88、今川
永禄六年(1563年)九月
駿河 今川館
広間には今川家の重臣家臣が集まっていた。
ここにいる誰もが空気をずっしりと重く感じていた。
何人かは今すぐこの広間から逃げ出したくなっていたがどうすることも出来なかった。
「吉良に荒川、松平が村上を攻めるとは...。何ということを仕出かしてくれたのじゃ...」
寿桂尼の言葉には怒気が混じっていた。重臣の岡部や朝比奈なども同じ事を思っていた。
村上から使者が来たかと思えば、今川家臣が信濃に侵攻してきたから同盟は破棄されたので三河を攻めると言われたからだ。
寿桂尼は村上との同盟を強化しようと今川家中の重臣達をまとめている時にされたので怒り心頭だった。
「寿桂尼様、このまま村上を放置すれば三河どころか遠江を奪われます!」
「ここは一戦交え村上を破って改めて和議を結ばれては如何でしょうか?」
「三河には丁度武田軍がおります。それに北条に援軍として参加して貰えば勝てます!」
家臣の一部からは村上と戦をし北条の援軍と共に撃退すべきと言う者達がいた。
「御婆様、この者達が言うように我らも出陣して武田と北条家と共に迎え撃つべきではないでしょうか?」
氏真の言葉に寿桂尼の堪忍袋の緒が切れるのだった。
「この、大馬鹿者め!武田が何故、刈谷城の引き渡しを急いだか分からんのか!村上と事を構えたくないからじゃ!」
寿桂尼は怒った後、息を整えていた。寿桂尼が息を整えている間に重臣の岡部と朝比奈が全て説明した。
なぜ武田が今川に臣従したのか、なぜ亡き太原雪斎が福姫(義元娘)を側室にまで出して同盟したのか、なぜ前当主今川義元が信濃まで行って義照に会ったのか全て説明し、岡部も信濃での会談の様子を話した。氏真はそれを知らなかったのだった。
「尼御台(寿桂尼)様、ここは信濃を攻めた者達の一族全員を引き渡し村上に詫びるのは如何でしょうか?」
「恐らく土地をかなり荒らしたと思われます。謝罪と共に被害に応じた銭を渡して手打ちとするのは如何でしょうか?幸い、義照には福様が嫁いでおります。福様からも義照を説得して貰うべきです」
重臣達から謝罪と補償をし和議をすべきと言う声が大きかった。
今、村上と戦をしたら義元の敵討ちの為の尾張遠征どころか駿河遠江さえ危うくなる。
しかし、問題は誰が行くかと言うことになった。
生半可な者を使者にたてても門前払いされると思ったからだ。
「尼御台様、某が参ります。以前義元様が義照と会ったその場に居りましたので面識がございます」
名乗りを上げたのは重臣岡部元信だった。
岡部は以前義元と義照が会見した際に護衛として参加していたのだった。
「岡部か。其方に任せる他ないか...」
「正俊、其方も共に行ってくれ。重臣が二人も行けば村上とて追い払うことはしまい」
「畏まりました。必ず和議を結んで参ります !」
氏真に指名された三浦正俊は氏真の傅役でもあり信頼されていた。しかし、岡部や朝比奈とは余り関係が良くないので寿桂尼や庵原等は心配するのだった。
今川家が悩んでいる頃、今まで頭を抱えていた織田信長は大喜びで舞い上がっていた。
「ハハハハハハハハ!!!今川め!自ら村上を攻めるとは!これで今川と村上の同盟は無くなり村上が本腰を入れれば今川など一溜まりもあるまい!!」
側に居た家康としては複雑だった。
家康は岡崎城が落ちる際に家臣数名と共に落ち延びたのだった。武田との戦で家康として首を取られたのは世良田二郎三郎と言う家康の影武者だった。
「信長様、我等三河武士に沓掛城を任せて頂けませぬか。我等の手で三河を取り戻したいのです」
家康はそう言って伏して頭を下げた。そんな家康を信長は蔑んだ目で見る。
信長としてはまさかここまで使えなかったのかと家康の評価を落としていた。正直、娘の徳姫と家康の嫡男との婚姻を破棄しようと思っていた。
「竹千代、どうするつもりか?」
「沓掛城をお借りした後、刈谷城に攻め込みます。刈谷城には今川軍およそ千人のみ。落ち延びて来た者達と大高城の兵を合わせれば二千になり奪い返せます。その後は刈谷城を基点に三河を取り戻す足掛かりと致します」
信長は家康の説明を受けて考えていた。刈谷城を取り返した後今川を抑える防波堤になるかどうかと。
「分かった。沓掛城の兵五百人はそのまま貸そう。三河を取り返せば良かろう。竹千代、二度目は無いぞ」
「ははぁ!!」
家康は伏して頭を下げた。
永禄六年(1563年)十月
