそもの話気が引ける。まずは綾人から手渡しされたチョコを口の中にパクリと入れてしまう。
最初に食べたとろけるような甘い味わいとは違い、少し苦味のあるチョコを口の中で転がす。
しばらくしてボール形状のチョコは口の中で割ってしまうと、中に敷き詰まったチョコソースが口の中で広がり心が満たされていく。
初めて食べたチョコにどこのだろうと気になっていると、モモがてくてくと足元にやってきてはこちらを見つめてきた。
毛並みがもふもふしていて可愛い。そんな印象と手触りからもう少し撫でたいとは思っていた。
それに目の前のつぶらな瞳の前では触りたい欲求を抑えることはできず、さらにお座りまでされてしまっては無視をできるはずもない。
そよいはやさしく撫でてあげると、モモは大人しく受け入れてくれる。
犬どころかペットは家で飼ったことがない。
別に住んでいる家が禁止でもないし、飼いたいと思ったことがないわけではない。
ただ、こうして触れていると欲が出てしまうもの。
もし、合格しているなら。もし、ここで三年間本当に住むのなら。ちょっとした不安はモモがいることにより少しは解消されそうな気がした。
体勢が辛いため、一度カーペットに腰を下ろしてはモモを撫で直す。
頭や首元を撫でてあげると、たまに目を細めては気持ちよさそうにしている。
その表情を見ればさらに撫でたくなり、今までの抱えていたものがほんの少し軽くなっては心が浄化されていく。
『まだいんの? あっち行ってていいよ』
ふとした瞬間、思い出してしまっては……心が沈んでいく。
『宮代って全く笑わないよね。ほんと顔だけが取り柄でしょ』
『そう? 一応勉強できるほうじゃない?』
『って言っても、~君と比べたら全くできてないでしょ。あと、~ちゃんとかさ。平均より少し上なだけじゃんか』
『それは置いといて、そもそもの話愛想悪すぎなんだよね。目も合せないし、俯いてばっか』
『それなー、まじ陰キャ。顔整ってんのが余計ムカつく』
『ほんと羨ましい限りだよ。普通に座ってるだけでモテるとかさ。……宮代になってみたいわ』
『私もー』
『え、ふたりともまじ? 笑いもしないのに?』
『『そこだけはいや』』
誰かが笑い、そのあとも仲の良い会話は続いていく。
あまり思い出したくもないことに気持ちが沈むと、ここに居たい、そんな思いが募っていく。
逃げることができるのなら、どこでも良かった。
そんなことから申し訳ないけど、ここに居たいは嘘かもしれない。そういった意味では本当に迷惑をかけてしまっている。
茅島家に三原家、それと……親にも同じこと。
(ごめん……)
背中から優しく包み込まれる。
そんな感覚に懐かしさを覚えると同時に違和感も感じてしまう。自分は何をしていたのかと。
公立の受験を受けた。お世話になるだろう家に訪れた。そして目を落とした。
……最後の言葉を皮切りに、脳が覚醒する。
「お、おはよう」
慌てて起きあがるそよい。すると、綾人が両手を上げながら驚いた表情で立っていた。
どういった状況になっているか、それは肩に掛けてくれただろう毛布を手に取り理解する。
人様の家でやってしまった。内心落ち込んでしまいそうだが、彼がわざわざ膝を付けて視線を合わしてくるとそのような暇はなかった。
「神に誓って何もやってません」
「……ごめん、寝ちゃってて」
謝る彼に似たような返答。
癖となってしまっている言葉はさておき、彼がどうして難しい顔をしているのかはわからない。
自分が悪いはずなのに。
「いいよ、謝らなくて。俺も受験終わりで疲れてるし」
「……呼びに来てくれた?」
「そう。晩御飯できたけど先に食べる? それともお風呂にする?」
「…………」
「どっちでもいいけど……いや、そういうあれで言ってない、絶対。…………ごめん、忘れてほしい」
「モモを捕まえろー!」
耐えられなくなったのか顔を伏せる彼を見ていると、光差し込むリビング方面からモモが飛んでくる。
そして流れるように彩乃もこの部屋へと飛び込んでくると、綾人がゆっくりと立ち上がり、ため息を吐きながら電気を点けた。
「おい、ここで遊ぶな」
「待てーい!」
お風呂上りだろうか、柑橘系の香りを漂わせる彩乃からはそう感じさせられる。
そんな彼女は青一色単の寝間着姿に着替えていては、楽しそうにモモを追いかけまわす。
広い部屋なだけにいい遊び場になっているよう。
捕まえることができたのはベッドの上にモモが乗ってから。滑り込むようにキャッチしていた。
となると、倒れ込むように寝転んだ彩乃はそのままモモを撫で始める。
だらけ切った表情と体勢は彼女の疲労度を表しているよう。
そしてモモを胸元へと抱えながら二転三転と回転し、たまに抱き寄せて。頬が緩み切ったその顔は幸せそのものだった。
「よしよし、お前はかわいいなぁー」
「突撃ー!!」
「──おえっ!! お姉ちゃん潰れる……」
「お姉ちゃん、お腹ポンポン!」
「……歩奈、ちょっと退いてあげようか。お姉ちゃん死んじゃうから」
同じくお風呂に入っていたのだろう歩奈も参戦すると騒がしい部屋に様変わり。
三原三兄妹のやり取りを見るや否や、起きたばかりの脳では遠い目をするかのように見守ってしまう。
さっきとは言えないが、振り払われるかのような、そんな光景に。
「起きたの、そよいさん」
意識がぼんやりとする中、初めて聞くような声に後ろを振り返ると、この部屋をのぞき込むようにしてひとりの女性が顔を見せていた。
それは恐らく、茅島の叔母さんであった。
「こ、こんばんは」
「こんばんは。お腹空いたでしょ、早く食べておいで。彩乃も歩奈もお兄ちゃんが怒っちゃうよ」
「「は~い」」
柔らかな声に素直なふたりは返事をしてはこの部屋を出て行く。
「おじいちゃんも帰ってきてるから、あとで顔だけでも見せてあげて」
「は、はい。あの……お世話になります」
「ごゆっくりどうぞ。三人と仲良くしてあげてください。それとこの子も」
茅島の叔母さんがモモを抱えながら言うと部屋を後に。
すっかり静かになるといつの間にか綾人もおらず。嫌なことを思い出していたけれど、少しは靄が晴れていき、お腹が空いたと感じれば二階へと上がった。