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戦国生存記  作者: 現実逃避
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78、情勢

永禄三年(1560年)十月

上野に向かった援軍が戻ってきた。

何とか間に合い北条軍を蹴散らしたそうだ。

「幸隆、信春、援軍ご苦労だった」


「はっ、何とか国峯城が降伏する前に援軍が間に合いました」


「倒れられていた長野様自らが西上野衆五千を率いられ我らと共に二万の北条軍と戦が起こりました。敵は平井城まで撤退し、我らも追撃し平井城を奪った後は互いに対陣するのみで北条軍が退いたので我らも撤退しました」


「しかし、大胡城より東は北条の手に落ちたままです。また、北の沼田城等は動きがありませんでした」


二人からの報告を聞いてこれからは上野に介入していかないといけないと思った。


「幸隆、長野殿はもう歳だ。亡くなった後どうなると思う?」

俺が聞くと幸隆は少し考えてから答えた。


「恐らく、上野は北条の手に落ちるかと...」

俺はやはりそうなるかと思い、幸隆にとって嫌な命令をする。


「幸隆、長野殿を調略..。説得してくれ」


「殿!」


「今の状況で上野を北条にやる訳にはいかん。長野殿の息子が居ただろう?娘の輝夜を嫁がせても構わん。西上野衆をそのまま俺の家臣として臣従させろ」


「・・・畏まりました...」

幸隆としては辛いだろう。なんせ、大恩のある長野殿を調略するからだ。同盟はしているが長野殿が亡くなった後は他の国衆を北条によって調略されるだろう。それならば俺達が奪い守った方がいいだろう。



永禄四年(1561年)三月末

年が明け、春を迎えた。

そして、各地の情報が集まったのでまとめてみた。


越後の長尾景虎は越中をほぼ抑えたようだ。まだ、一向一揆衆とやり合っているがそんなに時間は掛からないだろう。

領地拡大が目的だがちゃんと大義名分がある。


越中の椎名が神保と争っていたが押されていたので景虎に泣きついた。その為援軍として出陣し、椎名領以外は土地争いをする越後国衆に与えたようだ。

まぁ、越中守護にもなってるしな。


越前朝倉は別段変わったことはない。相変わらず、加賀一向一揆と小競り合いをしていた。ただ、頻繁に長尾家とやり取りをしている。どうも同盟するつもりのようだ。


京の幕府と三好家もそんなに変化はない。ただ、長慶は義興に幕府を任せて自身は幕府と将軍に近付かないようにしている。


九州、中国四国は別段史実と変わったことはない。

まぁ、多少違うのは尼子晴久が三浦と戦をする事無く、大規模な兵を動かす準備をしていることくらいだろう。


そして、桶狭間で大きく影響を受けた三家だがやはりかなり混迷を極めていた。


まず、美濃斎藤家は国内が大荒れだ。

龍興はまだ若いと言うのがあるが道三や義龍と違い凡庸で相変わらず斎藤飛騨守を重用しているので家臣や国衆の心は離れていっていた。


特に西美濃三人衆や道三に従っていた竹中、明智等は少しずつ距離を取り始めているようだ。と言うか、龍興が距離を取っている様に見える。

尾張の犬山城は重臣の日比野が死守しているようだ。


まぁ、1つだけまともなことをしたと言えるのは六角と同盟をし西側を固めた事だけだろう。

この後史実で起こったことを知らなければまともな策と考えて良いだろう。


次に織田は無理をして出陣し岩倉城を奪還した後は清洲城周辺と熱田の再建と増兵しているようだ。しかし、無事だった津島の商人から臨時で多額の矢銭を取り立てたので、不満が出ているそうだ。それと同盟相手を探しているようだ。東は松平を考えているようだが、これがどうも良く分からなかった。


桶狭間の後三河の岡崎城に戻った松平元康(徳川家康)はすぐ独立するかと思えばそうではなく、周囲の西三河国衆をまとめだしたそうだ。


俺はてっきり直ぐに独立するのかと思っていた。

今川家には西三河を束ね織田に対抗するためと伝えているようだ。氏真は元康が一門衆でもあるので三河の取りまとめを認めた。


桶狭間当時に三河の岡崎城を任されていた山田某は義元討死を聞いて一目散に城を捨てて逃げた為、氏真によって打ち首にされ晒された。要は見せしめだ。


沓掛城より西(鳴海城、大高城、刈屋城等)は鳴海城にいた者達によって焼き討ち。織田についていた所は乱取りに遭い壊滅させていた。一種の見せしめだ。その為、沓掛城が今川の最前線になっている。城代は関口親永と言うらしい。


