知らなかった方がよかった世界
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」これはニーチェの言葉です。
いろいろな知識を身に付けるって楽しいことです。ただ、時には知ってしまったが為に困ったことになるような知識もあります。これはそんな困ったことを知ってしまったが為に変なところに注目するようになってしまった私の体験です。
私は若い頃消防団に入っていました。最終的には地域の消防団の班長まで務めたのですが、なかなか濃い人たちの集団であったと思います。年末の夜警では消防車で夜回りをする傍ら、大宴会が行われていましたし、消防車で某特殊浴場に行き、県の消防本部から呼び出された先輩もいたとかいないとか。
所属している人たちも、専業農家、長距離トラック運転手、漁師、会社役員、教師、政治家秘書、などなど、同じ地区にすんでいることだけが共通点の多種多様な人材が集まっていました。一介のサラリーマンである私には彼らとする会話は(過激な内容でなかったとしても)とても刺激になったものです。
これはもう20年以上前、まだ私が消防団員としてもペーペーだった頃、夜警の消防車の中で起こった話です。
夜警の時、消防車には大体3~5名が乗り、ゆっくり鐘を鳴らしながら地区を隅々まで回ります。
その夜も何ということもなく進んでいたのですが、車はある何の変哲もない畑の前でピタリと止まりました。本当にただの畑でした。出荷用ではなく、自宅用に作っている畑のようで、たくさんの品種の植物が植えられている以外は特に異変も見当たりません。
助手席でいぶかしげにする私に、運転していた先輩は言いました。
「麟ちゃん(※私のこと)。あの畑の隅っこに生えてる草。何だと思う?」
「えっと、時々見るような気もしますけど……。あれなんスか?」
「あれ、あそこの家の親父が『これで縄なうだ』つって植えてんだけど……
あれな、『麻』っていうんだよ。」
あさ? え、麻って、あの大麻の麻!?
詳しく聞けば、先程のような理由でその家の主人は栽培しており、時折警察が確認に来ることもあるとか。
考えてみれば、麻は太古から日本に自生していた植物で、過去には絹やら木綿やらよりよっぽど身近な繊維でした。我々が知らないだけで、まだそこいらにあるもんなんだなぁ、とその時は思ったものでした。
数日後。朝、例の畑の前を通ると、例の植物はきれいに刈られていました。きっと畑の持ち主が縄を作るために刈り取ったのでしょう。
その夜、私は仕事が長引いたため、いつもより1時間以上遅刻して、夜の9時過ぎに消防倉庫に到着しました。
扉を開くと何か雰囲気が変です。
この時間にもなれば、けっこうな人数が酒を喰らっていますので、完全にできあがっていることはよくあるのですが、そのテンションとは何かが違います。
もちろん普段と変わらない人もいるのですが、よく見ると、異様にハイになっている人や、なぜかかなりテンションが下がっている人がいます。
……暫くは呆然としていた私も、何となく察してしまいました。が、理由は聞きませんでした。いや、聞けませんでした。というか、もうあれから20年以上経つのですがいまだに聞けていません。
その後、消防団がそんな雰囲気になることは二度とありませんでしたし、件の畑であの植物を見かけたこともありません。
ただ、私が以前と全く同じ生活に戻れたかというとそうとも言えません。
車で走っていても、いろいろ視界に入ってしまうんです。畑で見かけた植物そっくりの草とか、花は『ヒナゲシ』っぽいんですが、ヒナと言うにはずいぶん巨大な植物とか。
以前だったら風景の中に溶け込んでいたはずなのですが、既に私には背景の一部ではなくなってしまいました。
もちろん見かけることは稀です。でも、気付いてしまったときは、本当にアレなのか。もしアレだったとしたら、通報すべきか否か。そんなことを悩みながら車を走らせています。
ちなみに、これを書いていて気付いたのですが、そういえば最近あの植物を見かけなくなりました。これは間違いなく私にとっては嬉しいことです。
ただ、見かけなくなった理由は、あの植物が減ったためではなく、私の記憶が薄れたせいで姿形が曖昧になってきたためのように思えてなりません。
減ったのか、記憶が薄れたのか。どちらが正解なのかはわかりません。しかし、それを確認しようとは思いません。20年以上かけてようやく取り戻しつつある心の安寧。私はこれを失いたくはないのです。
どんなに好奇心が湧いても、絶対ネットで写真検索なんかしないんだからね!
※何があったかは私に聞かないでください。私も聞いていませんので。
※時々自生しているものを採取しようとして捕まる人がニュースになります。もし気付いてしまっても、絶対に採らないでくださいね。