稲倉鶫実②
中学三年生になると、ほぼ毎日、睦姫が僕を泉鏡家に呼び、いろいろなことを教えてくるようになる。教えるのは睦姫じゃない。睦姫ではない大人の人が、僕にパソコンや格闘技、会社やらお金やらの仕組み、英語などを教えてくれる。英語は学校の授業とは異なる、会話することに重点を置いた内容で展開される。
どうして僕にそれらのことを教えようとしてくるのかはわからない。だけど、睦姫の有無を言わさぬ迫力に僕は圧されて、特別授業を受けてしまう。特別授業は睦姫もついていてくれるし、先生である大人の人達も面白くて飽きなくて、ついつい熱中してしまう。
その話を悠花にしていたら鶫実も聞いていて、放課後、誰もいなくなったカウンセリング室に連れていかれて怒られる。「わたし、睦姫の世界に入り込んじゃダメだって、言ったよね?」
鶫実は感情的なトーンじゃなかったけれど、もう二年間もいっしょにいるから、あ、怒ってる、というのがはっきりわかった。
とりあえず僕は否定する。「入り込んではいないよ」
「そういうのが入り込んでる……取り込まれてるっていうんだよ?」
鶫実の声はあくまでも穏やかだ。
「……そういうのって?」
「いろんなことを教えてもらってるんでしょ? 空井くん、どうしてそれをわたしに話そうとしなかったの? 後ろめたいからじゃないの? わたしとの約束を守れてない自覚があるから」
「いやいや、鶫実にだって話すつもりでいたよ? たまたま悠花が近くにいたから、悠花に話してたけど」
鶫実は嘆息し、「空井くん、自分が今、何をされてるかわかってる?」と質問し、すぐに自分で言う。「執事になるための教育を受けてるんだよ。初歩の初歩だけどね。空井くんが泉鏡家でやっていけるように鍛えてるんだよ、睦姫は」
「え!?」僕を執事に? 「なんで?」
「なんでって、空井くんといっしょにいたいからだよ、睦姫が」
「いっしょにって、大人になってからも?」
鶫実の眉がピクリと動く。「そうだよ」
「…………」
睦姫は僕を近くに置いておきたいのか。高校生になっても大学生になっても、大人になっても? ん? でも執事になるんだったら大学生にはなれないのかな?僕。どういう予定が立てられているのかイマイチわかっていない。
「嬉しい?」と鶫実に訊かれる。
「え」
僕は睦姫の意図に対しても鶫実の苛立ちに対しても混乱していて上手く返事ができない。
「睦姫は空井くんのこと思ってるよ。嬉しい?」
「それは嬉しいけど……僕は執事になれないでしょ」
「なれないよね」と鶫実も頷く。「普通の受験勉強もしなくちゃいけないのに、睦姫の特別授業に付き合ってられる?」
「いや、でも……」
「でもじゃないよ。空井くんは執事になってずっと泉鏡家で働くの?」
「…………」
現実的な話じゃない。けど、睦姫がレールを敷いてくれるなら、僕なんかでも不可能じゃないって気がする。それに、泉鏡家の中だけで働く分においては執事の養成学校へ行かなくたって問題ないはずだ。
「そんなの、空井くん、自分の家族に言える? 睦姫んちで雇ってもらうから受験勉強はしないし大学も行かないなんて」
「それは……」
それはそうだ。そんな突飛な話は家族にできない。したとしても反対されて終わりだ。
「空井くんがそういうことしてると、家族も困るんだよ?」
「うん。それはまあ、そうだね」
「それに、それより、わたしとの約束はどうなったの?」
鶫実と僕は棒立ちで向かい合っているのだが、鶫実が一歩、僕に近づいてくる。「睦姫と深く関わらないって約束したよね?」
「う……」
でも僕は同意してない……と言いたいけれど、今更そんなこと言えない。それにキスしてしまっている。約束のキス。あれを返せと言われても無理だし。どう返せばいいのかもそもそもわからないし。
「特別授業は二度と受けないって、睦姫に言って。空井くん」
「…………」鶫実の言い知れぬ気迫に僕は怯む。怯みっぱなしだ。「どうしてそこまで……」
「好きだからって言ったでしょ」
