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俺がアニメ好きのオタクだということは秘密だったのに。

 高校二年生の男子、遠野(とおの)(じゅん)は昼休み、自分の机を両手の全ての指先で軽く叩いていた。


 純の目には、机の上にピアノの鍵盤が見えている。

 純の頭の中にだけ聞こえている音色。

 演奏する曲は、好きなアニメのオープニング曲。

 軽やかに、春の空気に乗せて。


 長めに伸ばした、明るい茶色の髪の毛が、葉桜の青い香りの風に舞う。


 純は、二年三組になってから一か月が経過した。

 明るい茶髪に、銀のピアス。

 周囲のクラスメイトからは、チャラいと思われているらしい。

 純は、重度のアニメオタクなのだが。


 純の指は、机の上で踊る。

 聞こえないはずの、アニメソングの音を鳴らし。


(早く放課後にならないかな)


 そうすれば、純は自宅で、電子ピアノを存分に弾ける。

 録画したアニメも見まくって。


 本当は音楽室にある、グランドピアノを弾きたいのだけれど。

 許可をもらえば、弾かせてくれるのかな。

 もしかしたら、音楽系の部活で使ってしまっているかもしれないけど。

 音楽室を管理している教師に聞いてみよう、と思う。


 純の指は、曲の二番のサビに差し掛かろうとしている。


 その時、右から強い視線を感じた。

 純は、指を止めて右を横目で見る。


 そこでは、何人かのクラスの女子が集まってお喋りをしていた。

 その中の一人。

 前髪だけを伸ばしたショートカットの黒髪の、耳にはピアスが沢山ついた、ギャルが純の指を見ていた。

 だが、それは一瞬のこと。

 そのギャルは、また仲間内のお喋りに戻っていた。


 確か、あのギャルは風祭(かざまつり)さんという名だったかな。


 純は、新しいクラスになってから一か月も経つというのに、クラスメイトとは(ろく)に交流をしていない。

 休み時間は仮想のピアノを弾き、放課後は電子ピアノを弾き、アニメを見る生活。

 我が校は、偏差値が高いが、ファッションは自由なため、純を含め、派手な見た目の生徒も多かった。

 純は、自分自身は派手な格好をしている割には、他の派手目なクラスメイトが苦手だ。

 きっと、純のアニメ趣味を馬鹿にされるだろうと思って。


 純は、ただ好きな格好をして、好きなアニメを見て、好きな音を奏でたいだけなのだ。

 電子ピアノの演奏も、誰かに聴かせる気も無い。


 純はまた自分の机に向き直り、空想のピアノで続きを弾こうとした。

 だが、丁度そのタイミングで、昼休みの終わりのチャイムが鳴る。

 純の指は、机の上で構えたままだ。

 曲が最後まで弾けなかった。


(くそっ、不完全燃焼だ)


