71、元服
弘治三年(1557年)六月
上田城では俺の長男武丸の元服の儀が行われていた。烏帽子親は・・・将軍義輝だ....。
どこで聞いたか分からないが元服のことを知っており「武丸の烏帽子親は私がしてやろう!」と言ってきたのだった。
勿論断るなんて出来なかったので急遽お任せした。
(お陰で元服の時期を早めてしまった...。はぁ~)
それと、偏諱を与えると言っていた。頭が痛くなりそうだ。
「これより其方に余の名から一字与える。村上輝忠と名乗れ!」
「ははぁ、ありがたき幸せに御座います」
武丸改め、輝忠は深く頭を下げた。
今回の元服の儀には重臣、家臣が勢揃いしていた。傅役の昌豊なんて感動して泣いていた。
(しかし輝忠か...。まさか、輝(義輝)に忠(忠義)を尽くせって意味で付けたわけじゃないよな...?)
その後は宴となった。
輝忠には、来年斎藤家から正室が来ることになっているので娘を嫁がせようとする者は居なかった。
まずは一安心だ。だが、婚姻後に側室をと言わさないように見張らせよう... 。
翌日、輝忠の家臣団を発表した。
まず、重臣にした傅役の工藤昌豊。兄(昌祐)がいるからと最後まで断っていたが、輝忠の重臣として入れることで黙らせた。
他の家臣は以下の通りだ。
江馬輝盛(飛騨、江馬時盛の子)
真田幸綱(真田幸隆の子嫡男)
工藤祐久(工藤昌祐の子)
馬場昌房(馬場信春の子)
と言った感じだ。正直全員が輝忠より歳上だ。心配はあるが、若手を集め考えたらこうなってしまった...
江馬については馬鹿兄に許可を貰っている。
ただ、武闘派ばかり集めてしまったので今後も何人か与えてバランスを取ることを考えよう...。
確実なのは昌幸や昌相は付ける予定だ。
弘治三年(1557年)十月
京にいた義父の近衛稙家と九条稙通、それと俺の次男の千丸が急いで戻ってきた。
何があったのかと言うと・・・。
「帝が...崩御された...」
「帝よりお主に言伝てだ。余亡き後も朝廷を、我が子を支えてくれ...と」
後奈良天皇の死を聞いて俺は力が抜けて座っていた。部屋には近衛に九条、千丸、俺と昌祐の五人しか居なかった。
「それと、かねてより願い出ていた件じゃがやっと三好が承諾したぞ」
義輝が来た際に師匠(久秀)に書状を送り三好に提案したことだ。
「やっとですか...。長かった~。それで予定は何時ですか?」
俺が聞くと、二人は難しい顔をした。
「出来れば親王様の即位の礼が終わってからと考えておる。じゃが...」
二人の顔からして金が足りないのだろう。ただ史実よりは朝廷に金があるはずだ。毎年神水酒等を越後、若狭経由で送っているからだ。
「分かりました。亡き帝の為に二千貫文用意します。それと、こちらが片付いた後、親王様へ拝謁するために上洛も考えさせていただきます」
「そうか。分かった」
「それともう一つ報告がある。千丸はワシ(稙通)の後を継ぐことが正式に認められ元服した。名は兼照じゃ。それと、従三位を与えられた」
(おいおい、今さらりと大事なこと言ったよな...)
俺は稙通の事後報告を聞いて元に戻った。
「せめて、連絡していただきたかったです...。養子になったとは言え我が子ですので...」
俺が言うと舅はすまんと謝ってきた。
俺は兼照に母親(千)に会ってくるように言って昌祐に連れていって貰った。
「来月には雪になり動けません。来年の四月には朝廷に送り届けます」
「では、将軍が京へ戻るとしたら九月になるな。直ぐに勅命による和議を準備させよう」
稙家はそう言って稙通と確認していた。
直ぐに戻らないと行けないので数日後には三人とも京へ戻っていった。
息子の兼照くらいは残って欲しかったが、公家として九条家の後継者として色々学ばないといけないらしい。
一応、義輝にも帝の崩御を伝えたが「そうか」の一言だった。
それと、稙家と話していたので何だったのか聞いたら婚姻についてだったそうだ。
稙家の実の娘を嫁にするそうだ。
と言うことは、表向きは俺と義兄弟になる。
その事を知ったとき俺はどん底に突き落とされた気分になった。
永禄元年(1558年)五月
朝廷から無事に即位の礼が終わったと使者が訪れた。使者は義弟の近衛前久だった。しかも今は関白になっていると聞いて口が開いたままになってしまった。
前久から「たまには驚かすことが出来ましたね」と何故かご満悦だった。
(後で覚えておけ.....)
