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泉鏡家

 家の手伝いをしなくちゃいけなくなったと嘘をつき、申し訳ないけれど睦姫の特別授業を回避させてもらったのだが、僕は一週間経ってもまったく答えが出せずに鶫実を待たせ続け、なんとそのまま三年生の秋を迎えてしまう。すべてが宙ぶらりんで、睦姫も僕の復帰を待っているはずだし、鶫実も僕の返事を待っているはず。だけど二人とも何も言ってこず、関係は以前のままなんだけど、もしかしたら密かにあきらめられてしまったのかも……ということにして、弱くて卑怯な僕は問題を先送りにする。最低だと思うし、会うたびに罪悪感がすごいけど、二人が何も言ってこないのも逆にやりづらくて僕は延々おろおろしている。受験勉強だってラストスパートをかけていかないといけない。


 今日は泉鏡家に『いずーみパレス』で集まって勉強会だった。その休憩時間中に、僕は睦姫の父親が育てている観葉植物のコレクションを見せてもらう。ひと部屋すべてが植物用に使われており、小さな鉢に植えられた植物が一面に並べられているのは圧巻だった。鉢の直径は十から十五センチほどのものがほとんどで、それが数百鉢整列していると、何か別のもののように見えてきてしまう。加えて、植わっている植物も見たことのない珍妙なものばかりだった。ガラス細工のような植物。フィギュアみたいな質感と見た目の植物。親指ほどの、青リンゴ味にワンポイントでイチゴ味が練り込まれたソフトキャンディのような植物。植物として土に刺さっていないと何かと思ってしまうようなものだらけ。ソフトキャンディは一粒で何万円とするらしく、睦姫の父親は説明をし終えてもう退室してしまったが、子供だけをこんなところに残していって大丈夫なのかな?と却って不安になってしまう。


 太陽光の代わりにLEDライトが注がれており、風を再現するためのサーキュレーターが複数個取り付けられている。大学の研究室を彷彿とさせる睦姫パパの趣味部屋。


 僕について来ていた悠花が「観葉植物っていうか、多肉植物って呼ばれてる種類みたい」とスマホ片手に言う。


「聞いたことないね」と僕。視線は植物に釘付けだ。「世界にはこんな植物がたくさんあるんだね。すごいね」


「植物以外にも、この世界には信じられないようなものがまだいっぱいあるかもね」


「きっとあるよね」

 植物だけでもこんなに奇っ怪な姿形のものがたくさんあるのだから、動物とか魚とか、あとは川とか洞窟とか? 目で見て触れられるものに限らず、事件や事故、思想など、僕が思いもよらないとんでもないものが存在しているに違いない。あるいは過去に存在していた、か。


 僕はすっかり楽しくなってしまう。この植物も一鉢欲しい。お願いしたらもらえそうだとは思うけど、申し訳ないし、睦姫パパみたいに上手く育てられる自信もないのだった。ただ向こう見ずに欲しいだけで、子供だなと自分で自分を拙く感じてしまう。大人になって自分で調べて自分で買って、育てよう。一体どれくらい先の話で、それまでこの感動を覚えていられるのか、なんとも言えないのだけれども。


 僕が熱中していると、悠花がおもむろに顔を上げて体を固くする。「どうかした?」という僕の質問を無視して悠花が廊下に出る。


 そして、「やばい! マサ、出てきて!」と声を上げる。


 なんだなんだと僕も駆け足で移動して趣味部屋から顔を覗かせると……炎が。火と煙が廊下をうねって忍び寄ってきており、もう眼前だった。え、火事? いきなりすぎて思考が止まる。泉鏡家は廊下も広くて高いのに、炎はそれですら狭いとばかりに自身の体積を拡大させ進行している最中だった。悠花はよく気がついたな。


「ど、どうしよう……?」

 炎の威力はすさまじい。まだ僕達との距離は多少あるものの、それでも皮膚が剥がれそうなくらい熱いし、何か、僕達を押し退けようとする圧力みたいなものも感じる。熱風? それから煙か。量はまだ少ないけれど火よりも先行していて、僕の鼻先に既に到達している。匂いがどうとかよりも、喉や鼻腔を物理的に研磨してくるような不快な存在感がある。あまり呼吸をしちゃダメだ。


「逃げるよ」

 悠花は炎に背を向けて、まだ無事な方の廊下を進もうとする。


 僕は……もったいないと思いながらも念のため趣味部屋のドアをしっかりと閉め、それから……ああ! そんな心配をしている場合じゃない!

