泉鏡睦姫
下校していると、シルバーの大きい四角い自動車が僕の隣で減速する。すぐに後部座席の窓が開き、睦姫が顔を覗かせる。「空井、乗ってかない?」
泉鏡家の送迎車は、このシルバーの車だ。黒くて細長い高級車みたいなやつの方がお嬢様っぽいけれど、わざわざそういうのは使わないらしい。不必要なところで過度に目立っても損しかしない、と睦姫は言っていた。もちろん泉鏡家の車庫には黒くて細長い高級車もある。
僕は以前の悠花の言葉を思い出していて、今、睦姫の誘いに乗った場合、僕は『なんでも言うことを聞いている』ことになるんだろうか?と黙考してしまう。
悠花はだいたいにおいて僕に優しいので、あの言葉が僕への嫌味だったりからかいだったりということはありえないと思うんだけど、だからこそ余計に僕の心を打ち鳴らしている。あれは冗談じゃないのだ。悠花は悪気なく本当にそう感じていて、それを僕にただ伝えただけなのだ。
あの日から、睦姫に話しかけられるたび、言うことを聞いてしまっているか否かが頭をちらつく。
僕は「悪いから歩いて帰るよ」とお断りさせてもらう。
「えー。なんで? つまんない」と睦姫に言われる。「空井の家は通り道の途中にあるんだから、気にしなくていいよ。乗って。お喋りしながら帰ろうよ」
全然断れない。僕はけっきょくシルバーの車に乗せてもらう。中は広いが、普通の自動車だった。すべての座席が進行方向を向いている。ただ、シートは猛烈にフカフカで沈んでいきそうだった。
運転手は大人の若い男の人で、僕が乗り込むと「こんにちは、空井くん。学校、お疲れ様でした」と挨拶してくれる。
「あ、こんにちは」と僕も驚きながら挨拶を返す。「あ、ありがとうございます」
「行こう、奏村」と睦姫が言う。「ゆっくり走っていいよ」
「かしこまりました、睦姫さん」と男の人……奏村さんは車を再発進させる。
「お兄ちゃん?」と僕は小声で睦姫に尋ねる。
「絶対違うじゃん」と睦姫に笑われる。「ホントにいいよねー空井は。面白くて、楽しくて。奏村は執事さんだよ。あたしのお世話をしてくれる執事さん。ちゃんと執事の学校を卒業してるよ」
「え、へえ……」
僕のイメージだと、執事はおじいちゃんなんだけど、若い人だってありえるんだ。バックミラーに映っていてチラリと窺える奏村さんは、睦姫のお兄ちゃんだといっても不自然じゃないくらいの年齢に見える。「お嬢様って呼ばれないんだ?」
「そういうわざとらしいの、好きじゃないから」と睦姫。「それにあたしは自分の名前が大好きだし。名前で呼んでもらいたいもん」
「なるほど」
「空井もたくさん呼んでね?あたしの名前」
「わかったよ」
僕は座席シートが心地よすぎて逆に落ち着かない。何度も居住まいを正してしまう。いや、ウチの車がこんなシートだったら深く深く腰かけて動かなくなってしまうだろうけど、睦姫もいて、奏村さんもいると、つい意識をしてしまう。二人とも姿勢がいい。「……執事の学校なんてあるんだね。礼儀作法とかを学ぶの?」
「必要なことを全部学ぶよ。そう簡単には卒業できないんだから」
「すごいね」
「しかも奏村は格闘技もやってるし、プログラミングなんかもできる。五ヶ国語も話せるし」
「なんでもできるね」
「なんでもできるよ」
「なんでもはできませんよ」奏村さんが会話に入ってくる。「睦姫さんを楽しませる力なら、空井くんの方が遥かに上だと思います。私など、到底及びません」
「そりゃそうだ」と睦姫は笑う。「よかったね、空井。空井の勝ちだよ」
「ほとんど負けてるよ」と僕は苦笑だ。
「あたしを楽しませられないんだったら、どんなスキルもないも同然だよ」
えー、そんなこと言っていいのかなと内心居心地悪く思っていると、奏村さんが上品に笑う。「私も修行が足りません。もう一度養成学校で学びなおした方が賢明かもしれません」
「そんなところで勉強してもあたしのことは笑わせられないよ。ねえ、空井?」
「え、うーん……どんなもんだろうね」
「あ、ねえ空井。今からあたしの家に来ない? 遊ぼうよ」
「えあ? 唐突」
話題も急に飛ぶ。睦姫と遊ぶって? 僕も泉鏡家へ上がらせてもらったことはあるけれど、いつもなら他のメンバーもいっしょだ。睦姫と二人きりで遊んだことはまだない。二人きりで遊ぶとなると、何をすることになるんだろう? 想像もつかない。
「睦姫さん、空井くんにもご都合がありますよ」と奏村さんが僕を慮ってくれる。
「空井にご都合なんかあるの?」と睦姫が訊いてくる。
「ん? うーん……母親に連絡してないしなあ」
僕の微妙な言い訳に睦姫は物言いたげだったが、「じゃあ奏村。少しだけ遠回りして帰って」とだけ言う。「それならいいでしょ?空井。あたし、もうちょっと空井とお喋りしたい」
「う、うん……」
僕はあんまりグイグイ来られると赤くなってしまう。
睦姫は僕をまっすぐに見て、笑顔だ。「緊張しなくていいよ、空井。座席シートに寝転がったって構わないんだから。リラックスしててよ」
「やあ……睦姫も奏村さんも姿勢がいいから」
「じゃああたしもぐったりしちゃおうかな」
「あ、ダメダメ」と僕は慌てて言う。「僕に合わせてくれなくたっていいから」
「なんで?」
「いや、だって……」睦姫の姿勢だったり作法だったりは、そういう教育の賜物なんだろう。つまり、身についてしまっている習慣だから、敢えて崩そうとすると、今度は睦姫の方に負担がかかるんじゃないかと思ったのだ。睦姫に無理はさせたくない。それに。「睦姫の姿勢、綺麗で好きだから」
僕のためにそれを崩すなんてダメだ。なんか、尊いものを汚しているような気分に陥ってしまう。
睦姫は真っ赤になる。「そんなこと言われたら、くつろぐにくつろげなくなっちゃうじゃん、あたし」
僕もつられて赤くなる。あ、いま恥ずかしいことを言っちゃったんだ、と僕は学ぶ。女の子との会話は学びの連続で、ためにはなるのかもしれないけれど息つく暇もない。