 こうなったら放課後、音楽室のピアノを、何とかして弾いてやる。

 純は、そう心に強く残し、次の授業である、数学の教科書を机から取り出した。


 それは、とある春先の昼休み。


 数学の授業が始まる直前、黒髪のギャルは、純の指先を見つめていた。







 純は、ごきげんだった。

 放課後に第二音楽室のグランドピアノを弾く許可を、担当の音楽教師から貰うことができたのだ。

 絶対に壊すなよ、と何度も念押しをされたが。


 第二音楽室は、二階の端っこにある。

 一階の職員室から出た純は、近くの階段を上る。

 途中、女子の集団とすれ違った。

 その中には、あの風祭ギャル子も。

 すれ違いざまに、風祭と目が合う。

 純は、何となく風祭に会釈をして、そのまま階段を駆け上がった。


 階段を上がると、すぐ目の前には第二音楽室がある。


 特に鍵などはかかっていない音楽室だが、防音のため、ドアが分厚く重たい。

 力を込めて重いドアを開けると、部屋の中には、真っ黒な大きいグランドピアノが置いてあった。


 ちゃんとしたピアノを弾くのなんて、小学生以来だ。

 純の家は、特に金持ちでも何でもなかったため、純が持っているのは安物の電子ピアノ。

 もちろん防音の部屋など無いので、電子ピアノにはヘッドホンを挿して、自分だけが音を聞けるようにしていた。

 それはそれで不満は無かったが、やはりピアノをヘッドホン無しで思いっきり弾けるのは嬉しい。


 純は、ピアノの前の黒い椅子を引き、座る。

 まずは、適当な鍵盤を叩いた。

 ピアノの音だ。

 ピアノを叩いたのだから当然なのだが、普段は電子ピアノに慣れている純としては、本物のピアノの音がするだけで感動ものだ。

 純は、ドレミファソラシドを順番に弾いてみる。


 ああ、この音だ。この感触だ。懐かしい。


 まだ小学校の頃、先生の隣で弾かせてもらったピアノと同じ音。

 中学では、放課後は音楽室が部活で使われていたため、ピアノに触れることができなかった。

 勉強が優先の中学生活では、部活に入ることは、親から許されなかったのだ。

 勉強の合間に、こっそりと電子ピアノを弾いてはいたけれど。


 まさか高校になって、またピアノに触れることができようとは、思ってもみなかった。


 純は、両手の指を開き、構える。

 最初に弾く曲は、決まっていた。

 今日の昼休み、鍵盤に見立てた机の、空想のピアノで、最後まで弾き切れなかったあのアニメソング。


 最初の一音を、鳴らし。

 そこから、まるで大雨のように、高速で鍵盤を叩く純。

 純の得意技は、速弾きだ。


 ピアノの技術を上達させたいとは、思ってもいなかった。


 誰かに聴かせるわけでも無い、自分が気持ちよくなるためだけの音の嵐。

 好きな曲を、高速で指を回し、弾き切る。

 純はそれが好きなだけだ。

 一番が終わり、二番が終わり、ラストのサビの部分に入る、その瞬間。

 誰かが、音楽室のドアを開けた。


 曲が、中断される。


(またかよ!誰だよ!)