まぁ、今川家はそれどころではないようだ。

桶狭間の戦いで義元を支えていた主な武将等を軒並み失った。ただ、史実で死んだ、井伊直盛、庵原忠胤、蒲原氏徳等が生きているので最悪は免れ、美濃よりはまとまっている。

ホント、史実のように義元側近が全滅しなかっただけマシなのだろう。


特に、三河、遠江の国衆の中には今川の統治に不満を持っていたり当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反に繋がる動きとなって徐々に現れていた。

そんな中、松平元康に三河を任せるなんて独立してくれって言ってるようにも見える。


まぁ、歩き巫女と陽炎衆で調べたところ元康は本当に今川家臣として三河を取りまとめ織田との国境を守っている。

元康家臣の中には独立をと言う者はいるそうだが肝心の元康が動かないそうだ。


本当に元康が今川家臣のままでいるなら今の氏真にとって最高の家臣になるだろう。

家督を継いでいた氏真は祖母の寿桂尼の後見を受けてその対応に追われているからだ。

岡部や庵原等の重臣も反乱鎮圧等に手を焼いている。

特に遠江で謀反が起きたのは予想外過ぎたようだ。


臣従していた憎き武田は今回の戦の褒美として、甲斐都留郡全域を返してもらい義信のもと新体制でやっているそうだ。それと、乱取りした物は半分程今川家に差し出した。

それでも熱田やその道中から根こそぎ奪ったからかなりの額を得たそうだ。


噂では一万貫を超える額ではないかと言うほどらしい。ある意味、勝利者のいない桶狭間で得をした者がいたとすれば武田かもしれない。

武田の新体制は以下の通りだ。


当主

武田義信


後見人兼親族衆筆頭

武田信繁


両職(家老)

飯富虎昌

小山田信有


軍師

山本勘助(隠居)

高坂昌信(逃げ弾正)


重臣

諸角虎定

飯富昌景(史実の山県昌景)

穴山信君

小山田信茂

以下省略

と言った感じだ。


高坂昌信だが、山本勘助の軍略の弟子になり娘婿になっているそうだ。正直驚いた。

あ、娘と言っても勘助の子ではない。ただの養女だ。


重臣は飯富、諸角、小山田を除けば若い者が増えた感じがした。ちなみに兄(義利)も末席にいる。


最近は領地の農地などの改善や金山の開発を推し進めているようだ。

他にも田畑を開墾し水を引き込んだりするための水車を作ったりと大忙しのようだ。

親族衆になってる義利兄上が現場の全権を預けられ任せられていると報告があった。


残る北条家だが、上総で里見・佐竹連合とやりあっているそうだ。

景虎の関東出兵はなかったが、里見家は常陸の佐竹、結城、小田等の加勢がいるので何とかやりあっていけているそうだ。


「しかし、氏康が隠居か...。何か怖いな...」

俺が言うと集まっていた者達も頷いた。

俺が当主になってから新体制で始めたのだ。


当主

俺(村上義照)


筆頭家老

工藤昌祐


重臣

鵜飼孫六

真田幸隆(軍師を兼務)

馬場信春

出浦清種


一門衆

仁科義勝(義清次男)(一門衆筆頭)

木曾義康

村上国清

以下省略


奉行衆

筆頭

須田満親(重臣でもある)


東条信広

中沢清季


目付(監視、情報収集)

代表

鵜飼孫六


佐治三郎

望月出雲守

多羅尾光俊

など


郡代(取り纏め)


工藤昌祐(小県郡)(義照の代理)

鵜飼孫六(筑摩郡)

馬場信春(佐久郡、諏訪郡)

保科正俊(伊那郡)

木曽義康(木曽郡)

仁科義勝(安曇郡、飛騨)

村上国清(更級郡、埴科郡)

出浦清種(水内郡)

須田満親(甲斐三郡)(義照の代理)


