53、北条征伐の結果
天文二十一年(1552年)十一月
小田原城
連合軍はあれから何度も攻めているが北条は防ぎきっていた。
小田原城には四万以上いると思っていたが実際城にいる兵士は三万程度しかいなかった。
「このまま行けば耐え切れるのは間違いない...」
「最後まで油断せぬことじゃ」
氏康は各地の味方の城から連合軍の補給部隊を攻撃させ兵糧攻めをしているのだった。
その影響は大きく連合軍の士気は下がる一方だった。しかも、今川、武田連合軍が城を出て近くの平野に陣を敷いていたのも原因だ。
しかし憲政は軍を分けることはせず今川武田連合を放置したのだ。
その訳は景虎が「今川、武田は兵を失いたくないので攻めてこない」と言った為だ。元々軍を分けたくなかった憲政はこの意見を押して軍を分けなかったのだ。
勿論義清は猛反発した。しかし、覆ることはなく仕方ないので意見が同じだった者を集めて一万二千の軍で今川武田連合と対陣する事にしたのだった。
しかし、兵力差があるので攻めることは出来なかった。
関東連合軍はその後も攻め続け、城下に火を付けて誘き出そうともしたが北条軍は出てくることはなかった。
十二月になると攻撃を止め包囲して兵糧攻めに変更するのだった。
しかし、それが憲政の悪癖が出る元になるのだった。
天文二十二年(1553年)一月
上田城
新年を迎えたが嬉しいことがあった。
千が娘を産んだのと探し求めていた二人とおまけが仕官してくれたのだった。
娘の名前は輝夜とした。本当に可愛い子だ。
絶対に絶対に稙通に渡すものか!!
探し求めていた二人の内一人は甘粕景持。越後十七将で、甲陽軍艦では「謙信秘蔵の侍大将のうち甘粕近江守はかしら也」と言われる程の猛将だ。探した甲斐があった。
そしてもう一人が心待ちにしていた剣聖と言われた上泉秀綱とその息子秀胤、弟子の疋田景兼だ。
秀綱は主が北条に寝返り上泉城を奪われた後、今回の関東連合軍に参加していたが、上杉憲政の様子を見て落胆し、業正の薦めと師匠(塚原卜伝)の弟子で拳聖と呼ばれた俺が居たので俺の所に来たそうだ。
(ホント神様仏様長野様だ!!!、本当にありがとう!!!)
しかし拳聖って言う噂が流れていると思っておらず聞いてしまった。
何でも剣客の間で尾ひれが着いて、剣聖と言われる師匠(塚原卜伝)が認めた唯一の体術家と広まっているらしい。勘弁して欲しい。
それと、無刀取りのことも広まっていた。
お陰で、秀綱の息子の秀胤相手に無刀取りを披露することになるのだった。
その後俺は、秀綱を剣術指南役とし、秀胤と景持を馬廻りとした。
疋田景兼は秀綱に仕えると言うので好きにさせた。
あぁー忘れていたがおまけとは、人斬り兵部の父親である井伊直親だ。
今まで、信濃伊那郡に隠れ住んでいたが、生活が苦しくなったので仕方なく仕官しに来たそうだ。出来れば、井伊谷に帰りたいと言っていたので、気が向いたら雪斎に連絡してやろう。
・・・虎松が居たら引き留めるがまだ居ない(産まれていない)しな。
それから半月後、最悪な結果がもたらされた。
天文二十二年(1553年)一月末
「申し上げます!関東連合軍が敗走!関東管領上杉憲政様討ち死に!生き残りは武蔵の忍城に撤退しました!」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!父上は無事なのか!何があった!」
俺が聞くと兵を失ったが無事だと言っていた。
何があったかと言うと、父上は一万二千を率いて今川武田に対して対陣し、関東連合軍本隊四万八千は小田原城を力攻めにしていた。しかし、小田原城の守りは硬く落ちなかったので憲政は兵糧攻めに変更したそうだ。
しばらくは何も無かったが、いつしか憲政の悪癖(遊興癖)が出て、陣内で宴を始めてしまった。長尾景虎は警戒を強めるよう進言したが「包囲は万全」と聞く耳を持たなかった。
景虎は仕方なく自軍を率いて父(義清)に合流することにし本陣を離れた。
その為、上杉本陣で北条を警戒する者はほとんど居なくなり、兵も緩みきっていた。