 純は、少し苛ついた目で、ドアを見た。

 そこには、前髪だけ伸ばした、黒髪の風祭ギャル子。

 また、この子だ。

 一体、何の用だろうか。


「どうしたの、風祭さん」


 純は、風祭の下の名前を憶えていなかった。

 別に、困らないだろう。

 ギャル子とは親しくなる予定は無い。


 風祭は、少し照れた声で、純に告げる。


「ピ、ピアノの音、聞こえたからっ!来ちゃった!うひひ……」

「えっ?ここ、防音じゃないの?」


 風祭は、窓を指さす。


「窓、開けっぱなしだよ」

「あ、ホントだ……」


 純は、その瞬間、心臓が跳ねた。

 あのアニメのオープニング曲を弾いていることを、不特定の多数に聞かれてしまったのかもしれないのだ。

 もしそれを揶揄(からか)われたら、純は怒るか悲しむか。

 少なくとも、いい思いはしないだろう。

 純は自分が好きなものを馬鹿にされるのが、何よりも嫌いなのだ。


 風祭が、純に問う。


「ねえねえ、遠野君。窓からだったからよく聞こえなかったけど、弾いてたの、あの曲でしょ?」


 今、流行りのアニメのオープニングの曲名を言う風祭。


「え、知ってるの?」

「私も大好き!」


 内心で驚く純。

 偏見だが、風祭がアニメを見ているとは、思っていなかった。


「偏見だけど、遠野君がアニメ見てるなんて、思ってなかったから……」


 純の心の声と、全く同じことを言う風祭。

 風祭は、開けっぱなしにしていた窓を閉め、純の元へやって来た。


「ねえねえ、私も一緒に弾いてみていい?」

「えっ?風祭さん、ピアノ弾けるの?」

「これでも、ちゃんと習ってるんだよ?」


 ピースサインで舌を出す風祭。

 アニメと言い、ピアノと言い、見た目との印象がまるで違う風祭。

 それは、純も同じかもしれないが。


 純は、心配そうに風祭に聞く。


「えっと、連弾ってこと、だよね?」

「うん!いいでしょ?」


 連弾とは、一つのピアノを二人で弾くことを指す。

 ピアノの右よりの高音の側へ座った者が『プリモ』と呼ばれ主旋律を弾き、左よりの低音の側に座った者が『セカンド』と呼ばれ伴奏を弾くことが多い。

 ずっと一人で弾いてきた純は、連弾は初体験だ。


「俺、連弾とかやったことないんだけど」

「普通に弾いてくれれば大丈夫!私が合わせるから!」


 鞄を、適当な机の上に降ろす風祭。

 指を伸ばし、ストレッチをしている。

 風祭の指先の爪は桜色に塗られ、きらきらした小さな桜の花びらが付けられている。

 彼女の爪は、彩られてはいたが、伸ばしてはいない。

 ピアニストの爪だ。


「遠野君、セカンドね。私、プリモ」


 ピアノの右側の、高音域の場所に座る風祭。

 純は、左側の低音域の場所に座りなおす。

 風祭が隣に座った時に、オレンジの香りがした。


「あれ?風祭さん、香水?オレンジの匂い」

「き、気づいちゃった?……その、好きな人に会うときには付けることにしてるの」


 風祭の頬が赤くなる。

 そうだった。確か、この風祭ギャル子は、サッカー部の生真面目そうな黒髪の男子と付き合っていたのだ。

 今日、この時間まで残っていたのも、部活終わりの彼氏と一緒に帰るためだろう。


「わ、私の事は別にいいでしょ。さあ!弾こ!」


 風祭が、照れ隠しのように、純の背中を叩く。

 思いのほか強い力に、せき込みそうになる純。


 この曲は、主旋律から始まる。

 風祭が、始めのフレーズを奏でる。

 最初は、風祭のソロだ。

 純は腕をだらりと下げて、風祭の音を、ただ聞く。


 美しい旋律。

 風祭は、間違いなくピアニストだった。


 純は思う。

 ただの趣味で、自己満足のためだけにピアノを弾いている自分が、この音に混ざってもいいのだろうかと。

 この世の全ての音楽家たちに失礼な気がする。


 だが、誘ったのは向こうだ。

 後で文句を言うなよ、と純は心の中で独り言ち、指を広げて両手を掲げる。


 打ち下ろされる純の指。


 それは、突風が巻き起こったかのように。


 高速で鍵盤を打つ、春の大雨の指。


 風祭が目を丸くする。


 速い。そして、強い音も柔らかい音も、自在だ。


(えっ?)


 それは、今までは純自身しか聞いたことがない、純の音色。

 今はじめて、純の音を、他者である風祭が聞いている。

 

 風祭は、ピアノの腕も上級者だったが、なによりも耳が良かった。

 自分の左側に座る茶髪でピアスのアニメオタクのピアノは、おそらく風祭よりもずっと上のレベルだ。

 先ほど校舎の外で、開いた窓から微かに聞こえてきた音では分からなかったが。


(遠野君、ヤバっ!)


 純は、自分の腕前がどの程度かなど、気にしたことすらなかった。

 自らが気持ちよくなれるよう、ひたすら自分自身のために研鑽(けんさん)をしてきただけだ。


 安物の電子ピアノで。

 勉強とアニメ鑑賞以外の全ての時間を使って。

 休日は、朝から晩まで。

 小学生の低学年の頃から、高校二年の今まで。

 膨大な量の時と音を、積み上げてきたのだ。


 気圧(けお)される風祭。


(え、これ、高校生の全国でも、上位イケるんじゃない?)