「睦姫と鶫実が……!」


 二人は向こうにいるのだ。無事な方の廊下の先じゃない。火の手が上がっている方角の部屋で勉強をしていたのだ。助けにいかなくちゃいけない。とはいえ、廊下はもう一面に炎が充満しており、向かおうにも向かえない。でも……でもまだ遅くはないはずだ。まだきっと間に合う。息を止めて走り抜ければ、熱いかもしれないけどなんとかなるかもしれない。


 僕が炎を見据えていると、悠花に手首を掴まれる。「何してるの? 早く行くよ!」


「睦姫と鶫実が向こうにいる!」と僕はすぐ言う。


「無理だって!」と驚いたように悠花が叫ぶ。


 無理? 無理ってどういう意味だ。何が無理なんだ。

「僕は男の子だから、二人を助けなくちゃいけないでしょ!?」


 悠花の、僕を掴む力が強まる。「いや、そっちへはもう行けないから!」


「いや、炎の薄いところを通れば……」


「ないよ!そんなの」


「…………」

 たしかに。見ると炎は渦を巻いているみたいに柔軟で、薄くなったと思った瞬間に再び濃くなる。それを繰り返しながら僕達に迫っている。


「早く! マサ!」


「でも僕が行かなくちゃ!」

 悠花の手を振りほどき、僕は覚悟を決めて炎に突っ込んでいった……つもりだったが、悠花の握力は強くて僕は捕まったままだった。


 しかも悠花に頬をぶたれる。「バカ!」と怒鳴る悠花は涙目だ。「無理だって! こっち来て」


「…………」


「言うこと聞いて!」


「…………」

『なんでも言うことを聞く』という悠花の言葉が反射的に思い出される。なんでも言うことを聞いてるわけじゃない、と僕は心の中で反射的に返し、今現在の悠花の言い分は聞き入れたくない!と強く思う。でも悠花にぶたれた頬は炎の渦中でもジンジン熱いし、悠花の涙目にびっくりしてしまい僕は体の力が抜けている。


 それを悟られ、悠花に無理矢理引っ張られ、僕達は火の手と反対方向へ走り出すことになる。睦姫と鶫実が……と僕は泣きそうになるが、よくよく考えると、悠花をここに一人置いていくことだってできないのだ。


 途中に、窓ではないガラスの壁があり、そこから外が見える。ここからの風景を眺める限りでは、そちらはまだ延焼していなさそうだった。


 悠花がガラスの壁を思いきり蹴るが、割れない。ビクともしない。「つっ……クソ」


 悠花が『クソ』などという悪態をついたことに僕は戸惑いを隠せないが、そんなことを考えている場面でもない。「悠花、大丈夫……?」


「足痛ー」と悠花はちょっと笑う。「窓を探してそこから出よう」


 僕と悠花はさらに走るが、反対側の先にも炎の姿が。やばい。挟まれそうだ。

「どこからどこまでが燃えてるんだろう……!?」


「こっち!」

 悠花は僕の手を引き、廊下から部屋へ入る。そこは書斎のような場所で、大きな棚が整然とした間隔で立ち並んでいて、それらの中に高さの揃えられた本達がきっちりと隙間なく収められている。


 本棚の間を抜けていくと、部屋の奥に窓がある。悠花がそれを開ける。外にはまだ炎の気配はない。僕達は窓枠に足をかけて脱出する。が、泉鏡家は広大で、ここはまだ敷地の外じゃない。庭だ。苔や樹木、石で風景を形作った、和風の庭だった。池もある。しかも、書斎側は無事だったけれど、庭の両側は建物の火が燃え移りつつあって、青々とした美しい苔が焼かれ始めている。


