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戦国生存記  作者: 現実逃避
74/180

74、三度目・・・

永禄二年(1559年)七月末


義照です。三度目の上洛です...。落ち着いたかなと思っていたが大間違いでした...。


「前より荒れてるな...」

俺は辺りを見て絶句した。恐らく、初めて上洛した時よりも荒れていた。


俺は近衛屋敷に向かったが一種の砦のようになっており、入り口には鉄砲集団が待ち構えていた。


「止まれ!貴様は何者か!」

門の前にいた男が叫んできたので、俺が逆に聞くと相手はこちらに鉄砲を向けてきた。


なので、俺は少し下がり、栗田に指示し鉄砲隊を前に並べて構えさせた。

その数三千....っと言っても道にそんなに並べられないので数百人だ。


流石の鉄砲の多さに驚いたのか、鉄砲を持った集団は急いで近衛館内に入り門を閉めてしまった。

門が閉まってしまったのでどうしようか悩んでいると閉じたばっかりの門が開いて男が飛び出してきた


「義照~!!良く来た~!!」


「父上ぇぇぇぇ~!」

中から飛び出してきたのは義父の近衛稙家だった。次に出てきたのは俺の子の兼照だった。しかも涙目だったので何事かと困惑した。


「兼照、舅殿、何があったのですか?こんなにも守りを固くして兵まで付いて!以前はここまで荒れてはいなかったはず?それにその者達は何者ですか!」


俺が聞くと稙家は屋敷に通してくれた。

前久は俺達が来たことを朝廷に伝えに行く為に別れた。勿論護衛は付けた。


一緒に来た前久と稙通も「行く時はこんなにも荒れていなかった.. 」と絶句していたのだった。


それから稙家が何があったか説明してくれた。

将軍義輝が戻った後、義輝と三好との関係が少し良好になったそうだ。しかしそれに反発した者達が出たそうだ。その筆頭が畠山高政だ。


畠山高政は六角義賢と細川晴元の残党と手を結び、前久達が京を出立した後上洛したそうだ。


ちなみに、細川晴元は既にこの世には居ない。朝敵に指名された後失意のうちに亡くなっているからだ。

まぁ、いいことは朝敵に指名されたのは細川家ではなく、晴元のみだったので息子や一族はあまり問題もなく生きていけた。穢れたものを見る目で見られているらしいが・・・。


五月末に六角、畠山、細川連合軍、計三万に対して三好は二万足らずで対抗したが連合軍に敗れ、三好実休を含む多くの家臣が討ち死にし、山城は一時的に連合軍の手に落ちたそうだ。


暫く連合軍が京を占拠していたが、晴元残党と畠山の兵は乱暴狼藉が多く復興しかけていた京は再度荒れ、稙家達は畠山軍に参加していた傭兵集団、雑賀衆を護衛として雇い、兼照を含め他の公家とその一族と近衛屋敷に籠もったと言うことだった。


まぁ、前回来た時にそれなりに籠城出来るくらいに塀と堀は作っておいたからだろう。


それからは地獄の様な日々だったと震えながら言っていた。

金があることを聞き付けた野盗や畠山の兵が押し寄せて来て、度々戦闘が起こったそうだ。


最終的には六角の重臣後藤但馬守が兵を連れてやって来て畠山の兵士達が襲わないようしてくれたそうだ。


しかし六月中頃に六角軍が急遽近江に撤退した。それからはまた畠山の兵や野盗が襲ってきたが体制を立て直した三好軍四万が、畠山、細川連合軍を打ち破り、連合軍は散り散りとなって敗走。京は三好家の手に戻ったそうだ。