上田城に今川から使者がやってきた。小者なら追い払おうと思っていたがやって来たのが重臣の岡部元信だったので面会を許した。
「面を上げよ」
そう言うと二人は顔を上げた。
「岡部、久し振りだな。長谷寺以来か」
「はっ、村上様も御変わりなく...」
「で、言い訳は何だ?」
俺が聞くと岡部は此度の信濃侵攻は今川家の総意ではなく、三河を取り戻した一部の家臣がやったもので、その者達の一族全員を差し出し、信濃で被害を受けた分の補償をすると言ってきた。
「で、三河はどうする?」
「三河はそのまま今川家の領地とします。なので兵を退いて貰いたい。村上様としましても今川家と戦をしたくはないでしょう」
岡部の隣に居た男がそう言った。
何とも腹が立つ言い方だった。周りの家臣達も黙ってはいるが殺気だっていた。
「お主は誰だ?」
「はっ、今川家重臣、三浦正俊にございます」
「知らんな。今の今川で名将と言えば、お主(岡部)と朝比奈、後は蒲原くらいだろ...多くの名将が義元殿と一緒に桶狭間で散ったしな」
俺がそう言うと三浦は少し顔を赤くしたが怒鳴ることはなかった。
「左様ですか。今川家には他にも私のような名将はおります」
いちいち、腹が立つ言い方をするのでもう、居ないものとして扱うことにした。
「さて。話はそれたが、ふざけてるのか?俺がすんなりはいそうですかと言うと思っているのか?」
俺が言うと三浦は不思議そうな顔をした。
そして岡部は義照の言うことが当たり前だと溜め息をつき、三浦の糞のせいで今回の話がご破算になると確信した。
「仮に独断組の信濃侵攻が上手くいっておれば其方らは我等に返したか?返さぬであろう?」
俺が言うと岡部は予想していたのか、直ぐに答えた。
「分かりました。では、現時点で制圧している地域は差し上げます。しかしながら、停戦の和議を受け入れて頂きたい」
「岡部殿!ふざけておるのか!氏真様より領地を渡すことは許されておらん!!」
三浦は怒鳴り上げ、そのせいで外で護衛している兵達が踏み込んできた。
一緒にいる重臣達も身構える。
俺は直ぐに手を上げ、兵士達を下がらせた。
岡部は三浦など居ないかの如く無視して懐から一通の書状を出した。
「尼御台様(寿桂尼)より、もしもの場合村上様にお渡しするように預かりました」
俺は小姓の昌幸に書状を受け取らせ持ってこさせた。
「....なっ!!」
そのまま書状を読んだが驚きを隠せなかった。
「殿、如何されましたか?」
側に居た昌祐が聞いてきたので書状を渡した。やはり昌祐も驚いていた。
書状はそのまま重臣達に回されたが全員が驚きを隠せなかった。
「正気か?」
「いや、気が触れたとしか..」
「しかし、あの寿桂尼がだぞ?」
「岡部、この書状に書いてあることだが誰が知っている?当主の氏真は知っているのか?」
重臣達は驚き、俺も驚きながらも聞くと岡部は首を横に振った。
「いえ。知っているのは私と蒲原殿、庵原殿、朝比奈殿、それと尼御代様(寿桂尼)のみにございます」
三浦は何のことか分からないようで岡部に何かわめきたてていた。
「岡部、これ(書状)の返答は直ぐには出来ぬ。まず、既に落とした三河田峰城周辺と今攻めている飯盛城はそのまま貰う。それ以上侵攻はせぬ。それと攻めてきた者達の一族は貰い受ける。それで、一旦停戦としよう」
「畏まりました。書状の件に関してはどうかご検討のことよろしくお願い申し上げます」
「孫六、直ぐに伝令を送ってくれ。馬鹿兄のことだ。遅れれば他に攻めかかるだろう」
「はっ、直ぐに送ります」
その後、一時停戦とするが和議に向けて詳しい内容を話し合う為連絡を取り合うことが決まった。
ただし、和議を結ぶかは内容次第だ。
岡部達が帰っていった後、上野を任せている幸隆や業盛を除く重臣達と書状の内容について話し合った。
「厄介だな..」
「誠に...」
俺が言うと皆悩んだ。
書状の内容を物凄く簡単にまとめると、寿桂尼が人質もしくは首を差し出して和睦と再度同盟をと書いてあったのだ。
あの、今川家を支える女傑がそこまでするのか、それともそこまでしないと今川家はそこまで危ういのか悩んだ。
こういう時軍師の幸隆が居て欲しいと心の底から思った。
「幸隆達は来年には戻るよな?」
「はっ、予定では年内のうちに岩櫃城、沼田城が落ちるはずです」
俺は確認してからこの一件に関しては秘匿し、来年重臣全員が集まった際に決めることにした。それに伴い、今川家との交渉を中沢と重臣の出浦清種に任せ陽炎衆に書状の内容が本当なのか調べさせることにするのだった。