「奥まで行って!」と悠花に言われ、僕は石畳の歩道を駆けて、庭を突っ切る。端の、石垣まで来る。ここを越えれば外だけど、近くに立つと思った以上に高い。ジャンプして僕の手がようやく上にかかるくらいだ。これ、乗り越えられるか? 上っていけるだろうか? 立ち尽くしていると、後ろから「よじ登って!」とまた言いつけられる。「押すから!」


 僕は言われるがままに石垣の上部にとりあえず手を伸ばして届かせて、次いで足先を石垣の側面に引っ掛けるようにし、そこから腕の力で一気に上へ行こうとするが……筋力がなさすぎて全然体を持ち上げられない! 反動で脱力しそうになっていると、下からものすごい力で押し上げられて、僕は体勢が整わないままに石垣を越えて向かいの通りへ落ちる。かなりの高さがあり、受け身も取れなかった僕はアスファルトの地面に叩きつけられて呻かされる。しかしとにかく脱出はできた。安堵する。


 している場合じゃない。石垣の向こうにはまだ悠花が残っているのだ。え、悠花一人で上ってこれるか?

「悠花!? 大丈夫……?」


「……どこかに足場になる石でもないかな」

 悠花の声だけが聞こえる。


 石? 石石石。こちら側を探すけど、民家ばかりで石なんて落ちていない。落ちていても、到底足場なんかにならなさそうな歪な形の小石しかない。足場。足場足場足場。誰かの家で椅子とかを借りてくる? いや、事情を説明している間に炎が迫ってきてしまうかもしれないし、最悪追い返されてしまったりしたら本当に時間の無駄だ。あと、椅子とかをこちらから投げ入れると落下の衝撃で壊れてしまうかもしれないし、悠花に当たっても危ない。なんかなんかなんか……と思いながら僕は民家の方へ走っていて、ほとんど無心で、知らない人の家の前に備え付けられている水道の蛇口に繋いであるホースを断りもなく勝手に引っこ抜いて持ち出す。怒られたら謝るしかない。伸びきったホースを手繰り寄せて手元に集めながら石垣に戻る。


「マサ! いる……?」と悠花が訊いてくる。


「いるよ!」


「ねえ、マサ」と悠花が何か言おうとしているが、時間も惜しいので僕はホースを庭へ投げ込む。


「こっちで引っ張っておくから、それ使って上って!」

 非力な僕が悠花の体重に耐えきれるかどうか、自信がないが、弱音なんて吐いていられない。こっちも全体重をかけて対抗するしかない。


「大丈夫?」

 悠花がホースを引っ張ったのか、少しだけ力が伝わってくる。


 この辺りを掴んでおけばいいのか。「オッケーだよ! 来て!」


 すぐさま、グッと重みがかかる。僕も体を傾けながら、ホースを持っていかれないよう踏ん張る。そんなに長い時間はかからないはずだ。頑張れ~~~。悠花を、というより僕は自分自身を鼓舞する。僕が力尽きたら悠花が庭へ戻されてしまうし、この場で頼りないのはどちらかといえば間違いなく僕なのだ。


 果たして、すぐに石垣から悠花が顔を覗かせ、でも勢い余ってやっぱり落下するように通り側へ来る。僕は悠花がホースを離した際にひっくり返ってしまったが、体勢を立てなおして悠花をキャッチしようと滑り込む。だけどそんなに上手くいくわけないし、しかも悠花は落下中もしっかりボディバランスを保っていて、僕がクッションにならなくてもちゃんと地面に降り立てた。


 僕は安心してしまいすぎて気絶しそうになる。通りに仰向けに寝そべる。悠花はクッション代わりの僕を踏まないように立っていたが、同じく力が抜けたのか、そのまま僕に覆い被さるように倒れてくる。よかった。やはりクッションは必要だった。

 悠花は泣いていて、僕もつられて泣く。

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