奇谷悠花①
そういう実感はないんだけど、僕が『いずーみパレス』で客観的にハーレムみたいな状態になっていても、僕が他の男子から直接的な嫌がらせを受けることはない。睦姫の恵まれた境遇に嫉妬して睦姫に敵意を向けてくる別の女子グループなんてものも存在しない。なぜなら『いずーみパレス』は奇谷悠花によって守られているからだ。
悠花は幼稚園児の頃からテコンドーを習っていて、メチャクチャに強い。僕は戦っている悠花を実際に見たことはないんだけれど、睦姫がそう言うんだからそうなんだろう。もちろんテコンドーを試合以外の場で使用することは許されざる乱用なんだろうが、ともあれ戦闘に関して腕に覚えのある者がいるのといないのとでは諍いの発生頻度が段違いなんだろうなあと僕は想像する。悠花は強烈な抑止力として働いているのだ。
でも一度だけ、肝が冷える出来事があった。二年生になったばかりの、五月。鷹座駅の近くで遊んでいるとき、高校生らしき男子の三人組に絡まれたことがあった。もちろん睦姫もいっしょにいたので、僕は焦りに焦った。睦姫はお嬢様だから、特に傷つけられるようなことがあってはいけないのだ……という思い込みというか認識が僕の中にはあって、睦姫だけは絶対に守らなければいけない!とそのときは反射的に強く思った。本当は、鶫実のことも悠花のことも遼のことも澪子のことも絶対に守らなければならないに決まっているのだが、お嬢様という属性めいたものが僕の意識を引っ張ったのだ。
そのときにただ一人、恐れることなく前へ出たのが悠花だった。僕は、男子である自分がなんとかしなきゃ!と志だけは立派だったが、心で思っているだけで足は全然動いていなくて、なんなら睦姫より少し後ろにいた。そんな中、悠花が颯爽と立ちはだかってくれたのだ。
けれど、別にバトルが始まったわけじゃない。悠花はただ「やめてください」と言っただけだった。構えることもしなかった。ただ僕達を庇うように立ち、口を動かしただけだった。
悠花のただならぬ気配に怖じ気づいたわけではないんだろうけど、でも男子高校生らしき三人組は何もせずに退散してくれた。僕はホッとしながらも自分が恥ずかしくていられなかった。
別の日、教室で悠花と二人きりになった機会に、僕は「悠花は強いね」とおもむろに言った。
脈絡がなさすぎて「急にどしたの?」と悠花に困られてしまった。
「いや、ほら、この間……男子高校生に絡まれたことあったでしょ? あのとき、当たり前みたいに高校生に立ち向かっていって、すごかったよ」
「立ち向かってはないよ」と悠花は困りながら笑った。「ただ、『乱暴なことはしないでください』ってお願いしただけだよ」
「それが強いんだって」と僕は力説した。「あんな、何をしてくるかわかんない年上の男子に対して、普通は堂々としていられないよ。恐くなかったの?」
「なんとなくだけど、大丈夫な気がしたんだ」と悠花は言った。「ダメだったら、やるしかなかったけど」
僕をやんわり蹴るようなポーズを取る悠花を、僕はぼーっと見ている。「ふうん」
「私には一応、武器があるから。だから堂々としてられるんじゃない? 最悪、その武器を使えばいいわけだし」
「必ず勝つ自信があるんだ?」
「それは、あるよ」悠花は少し照れ臭そうに言った。僕にはそう見えた。「私は、そのために睦姫の傍にいるわけだから。睦姫は自分を守らせるために私を傍に置いてるんだよ」
「え、友達でしょ?」
「友達だよ? でも、私がテコンドーしてなかったら私は睦姫の傍にはいなかったよ、きっと」
僕はわけもなく焦ってしまった。「でも二人とも仲いいじゃん」
「仲いいよ。友達だもん。でもテコンドーがなかったら私と睦姫は友達になるきっかけがなかったっていう話」
「まあ、そっか」
それはそうか。僕にだって、まったく関わりがないけれど本当はすごく仲良くなれる相手がどこかにいるかもしれない。それは関わり合うためのきっかけがないからわからないままであるだけなのだ。テコンドーなんてなくても悠花は睦姫と友達になれてたよ!っていうのは、僕がそう思いたいだけであって、悠花にとってはそうじゃないんだろう。たぶん悠花の言葉の方が正しい。
「私は睦姫を守る役割、澪子は勉強を教える役割。遼は賑やかしかな? 鶫実はよくわからないけど……」
「え、じゃあ僕にも何か役割があったりするの?」
それは興味深い話だった。ずっと謎だった、僕が『いずーみパレス』に加えられた理由。
「マサは……なんでも言うことを聞いてくれるからじゃない?」
「え」衝撃だった。「本当?」
「なんでも言うことを聞くっていうか……ちょっと違うな。なんて言ったらいいんだろ……」
「僕、別になんでも言うこと聞いてるわけじゃないよ」
僕にしては珍しく強い口調だった。だって、それって、扱いやすそうみたいな意味じゃない? 簡単にあしらえるみたいな。そういう人材が欲しくて、僕は男子の輪から引き抜かれたの?
「ごめん。言葉選びを間違えたかも。悪い意味じゃないよ?……たぶん」
「…………」
だけど、最初にすんなりスムーズに選ばれた言葉こそが一番的確な気もする。なんでも言うことを聞いてくれる? 繰り返しになるが、なんかショックだった。そういうリアクションしか取れない。
「マサは優しいから」
「…………」
それも今言われてもあんまり嬉しくないし、フォローの言葉としては威力が低すぎる。「……じゃあ、僕に何か頼んでみてよ。僕が本当に言うことを聞くかどうか」
「いや、えぇ……? このタイミングで、そんなの意味なくない?」
「意味なくないよ。早く」
「ねえ、マサ。機嫌を損ねたんなら謝るから」
「損ねてないってば。早く」
僕の急で強引な提案に悠花は困惑していたけど、「じゃあ……」と渋々。「私の頭を撫でてみて」
ん? 頭を? そういう方向性で来るのかと僕はカウンターをもらった気分だった。ならばどう来ると予想していたのかといわれてもなんともわからないが、悠花って僕に頭を撫でてもらいたいの? 別にそれくらいだったら全然構わないんだけど……と思いながらハッとする。いや、今のこの流れで僕は頭を撫でてはいけないのだ。それをしたら僕がやっぱりなんでも言うことを聞く奴になってしまうのだ。危ない危ない。主旨を見失うところだった。
僕は「嫌だ」と目を瞑った。「撫でないよ」
悠花の控えめな笑い声が聞こえた。「それは、そう言うよね」
「僕はもともとそういう奴だから」
「私の言うことなんか聞かないよね。マサが言うことを聞く相手は睦姫だけだし」
「そんなことないって」
「ん? 私の言うことも聞いてくれるの?」
「聞くよ。……あれ?」
僕って単純なんだろうか? 単純というか、ちょっとバカ? たしかにその場その場を反射で生きているみたいな感覚になるときがある。みんなだってそんな感じじゃないの?と思っていたけど、もしかしてそうじゃない?
悠花はそっと笑う。「マサは今のままでいいよ」
僕は空井政司だけど、名前が可愛くないからという理由で睦姫からは『空井』と呼び捨てにされ、他の子からは『空井くん』と呼ばれる。僕は愛情を込めてみんなを名前で呼んでいるというのに、名前が可愛くないとは失礼すぎじゃないだろうか。悠花だけが僕をマサと呼ぶ。