以下省略

と言った感じだ


評定は基本、重臣、奉行衆で行うことにしている。ただし、最重要な案件は親族衆と各郡代が参加するようにしている。と言っても掛け持ちが多いのでそれ程ではない。



「なんでも、今回の飢饉の責任を取って隠居したとのことにございます」


「しかし今は御本城様と呼ばれて小田原城で家督を継いだ氏政の後見として実権を握っているようにございます」

目付の孫六から報告を聞いたが結局は変わっていないようだった。


「確かにあの大飢饉は酷かったな。昌祐、よく判断して倉を開けてくれた」

俺は全権を委ねていた昌祐に、礼を言った。


と言うのもその大飢饉の間俺は京に居たからだ。その間に飢饉があり、あまり収穫できなかった。その為税を二公八民にした上で備蓄倉を開き民に与えたのだった。

そのお陰で貧しい冬を過ごしたが餓死者は出なくて済んだのだった。


「さて、本題に戻るが今後についてだ」

今回は親族衆、郡代全員が集まっている。村上家の今後の方針について話すからだ。


「今川家からは何も来ていませんが恐らく同盟は継続すると思われます」


「織田は犬山城での敗戦後、領地を建て直すのに必死のようです。前の戦(桶狭間)で重臣の多くが討ち取られ、武田の乱取りで根こそぎ奪われた為、商人から度々臨時の税を取ったりしていると。また斎藤道三に接触しようと間者が侵入しましたので忍び込んだ者達は全員首を揃えて信長の元に送り返しました。それと同盟相手を探しております。恐らく我らにも来る可能性があります」


それぞれ、今分かっていることを報告して貰った。報告を聞きながら史実の信玄の気持ちが一つだけ分かった。


(海はやっぱり欲しいな~... 。三河を俺達にくれないかな?そしたら織田を潰して尾張を獲れるのに)


「俺としては今後北条と上野を巡って争うことが予想される為、今川と斎藤家だが様子見の為に同盟は継続と思うがどうか?まぁ、本音を言えば三河が欲しいけどな」


俺が聞くと昌祐が織田はどうするか聞いてきた。俺は今は手を出さないとし、斎藤家と今川家と同盟しているので同盟しないことを伝えた。


「しかし、斎藤家は荒れる一方です」


「斎藤飛騨守が当主龍興の名を語って好き勝手にしているようにございます。重臣の長井殿が必死に抑えていますが、稲葉殿達西美濃三人衆や明智等は離れております」


孫六と義康殿が教えてくれた。

美濃は日に日に悪くなってるようだ。美濃の情勢は既に道三の耳にも入っている。しかし道三は歳のためか最近は静かに屋敷で過ごしている。

(・・・何か仕掛けそうで怖いな~)


「・・・道三と同じ事をしてみるか....」

俺が呟くと皆不思議そうな顔をした。


「殿、同じこととは正徳寺の会見ですか?」

護衛として付いていた景持が答えたので頷いた。


「俺は龍興を見たことがない。噂では散々言われているが実際どうか分からん。信長の例もあるしな。義龍が死んだので同盟の見直しをすると伝えたら恐らく受けるだろう。今俺達が襲えば難なく美濃は落ちるだろうしな」


俺が言うと皆考え出した。

問題はどこにするかとなったので俺は舅の義康に頼むことにした。


「義康殿、木曽谷城をお借りしてもよろしいか?龍興は美濃の為に城まで来るか確かめたいので」


「分かった。向こうが承諾すれば会見場所として準備をさせよう」


「孫六、使者を長井殿と稲葉殿に送ってくれ。無いとは思うが長井殿だけだと握り潰す可能性もあるからな 」


「畏まりました。すぐに送ります」


こうして美濃に対しては決まった。これで終わりにしようと思ったら伊那郡を任せている正俊から報告が来た。


「殿、実は三河や遠江の国衆が繋がりを付けようと我らに近付いてきております。恐らく今川の支配下を離れる為の後ろ楯にしたいのかもしれません。周りの城にも来ているものと思われます」


「こちらから同盟を破る訳にはいかん。繋がりを持つのはいいが寝返りや援軍を求めてきたら全て断っておけ。それと誰が来たか速やかにまとめて持ってこい」


「畏まりました」


こうして評定は終わった。後日正俊がまとめた名簿を見て頭を抱えた。

領地が直接繋がっている訳ではないが、松平元康(後の徳川家康)の名前があったのだった。


(やはり元康は独立するつもりか?史実通りになるのか?....三河が荒れるかもしれぬな...)


今後、三河は大きく荒れるかもと思ったがやはり、三河が二つに割れることになるのだった。



数ヶ月後。


三河 岡崎城


「我らはこれまで辛く苦しい中、耐えてきたが最早これまで!!今川より独立し、三河は我ら三河の者が治める!!今こそ三河の誇りを取り戻すぞ!」


「「うぉぉぉぉぉ~!!」」


「今をもって松平家は今川家より独立する!!」


松平元康、今川家から離反。三河で独立を宣言した。

そして、史実でもあった三河独立だが今回は元康の意思ではなく、せざるを得ない状況に立たたされてのことだということを知る者は僅かだった。





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― 新着の感想 ―
[一言] 今川は官僚団が激減しても、武将の討ち死にも少なく、補充の当て(リストラされた武田家家臣)もあるし、北の脅威(武田家)もないから、比較的早くに再構築されそうですな。 甲斐の武田家は、郡内地方…
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