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戦国生存記  作者: 現実逃避
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69、

弘治二年(1556年)八月

上田城 武道館(訓練所)


俺は義輝に合気道だけ教えることにしてやっている。その為まず技を見せてから組手を行った。ぶっちゃけ教えるのが下手くそなので、実際に体で体験してもらっている。


「よ、義照!もう少し分かりやすく説明せんか!」


「申し訳ありません。教えるのは苦手ですので体で覚えて下さい。息子もそれで覚えましたので」


俺は義輝を容赦なく投げたりした。俺は武丸にも教えており、武丸は泣きながらも良く覚えた。今は孫六に相手をさせたりしている。身を守る術を覚えてほしいのでたまには鬼にもなる。


その代わり出来た時は目一杯誉めてやる。後はひたすら反復練習だ。ちなみに、剣術は秀綱、体術は孫六、他は傅役の昌豊が指導している。


「それでは次の技を教えましょう。では、実際に受けて下さい。二十回行って取りと受けを交代します」


「わ、分かったから少し待ってくれ!!」


義輝は必死に覚えようとした。初めは楽に覚えられると思っていたが簡単ではなかった。特に体捌きが他とは違ったのだった。


義輝は習う前に木刀で義照に挑んだ。しかし、無手の義照に赤子の手を捻るが如く受け流され、最終的にまた天井を見る羽目になった。まぁ、義照の練習相手が、剣聖の師匠(卜伝)や剣鬼(具教)だったから仕方がない。今まで痛い目に遭わされていた。


藤秀や藤孝から義照が幕臣達に闇討ちされたときのことを聞かされていたが本当だったと感じた。自分も同じことが出来れば!と思っていた。


「よし!宜しく頼む!!」

義輝は、頬を叩き気合いを入れ直して訓練を続けるのだった。



数日後

義輝は鍛練を止め各地から来た使者の対応に追われていた。長尾家、今川家、北条家、斎藤家と周辺国の大名は皆来ていた。

後で聞いたが遠い所だと伊達や南部からも使者が居たらしい。


約一名当主(景虎)が来ていたが....。


俺は使者に監視を付けるのと宿泊先の提供をしていた。お陰で甲斐に回せるお金が増える。監視は甲賀忍が配下になってくれていたので楽だった。陽炎衆だけでは手に負えなかっただろう...。


少し覗いて見たが、初めて近江で会った時とは別人に思えるくらい立派に将軍をしていた。人ってここまで変わるのかと正直驚き見直した。・・・数世代前なら名将軍として名を残したと思わせる程だった。



俺は諏訪勝頼とその嫁の華、人質の村上信利と面会していた。

勝頼は十歳、華は十一歳、信利、十四歳だ。

ちなみに、村上信利は兄義利の子であの武王丸で、華は当時まだ赤子だった兄の娘だ。


父が武田一族を人質にと言ったので兄の子で武田一族でもある信利が人質となったようだ。しかも、勝頼には華を嫁がせるとは...。全くやってくれたな....。


「武王丸、八年ぶりか...。昔の兄上(義利)に似てきたな...」


「叔父上様(義照)、お久し振りにございます。元服し今は信利と名乗っております。父上が良く申しておりました。叔父上様には済まぬことをしたと...」


俺は一瞬、激怒しそうになったが抑えた。ここで信利に激怒してもどうもならないからだ。それに、あの頃まだ子供だった信利に当たったところで気が晴れるようなものでもない。


「華はあの憎い女(亀)に似てるな...。まぁ、親子だから仕方はないか...。ふぅ~、話は今川家から聞いている。勝頼の妻として扱おう。それに、お主に罪は無いからな」


「叔父上様のお心遣い、痛み入ります」

華はそう言うと伏して頭を下げた。礼儀正しいな...。


「さて、其方が諏訪勝頼か?」


「はい。諏訪四郎勝頼に御座います」


「お主の祖父、諏訪頼重殿は叔父上(小笠原)、舅殿(木曾)、父上(義清)と信濃四大将と言われ、諏訪の地では民から良く慕われておった。其方は父晴信ではなく、祖父のような武将になれ」