それを見逃す氏康ではなく、抜け道から城を抜け出し、河越夜戦を再現し今度は憲政の首を討ち取ったのだった。
その頃父上達は長尾勢が合流したので武田、今川相手に戦をしており、このまま行けば勝利は間違いない状態だったが上杉本陣が総崩れになったことを知り、孤立を恐れ急いで撤退したそうだ。今川は動かなかったが、武田は追撃をしてきて少し犠牲者が出たとのことだった。
武田、今川軍は手痛い被害を受けたようだが軍神(景虎)相手によく耐えたと思う。
欲を言えば晴信の首を取って欲しかったな。
しかし憲政には呆れるしかなかった。何で、失敗から学ばないのかと。
これで、上杉家の衰退は確定した。最悪同盟を見直す必要も出てきたのだった。
その頃、忍城では義清や景虎の他に総崩れの上杉軍の敗残兵が集まっていた。
別動隊の佐竹等は敗走の知らせを聞いて自国に撤退をしていた。
その為、忍城には三万いるかいないかしか居なかった。
「戦の名目は無くなり、兵糧も尽きる。我らは撤退する」
「・・やむを得まい..。管領様の仇討ちをしたいがこれでは不可能だ」
義清も景虎も撤退することを決めた。
上杉軍残党は主を失った者は憲政の居城平井城に向かわせることにした。後は上杉家が何とかするだろうと考えてのことだった。
長尾村上両軍が兵を引いた後の武蔵の国人達の動きは早かった。
下野に近い者は宇都宮等に従属し、それ以外の者は北条に降伏したりした。一部城に籠もって抗おうとする者もいるのだった。
天文二十二年(1553年)三月
父達が帰ってきた。兵士達も六千と二千人少ないが戻ってきた。
やはり、皆疲れきっている。
「あの管領のせいで最悪だ。勝ち戦を無くしてしまったわ!あのまま行けば晴信の首を取れたのに!!」
「武田が増長するかも知れませんな。北条も援軍を送ってくる可能性もあります」
葛尾城では今回の敗戦を受けてどうするかで話し合った。俺は守りは万全だけど、攻め手に欠けると伝えた。できることなら、佐久と筑摩を同時に攻めたかった。佐久は囮で本命は筑摩郡だ。
筑摩郡を落とせば木曾が安全になり、美濃とも連携がしやすいからだ。
「今は兵を休ませる。全く今回は酷い戦だった..」
父はそう言うと広間から出ていき評定は終えた。俺は子供を一人預かって城に戻った。
馬鹿兄貴(義勝)が押し付けてきた子なのだ。
名前を内ヶ島夜叉熊。
一族領民が一夜で消えた天正地震の時の帰雲城の城主、内ヶ島氏理だ。
結局、内ヶ島氏の領地はそのままで人質を出して臣従することなったらしい。
その人質が夜叉熊こと氏理だ。
馬鹿兄貴からは「内ヶ島は内政に優れている一族だから、とことん内政を教えとけ!俺の家臣となる時には内政を任せられるようにな!」と一方的に引き渡されたのだ。
江馬、三木、内ヶ島と飛騨の主な国人の子は全員俺の元に居ることになった。仲良くやってくれたら良いなと思っている。
そんなことを思いながらいると道三からお誘いの書状が届くのだった。
その頃関東管領上杉家は存亡の危機に瀕していた。
まず、武蔵の者が北条に寝返り、上野国人も上杉家から離れたのだ。その中には西上野の長野業正もいた。
勿論こんなに酷くなったのは原因がある。
憲政の嫡男龍若丸は急遽元服し上杉龍政を名乗った。後見は妻鹿田新助と言う重臣だった。龍若丸の乳母の夫だ。
しかし、妻鹿田は自分に敵対している者には当主龍政の名を使い領地を召し上げたり、追放したりと好き勝手を始めてしまったのだ。
その為、上杉を見限り北条に付く者は後を絶たなかった。
そんな中一番困惑していたのは佐久郡の上杉領だった。
長野業正が上杉家から離反し独立した為孤立したのだ。
業正や村上に臣従する者、武田に寝返る者、どうしたら良いか決めきれず孤立する者と混乱していた。
この混乱で一番得をしたのは武田晴信だろう。
佐久郡の国人に調略を伸ばしていたお陰で南佐久郡の多くの国衆は本拠地甲斐が近い武田に寝返ったのだ。
佐久は実質北(村上側)と南(武田側)で分かれるのだった。