しかしその後も連合軍の落武者が野盗になり京に散らばっているので、今も雑賀衆に護衛を頼んでいるそうだ。


多分、六角が退いたのは俺達のせいだ。朝廷からのお願い(勅)の為俺が九千の兵を引き連れて上洛すると伝え、領地を通ると言ったので慌てて帰ったのだろう。


とりあえず、帰りも通るから後藤殿には守って貰った御礼だけはすることにしよう... 。ただし、六角が疫病神(義輝)を送り込んだことだけは忘れない...。


「話は分かりました。予定を変更して滞在を長くしましょう...。信春、秀綱、昌豊..」


「「はっ...」」


「それぞれ軍を率いて野盗狩りをしろ。徹底的にだ...。京にいる者は全員討ち取れ...」


「「ははっ!!」」


「幸隆。三好家に使いを出して、野盗狩りをすることを伝えてくれ。それと、滞在する間、京の治安維持の為に動くことの了承を貰ってきてくれ」


「畏まりました」


「当分拠点は、近衛屋敷と九条屋敷とさせて貰いますが、舅殿、よろしいですか?」


俺が稙家に聞くとすぐに承諾した。


「さて、雑賀衆の方の名前を聞いていませんでしたが何と言いますか?」


「俺か?俺は、雑賀孫一だ。銭はきちんと貰ってる。予定は今年中は雇われているがどうする?」


(雑賀孫一...。見た目は若そうだから鈴木重秀か?)


俺が重秀か聞くとそうだと言った。雑賀孫一と言う名は雑賀の頭領が代々継承する名前だと聞いた。


「雑賀衆はどれくらいいる?」


「護衛を受けていたのは千五百人だったが三好家が来てからは今の千人だ。全員で三千以上はいけるが、かなり高いぜ?」

孫一が説明してくれるが少し悩んだ。このまま畠山に攻め込むには少ないからだ。


「孫一、このままここを守ってくれ。許しが貰えたら舅殿とは別料金で雇わせてもらう」


「おぉとも!その分銭は払って貰うぜ!」


俺達はそのまま近衛屋敷と九条屋敷を拠点にすることにしたので一夜を過ごした。

そうそう、籠もっていた公家の中に知った人間がいた。晴信の正室の父三条公頼だ。


三条公頼だが三条公頼は史実では山口の大内家の元に居た際に大寧寺の変に巻き込まれて死んだが、俺達が武田の悪辣振りを朝廷に報告した際に呼び戻されそのまま京にいたので生き延びていたのだった。

史実では一緒に死んだ二条はそのまま大寧寺の変で死んだようだ。



翌日


前久が戻ってきて、帝がすぐにお会いになるとの事で来るよう言われた。


俺は貢ぎ物と一緒に朝廷に向かった。

俺は、部屋に通されると帝が来られるのを待つのだった。

暫くして関白前久と共に入ってきた。


まず、貢物の説明をした。貢物は銭、椎茸、石鹸、神水酒等と屏風絵を一つだった。この屏風絵は土岐頼芸が心血を注ぎ込んで書いた物だった。


この屏風絵を見た公家達や帝は大層驚いていた。今にも飛び出そうな鷹の絵だからだ。土岐の鷹と呼ばれるくらい頼芸の絵は凄かったのだ。


帝は今度書いた絵師を連れてくるよう言われたが既に京には連れてきていたので帝の許しを得て招くことにした。


暫くして土岐頼芸は緊張しながらやって来て廊下で伏して頭を下げていた。

今は無冠なので本来なら上がることも出来ないが廊下までの立ち入りを認められた。


流石に、御尊顔を拝することや声を聞くことは出来なかったが、帝から何か書かれた紙を公家から渡されていた。


それと頼芸に従五位上、内匠頭を与えると言った。

理由は分からないが恐らく気に入ったのだろう。


頼芸はある意味宮廷画家の様な扱いになるのだろうか?



俺はと言うと帝からは即位の礼の為に多額の献金をしてくれたことの御礼をされ、今後も日ノ本の平穏の為に尽くして欲しいとお言葉を頂いた。


発言の許しを得てから亡き先帝より託されたように帝に忠誠を誓うことを述べた。


それと、左近衛少将として京にいる野盗を成敗する許しを求めた。


帝はすぐに許しをくれ、勅として命じるのだった。


それに伴い、俺に新しい官位をくれた。


従四位下右近衞中将だ。

・・・左近衞中将の将軍義輝と並んだことになる。ただ、向こうは従三位、参議でもあるのでまだ上だ。


それと、俺の持っていた正五位下、左近衞少将は輝忠に与えることが許されるのだった。


俺は御礼を言ってから御所を離れるのだった。御所を出ると待っていたのか頼芸は嬉しそうに御礼を言ってきた。帝に官位を頂き絵が認められたからだろう。


俺達は近衛屋敷に、戻ると二組の来客が来ていたのだった。






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