「私は御爺様(頼重)のことを知りません!なので、父上(晴信)のようになりながら御爺様のようにもなります!」

何とも正直な子だ。これが後に強過ぎる大将になるのかと思うとなんか、可愛く思えた。


「そうか。お主には傅役を付ける。色々学びなさい」


「はい!よろしくお願い致します!」


こうして三人との面会は終わり、それぞれ案内させた。

・・・父(義清)と母がやって来て孫二人(信利と華)を案内の最中に連れ去り会っていたことを後で知ることになった。

三人は俺の元で預かる事が決まっている。特に勝頼は傅役を付けるが俺が息子達と一緒に教えることになっているので城暮らしとなる。


三人と面会した後は元武田家臣達に面会した。領地を失い、銭払いでも良いと言った者達だ。

結構、後世に名を残した者達もいた。

秋山虎繁、原昌胤等、跡部勝忠等や上田原で散った今福の子の今福虎孝等もいた。


他にも武田一門でもある穴山信友の子、信君ではなく、弟の穴山信嘉のぶよしもいた。どうも家を割って生き残りをかけたようだ。まるで真田だ。まぁ密通したら即殺そう。

まず、全員から人質を取り、それぞれ仕事を与えた。


例えば跡部なんかは武田の勘定奉行筆頭でもあったので、そのまま勘定奉行の末端に入れた。うちは出来高で昇進もするのできっと上がってくるだろう。秋山虎繁は勝頼の傅役もやっていたようなので監視を付けつつそのまま傅役にした。ちなみに保科正俊も勝頼の傅役につけた。


原昌胤は一時的に俺の側仕えにした。井伊直親が許されて今川の元に帰ったからだ。義元が井伊家を尾張攻めの先鋒にすることで認めたのだ。これで桶狭間は変わるだろう。


弘治二年(1556年)十月


「今までお世話になりました」


「伊賀の者はこの御恩を忘れません!」


「そうか。今までご苦労だったな...。それでは百地殿に宜しくな」


俺は今まで研修に来ていた伊賀者達を見送った。農地管理、椎茸の栽培方法を学んだ者達だ。勿論、椎茸の栽培方法を他には洩らさない約束はしている。


こっちとしては伊賀との繋がりが出来たことは良いことだと思っている。もし天正伊賀の乱が起これば全員保護するつもりだ。俺が生きていればだが...。


さて、義輝のせいで丸投げにしている甲斐についてだが、精巧な地図が出来、泥かぶれの分布も分かったので対策を始めた。・・・俺達が貰った甲斐三郡のほぼ全てで泥かぶれが出ていた。


兄(義利)が必死に農業改革を行ったのだろう。水路を伸ばし田畑を増やしたのが原因だ。余計なことをしてくれた。


まず、泥かぶれが出ている地域は全て稲作の栽培を禁止。また、川に入るのも必要最低限のみとし禁止した。隠し田や密かに栽培した場合、一族全員の磔の厳罰だ。ただ、それだけでは終わらない。村に連帯責任を付けることで村同士を監視させた。


これは晴信が税金集めにやっていたのをそのまま利用した。

ちなみに村への罰は金山、もしくは泥かぶれ対策での強制労働だ。


勿論、ムチだけではない。飴として、棟別銭等の武田が作った税を全て廃止、米を作らせない代わりに配給制による食糧配布等した。これは甲斐の百姓達からかなり喜ばれた。


配給は村ごとに戸籍を作らせ、それを確認した上で配られる。もしも誤魔化した時の罰はかなり厳しい物にした。だが、それをしなくては泥かぶれを減らすことなど無理だった。


禁止した米の代わりに、蕎麦や甘藷(薩摩芋)、葡萄などに変えていった。葡萄はそのままでもいいがワインを作ることにしている。ワインは味はともかく作るのは意外と簡単だからだ。


甘藷は、博多と堺に作った店(陽炎衆経営)から取り寄せた。

全ては出来るだけ水に触れないようにするためだ。


そして、肝心の泥かぶれについては被害の少ない所から始めた。川については諦め、水路周辺の徹底した除草から始まり、生石灰の散布、瓦を利用した水路造りだ。本当はコンクリートで水路を作りたいが無いため、代用で瓦を利用することにした。

瓦と言っても、屋根瓦をそのまま使うのではなく、U字溝のような物を新しく作ったのだ。瓦職人達が頑張ってくれたお陰だ。


また、ミヤイリガイが原因の一つと発表し、住民等に見つけ次第駆除するよう触を出した。・・・余りにも、被害が酷い一部地域では離村、合併命令を出し反発を招いたが強行した。