鶫実がもう一歩踏み出してきて、それで僕との距離感はほぼなくなる。鶫実は僕の背中に腕を回して、体をくっつけてくる。「空井くんに変な場所へ行ってほしくないんだよ。そこは空井くんの居るべき場所じゃないんだよ」
「…………」
鶫実の顔が僕の顔の真横にあって、僕は息が止まる。
「空井くんはなんでも詰め込めるし、なんでも吸収するから、睦姫は面白がってるだけなんだよ。『面白い』を『好き』と取り違えてるんだよ」
「……鶫実は?」
「……うん?」
「鶫実は僕のことが本当に好きなの?」
「好きだよ」と鶫実は当然のように告げる。
「本当に?」と僕は何度も訊いてしまう。
「本当に」
鶫実は少しだけ僕から体を離し、すぐにまた抱きついてくるが、今度は体だけじゃなくて唇も密着する。二回目のキスをされてしまう。
「…………」
この前のキスと違って、長くて、なんか鶫実の唇が僕の唇をはむはむ挟んできて、僕は鶫実の唇の感触に頭が真っ白になってしまう。
「……空井くんはわたしのこと好き?」
口付けしたまま鶫実が喋ってくる。鶫実の喋りに合わせて僕の唇ももぞもぞ震える。
僕はとてもじゃないけど口なんて動かせなくて、小さく呻くばかりだ。鶫実はいかにも余裕がありそうなふうでいるけれど、心臓はドクドク言っていて、密着しているからそれが僕の胸に伝わってくる。僕の鼓動と鶫実の鼓動、それぞれが必死に脈動している。鶫実も平常心で僕を翻弄してるってわけじゃないのだ。
「鶫実のことは好きだけど……」
「じゃあ付き合おう?」
「でも……」
他の女子の顔が浮かんできて、僕は「いいよ」と言ってあげられない。
「睦姫のこと考えてるでしょ?」
「……睦姫にはすごく親切にしてもらってるし、優しくしてもらってるし、どうしても邪険にはできないよ」
「邪険になんてしなくていいよ。今まで通り仲良くすればいいんじゃない?」
「…………」
「……じゃあ、もっとわたしのことが好きになるように、いいことしてあげるよ」
鶫実がまた僕から体を離す。今度は何をしてくるのかと僕は警戒しつつ鶫実を凝視するが、鶫実の表情が本当に可愛らしくて僕は爆発してしまいそうになる。目がとろんとしていて、湿った唇が半開きになっている鶫実。僕は女の子のそんな表情をこれまでに見たことがなくて、こんな表情があったのかと感動すらしてしまう。だからこそ恐い。今の鶫実に何かされたら、僕は壊れてしまいそう。
「ダメ!」僕は地上で溺れそうになり、その恐怖心から大声になってしまう。「……鶫実。鶫実のことはしばらく考えさせてよ」
「……明日の放課後まで」
「や、一週間くらい」
「待てないよ」と鶫実は笑う。いつもの鶫実だ。よかった。僕は一安心する。
「よく考えたいんだ」
「その代わり、睦姫からの特別授業はキャンセルしてね?」
「…………」
「わかった?」
「……わかった」
とりあえず、鶫実への気持ちをどのようにするか決めるまでは、睦姫に断って特別授業をお休みさせてもらおう。
「睦姫のところへは絶対に行かないでね」と鶫実が囁くように言う。
好きなのか……と僕は思う。鶫実が僕を好きだなんて、そんなのとてつもなく嬉しいはずなのに、シチュエーションが特殊すぎて素直に喜べない。睦姫も僕のことが好きらしい。でも睦姫の気持ちは純粋な恋愛感情ではないようで……ってそれは鶫実がそう言っただけで確証はないのだ。できれば睦姫の本心も確かめたい。だけどその前に、僕だ。僕の気持ちも、我ながら純粋な恋愛感情とは断定できない。ずっと『いずーみパレス』でワイワイやってきて、みんなのことは可愛く感じていたけれど、その感覚と恋愛感情はまた違うんだろうか? 僕が鶫実と付き合いたい……気がするのは、鶫実が可愛らしい顔でキスしてくれるのが嬉しいだけなんじゃないの? それは恋愛感情としてカウントしてしまっていいんだろうか? わからない。いろいろわからなさすぎる。だけど残念なことに、睦姫の特別授業には恋愛講座がない。