 風祭の頬には、冷や汗が一筋。

 こわばる指先。

 だが、それでも演奏を止めなかったのは、ピアニストとしての意地だった。


 曲の途中から、純の指の回転が、さらに速度を上げる。

 曲そのもののテンポは変わらないが、より密度を増す音の嵐。

 純の演奏に、なんとか食らいついていく風祭。


 二番が終わり、ほんのひとときの間だけの、風祭のソロパートが始まる。

 右手で歌のパートを、左手で伴奏を弾く。


 しかし、風祭のピアニストとしてのプライドは、既にズタズタに切り裂かれていた。

 幼い頃から、習い続けてきたピアノ。

 黄金の指先かもしれないと自負していたが、それすらも金メッキに思えてくる。

 頬を流れる一粒の雫は、汗なのか涙なのか。


 そこに、純の音が混ざる。

 ラストのサビ。

 ここは純の得意な、一番激しいパート。

 鍵盤を叩きつけるように、灼熱の指先が跳ねる。

 叩くたびに火の粉が舞い散る幻が見えた。


 風祭はこの瞬間、微かに残っていたプライドをかなぐり捨て、全霊を持って音を奏でる。

 もはや、純には敵わないことは痛いほど自覚していた。

 それならば、今はただ、できることをするだけだ。


 そして、曲が終わるその瞬間。

 熱情が最高潮に高まり、二人の最後の音は、思い切り鍵盤を叩いて終わった。


 曲が終わり。

 無音と無言。

 二人とも、熱い息を吐くばかり。

 純の額から、汗が一筋、流れ落ちた。


 純が、息を荒くしながらも、風祭に声をかける。


「風祭さん、すごいね」

「……それ、嫌味ぃ?」

「ん?なにが?」

「遠野君、コンクールとか、出てないの?」

「出ないよ、そんなの。俺は自分が満足できればそれでいいの」

「あ~、だからかぁ。なんでこれで無名なのか、納得行ったわぁ」


 汗だくになり、手を団扇(うちわ)がわりにして、ぱたぱたと顔をあおぐ風祭。

 またもやふわりと、オレンジの香りが純の鼻をくすぐる。

 彼氏のためだけに付けている、オレンジの香水。

 純は少しだけ、その彼氏が羨ましくなった。


「でも遠野君、指、動くね~。速弾き凄い」

「速さだけが取り柄だからね。まだまだ速くできるよ」

「えっ!ウソ!?」

「弾いてみようか?」


 純は、超高速で有名なゲームの曲を弾く。

 その指は残像すら見えるほどに速い。

 風祭が目を丸くする。


「は、速っ!」

「ただ速いだけだよ」

「いーや、そんなことはない!」


 胸の前で両手をクロスさせてバツ印を描き、なにやらムキになる風祭。


 その日は、夕方になるまで、ひたすらアニソンをふたりで連弾した。

 誰も理解してくれないと思っていた、アニメソングのレパートリー。

 まさか、ピアス満載のギャル子が理解者になろうとは。


 でも、それは向こうも同じかもしれない。

 まさか、純のようなチャラ男がオタク趣味の理解者になるとは思っていなかっただろう。

 話を聞くと、風祭の彼氏は、アニメには興味を示さないようなのだ。




 その後は、お互いに自分の事を語り合った。


 純は、人前で演奏する気など全くなく、ただ自分が満足できればいいことを告げると、風祭は頬を膨らませ、不服そう。


 風祭の彼氏は、幼馴染らしい。

 小学校からずっとサッカーをしていた、サッカー少年。

 今も、グラウンドで練習中のはずだ。

 見た目通りの生真面目な性格で、風祭がアタックして、中学の終わりにようやく付き合い始めたそうだ。


 純が今まで経験したことのない、にぎやかな放課後。

 夕暮れの日差しが、音楽室に舞っている(ほこり)を、きらきらと輝かせるころ。

 風祭が、腕時計を見て、立ち上がる。


「そろそろ、彼が部活終わるから、もう行かなきゃ」

「お、もうそんな時間か。でも、連弾、楽しかったよ」


 風祭は、彼氏が所属するサッカー部が終わる頃、彼氏を迎えに行っているようなのだ。

 鞄を肩にかけ、純に手を振る風祭。


「私も楽しかった!私、周りにピアノ弾ける人、いないから。アニメの曲、もっと弾きたい!」

「え?ピアノ習ってるんでしょ?家族とかは?」

「ウチの家族、結構ピアノにはお堅いんだよね。家ではクラシックしか弾かせてくれないんだ~」


 見た目はこんなに派手にしてもいいくせに、ピアノで弾く曲には口を出してくるのか。

 おかしな家族だ。


 ん?

 今、「家では」と言ったか?


「あれ?風祭さん、自宅にピアノあるの?」

「うん、あるよー。防音室も完備なのだっ!」

「マジか」


 ウインクしてピースサインを突きつけてくる風祭。

 防音室完備とは、結構いいところのお嬢様なのかもしれない。


「じゃ、じゃあね、遠野君!楽しかったよ!」

「俺も。気を付けて帰れよ。あ、それと」

「なに?」

「そのネイル、かわいくて似合ってる」


 風祭は、一瞬だけ茫然(ぼうぜん)とするも、両手の桜色の爪を純に見せて、笑う。


「うひひ。ありがと!」


 風祭は、そのまま去り行こうとして、音楽室のドアに手を掛ける。

 そのまま、純へと振り向いた。


「あ、あの、遠野君!また、また連弾しようねっ!アニソンで!」


 純は、頭上に両手で大きく輪っかを作る。

 「OK」のサイン。


 風祭は、それを見て、うひひっと笑い、ドアから出て行った。


 純は、ピアノに向き直り、また別のアニソンを奏でる。

 ずいぶん昔に流行った、ロボットアニメのオープニング曲。

 本来はそんなに速い曲ではないのだが、純は勝手に速く弾く。


 高速で鍵盤を叩くのが、気持ちいい。


 純は、今日の事を思い返す。

 自分とは絶対に合わないと思っていたギャル子が、まさかのアニメオタクで、ピアニストだった。

 アニソンの連弾は、楽しかった。

 ひとりぼっちなのは、別に嫌ではなかったが、こういうのもいいかもしれない。


 純は、自分でも気づかないうちに(よど)んでいた心が、晴れた気がした。




 ひとり残された音楽室には、オレンジの香りが漂っていた。








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