それと、コンクリートの開発を進めた。

しかし、あれほど虐殺等したのに反乱はそこまで起こることがなかった。どうも、虐殺を受けた所は別だが甲斐全体で見れば、武田の方が恨みを買っているようだ。ただ、やはり敵意は持っているようで少しずつ懐柔するしかない。


弘治三年(1557年)四月

信濃松代


年は変わり、長尾家は越中に侵攻した。今回は、領地拡大を目指しているようだ。ただ、越中以上は取らないつもりらしい。まぁ、景虎自ら来た為か将軍から越中守護を任じられ、椎名からの援軍要請もあったので丁度良かったかもしれない。


俺は父の隠居先となる海津城(松代城)を確認しに来ている。ついでに疫病神(義輝)も付いてきた。


この疫病神が来てからもう一年になる。今は義輝がここに居るためか戦は起こっていない。長野殿と北条も今は大人しくなっているが国境では小規模の戦闘が起こっているようだ。


あるのは流れ者の盗賊狩りくらいだ。


と言っても甲賀忍千人以上が家臣となったので忍だけで処理している。

お陰で陽炎衆も見直しすることになった。


陽炎衆の一番のトップを孫六にして、甲賀忍は一組二百人の組を作りそれぞれに頭領と副頭領を決めさせた。まぁ、色々問題はあったが一応出来た。


全ての忍を取りまとめる孫六の下に各分隊の頭領と情報収集の商人衆(各店の店主)、その下に組員としたピラミッド型とした。


ある意味忍の国が出来そうだった...。まぁ伊賀がそうだけど...。


さて、話しは戻り城作りの現場だけど...。

全員が頭を下げて仕事が出来なかった。

そりゃ、将軍がいるのに仕事なんてしたら斬り捨てられると思うだろう。

不思議がってる義輝に説明するとやっと理解した。


義輝の口から「城作りを見学しに来ただけだから続けよ」と言ったが誰も動けなかった。


俺が言うとちらほら動き出した。最終的には再開したけど、やはり皆緊張していた。


俺は現場監督の矢沢頼綱に説明させた。

縄張りを済ませ、普請もほとんど済んで後少しで終わるそうだ。その後の作事で建物を建てていくのだが、これがまだ一年はかかるようだ。


ちなみ、設計は俺と信春だ。いや~信春に築城の才能があったの忘れてた。今度から任せてみようかと思ってる。


「余もこのような城が欲しいな...」


「「「・・・・・・・・・・」」」


義輝の悪魔の呟きだった。


「京に戻った後、御自分でお建て下さい...」

俺はそれだけ言った。


(城一つ作るのにどれくらいかかると思ってんだ!!)


ちなみに俺の作った上田城、毎年少しずつ広くしていったが単純に計算しても八万貫(約120億円)以上は優にかかっている。


ちなみに大阪城は800億と言われている。


俺の蔵が空っぽになったのだ。清酒と椎茸など売ってなかったら到底作ることなど出来やしなかった。


ちなみに、海津城は史実より小さめの城なのでそこまでかからない...はず。

(なんか、予定より広い気がするが...)


「では、三好から京を取り戻した際、各地の大名に献金してもらってから建てよう!」


義輝は京に戻った後の事を言っていた。

俺は絶対三好討伐に行きたくないと心に決めた。巻き込まれるのは御免だ。

その為、送った書状の返答が早く来て欲しかった。


その後、各建築現場を回って説明し見学していき、城に戻った後、合気の鍛練をするのだった。



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― 新着の感想 ―
[気になる点] 10月5日の感想を書いた者です。 wikiで確認しただけですが、原盛胤が昌胤であったともされるというのは分かりました。 ただ、それでいくと42の方が原昌胤で、69の方が盛胤に読めるので…
[気になる点] 「42、援助と北条の妖怪」で武田を追放されて、直属として仕えることになった原昌胤が、再度武田から流れてきて仕えているようですが、同姓同名でしょうか?
[一言] 「余もこのような城が欲しいな・・・」>> 将軍さまには石抱k…、石拾いからしてもらいましょう。足腰の鍛錬デス!って言えばヤラないかなぁ。
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