その後前久は義輝達の元へ行き主上(帝)からの勅命を読んでいた。
「征夷大将軍足利義輝。主上より勅命を言い渡す。三好長慶と和議を結ぶべし。既に三好家、六角家からは承諾を得ている。将軍として直ぐに京に帰還せよ。またこれに、応じないのであれば征夷大将軍の職を剥奪いたす」
前久の読んだ勅命にイラついていたが受け入れるしかなく。深く頭を下げて拝命した。
「勅命、畏まりました。直ちに準備し帰還いたします...」
「それと、先月より年号は永禄に変わったので以後は永禄を用いるように」
「なっ!!」
これには義輝も抗議した。年号に関しては応仁の乱後も幕府と朝廷が協議をして決めていたからだ。
しかし、前久からは長らく京を留守にしていた幕府に問題があるとして反論は受け付けなかった。
その後義輝達が怒鳴り散らしていたが俺と前久は別室で呑気に御茶を呑んでいた。
永禄元年(1558年)六月
上田城
義輝達が帰る為に集まっていた。
「今まで世話になったな」
「上様もどうか御元気で...と言ってもまた近い内に京に上らなければなりませんのでまた伺わせていただきます」
義輝は名残惜しそうに馬に乗って帰っていった。ここに来てから大分、馬術が上達したらしい。後、乗ってる馬は気に入った為、献上と言うことで馬主から貰ったそうだ。・・・と言うのは義輝だけが思い込んでいる。
正確には馬主が義輝が寄越せと言ってきたから俺に何とかしてくれと言ってきたので俺が馬主に頭を下げて普段の十倍以上の高値で購入し、馬主が義輝に献上したのだ。
勿論、その事を義輝本人は知らない。付いて来ていた三淵には伝えている。
ホント、いい迷惑だった・・・。
美濃、近江を通って京に入るそうだ。
多分一番得をしたのは長尾か北条だろう。
景虎は越中守護に任じられ、北条は足利義氏の古河公方就任を義輝に認めさせたからだ。恐らく将来的には関東管領を名乗るのかもしれない。だが義輝は関東管領がまだ越後にいるので、北条がなることを認めはしなかった。
逆に一番悔しがってるのは今川だろう。上様を駿河にとずっと言っていたからだ。将軍がおれば上洛するための大義名分として最高だろうしな。
交渉人が亡くなった雪斎様だったら上手くいっていたかもしれないと思った。
そうそう、面倒なのが義輝に付いていった。叔父で元信濃守護の小笠原長時だ。
何故元、かと言うと俺が義輝から信濃守護と甲斐守護を任じられたからだ。
勿論叔父は猛反発したが、義輝が代わりに幕臣として奉公衆にして認めさせたのだ。
叔父に付いていくと言う物好きもおり、その者達の資金を俺が出さなければ行けなくなったのはいい迷惑だ。
まぁ、叔父に従うと言う者も、少なかったのでそんなもんだろう。
しかし、味方を集めるとか言いつつ、ここに一年以上居たが、誰一人三好討伐の為に兵を率いて来た者は居なかった。
だが一部幕臣達は大変だっただろう。なんせ、元々三好を討つための味方を集める為に来ていたので、里見や伊達、一番遠くは南部まで使者として向かって動き回っていたからだ。
結果は知らないが、大量な贈り物は持って帰って来ていた。
ここに来てから贈られてきた物は勿論全て持って帰っていった。迷惑料で少しくらい残して欲しかった。将軍御一行の滞在費は全て此方持ちだったからだ。ある意味六角も苦労したんだなとそこだけは同情した。
そう言えば、輝忠が義輝から刀を貰っていた。何で貰ったのか聞いたら今まで相手をしてくれた御礼だそうだ。
後、将軍家を支えてくれと言われたと言ってたらしい。いつの間にと思ったが元々味方を集めるためにやって来たのだから仕方ないが・・・。
それにしても刀を見せて貰ったら驚いた。
名刀三日月宗近だったからだ。天下五剣の一つでもある。そして、義輝が肌身離さず持っていたお気に入りの名刀だ。
俺が貰った大般若長光や不動国行より値打ち物だ。
「輝忠、大事にしておけ。...秀綱に稽古をして貰わないとな」
「はい!」
俺が言うと元気良く返事をした。まぁ、後に残すならあまり使って欲しくはないがそんな事言える時代ではないので言わないようにした。
ちなみに俺は美濃から引き抜いた刀匠関兼定の一振と不動国行を帯刀している。大般若長光は家宝として大事に保管している。
(しかし、輝忠にお気に入りだった三日月宗近を渡すなんて...。死んでも村上家を逃がさないつもりか...。はぁ~やだな~...)
俺は溜め息を付きながら、城に戻るのだった。




