51、帰国
天文二十年(1551年)十一月
やっと領地に帰ってこれた...。
流石に雪が降って積もっていたので普段より時間がかかってしまった。
戻ってから、昌祐と昌豊にこれまで居なかった間の報告を聞いた。
俺の領地の方は問題ないが、木曾や仁科は不作だったらしく、倉を開け食糧を配布したそうだ。こういう時の一備だ。最低三年間蓄えた分は置いてあるから何とかなった。
次に木曾領と佐久郡に武田の間者が多く入るようになったらしい。陽炎衆が対応しているが、数が多く増援が必要と言うことなので各地から数人ずつ集めて対応させた。
ついでに武田は俺がいない間に攻めようとしたようだが、甲斐で一揆が立て続けに起こり鎮圧するため攻められなかったようだ。
まぁ、一揆を起こさせたのは俺だけどな。
しかも一揆鎮圧の過程で相模の北条領内の村を焼いてしまい北条に対する対応もしないといけなかったようだ。
これは正直予想外だった。一揆勢、良くやってくれた!お前達の死は無駄ではなかった。
関東管領が北条討伐のために、また軍を集めているそうだ。しかし前回とは違いあまり集まりが良くなく、俺達にも参加するよう要請が来て、父上(義清)が三千の兵を送ることを約束してしまったそうだ。
それ以上は武田から国を守る為に出せないと伝えているのでこれ以上要求されることはないだろう。
ただ、今回の出陣に長野殿が反対しているらしく、きちんとしたことは決まっていないとのことだった。
伊賀から十人程やって来て、俺の書状を持っていたので指示通り農地管理を教えている。ただし、忍びでもあるため監視を付けているそうだ。
最後に、馬鹿兄(義勝)は抵抗していた飛騨の内ヶ島氏利に戦を仕掛けて見事負けたそうだ。
内ヶ島と言えば白川郷の国人だ。陸の孤島とも言える白川郷の統治を続けていた為、外征など全くしなかった国人で最後は天正地震の土砂崩れで一族、領民が一夜にして消えたと言われている。
(出来れば生かしておきたいな...)
俺は馬鹿兄と仁科家当主の盛政に書状を書き、力攻めではなく、調略して味方にした方が良いと送った。
「他には何かあるか?」
俺が聞くと工藤兄弟は互いに顔を見合わせてから言ってきた。
「実は...」
俺は話を聞いて頭を押さえた。
その後、人質の子供達が集められて勉強している屋敷に向かった。
ここでは、読み書きに加え、四書(論語、孟子など)、五経(礼記、春秋など)、兵法書(孫子など)、武芸四門(剣術、弓、騎馬、鉄砲)を学べるようにしている。
ちなみに座学を教えているのは寺の僧であったり、隠居した家臣等にやらせている。
武芸に関しては昌豊や東条信広など、手が空いた者に任せている。まぁ、今で言う学校のようなものだ。
武丸も他の者と一緒に学ばせている。その時は昌豊が付いていてくれている。
で、今回頭を悩ませたのは...俺の側室の岩姫だ。
まだ十四歳なので、手を出してはいないが問題と言うのが、この人質達に混じって武術の鍛練をしていると言うのだ。特に弓と薙刀らしい。
しかも弓は他の者より上手く、動く的にさえまともに当てるそうだ。
何が問題かと言うと、人質の中に女一人で入っていることだ。俺の側室の岩に手を出せば即手打ち、悪くて一族連座になることもあり得るので監視している昌豊達も気が気でないそうだ。
出来れば止めて貰いたいが、口でも言い負けたそうだ。昌豊曰く、「今巴(巴御前)とも呼べるのでは?」と言っていた。流石木曾家だと思ってしまったが何とかしてほしいそうだ。
で、やって来たが、やはり一人で弓を引いていた。一応側には女中が控えていた。
静かに見ていたが見事な腕前だった。
十本中七本はど真ん中を射抜いていたからだ。
「見事な腕前だな..」
俺がそう言って近付くと岩姫は驚いて畏まっていた。
「お帰りなさいませ。お迎えもせず申し訳ありません!」
俺は二人だけなので気にするなと言った。
流石に汗だくだったので温泉に行かせた。このまま冷えて風邪を引くよりはいいだろう。
そしたら、夫婦なので一緒にと岩姫に言われ共に行くことにした。
何故温泉があるかと言うと近くで温泉を掘り当てたので頑張って城まで引き込んだのだ。
引き込むのは容易ではなかったがそこは職人達の汗と涙、知恵と技術を駆使してやり遂げてくれた。
ちなみに城下にも銭湯と温泉宿がある。
銭湯に関してだけは男湯と女湯で分けている。問題を起こしてほしくはないからだ。
風呂から上がった後、俺は岩と二人で話をした。
岩に聞くと弓は木曾にいた頃からやっているらしい。しかし、俺に嫁いでからは妻が武芸を嗜むのは可怪しいと聞いて止めていたが、人質として預かっている同じくらいの年の者達を見てたら羨ましくどうしてもやりたくなって誰にも知られずやっていたそうだ。
俺も知らなかったのは俺が京に出立した後から始めたからだそうだ。
しかし、そう長くは続かずいつの間にか知れ渡り、人質の子供達に目標にされていつしか一緒にやるようになったそうだ。
ちなみに正室の千には全て話して了承を得ていると言っていた。
俺は俺の妻が一人混ざってやっていて、もしものことがあればどうするのか聞いたら岩は考えていなかった。
俺は呆れながらも仕方無いので必ず護衛を付けるなら認めることにした。少しくらい気が晴れればいいだろう。
その日の夜、俺は千にも話したがお礼を言ってきた。千にとって岩は妹のように思えるので気になっていたそうだ。
俺は二人で眠りながらも今後について考えていた。
雪の為、戦も何も無いはずなので当分は領地でゆっくり出来るだろう。
来年からは対武田の為に動くことになるので出来るだけ人材の確保等もしておこう。
出来ればこの辺で有名な甘粕景持辺りは確保したいと思っていた。
甘粕は信濃と甲斐の国境の猟師らしく、まだ長尾景虎に仕えていないはずだ。一応陽炎衆に探させてはいる。
他にも家臣にしたい者は多いが年代的にまだ若いので難しい。なので出来る範囲からやっていくつもりだ。
天文二十一年(1552年)三月
今頃道三は大喜びしているだろう。
織田信秀が死んだそうだ。
その一方で俺は頭を抱えた。
「長野殿を蟄居させるなんて...」
「最後まで出陣に反対されたからにございます。関東管領から七月に出陣するので援軍をと言うことです」
「長尾家は如何程援軍を出すと言っているのか?」
「はっ、八千程だと聞いております。しかも、長尾景虎殿自ら出陣とのことに御座います」
景虎は政景との戦を終わらせているので当主自ら動けるようだ。
関東管領軍は各地の領主も参加して最低でも五万程度になる見込みらしい。
史実では景虎の時で9~11万と言われているので、少ないと感じるが、大抵鯖を読んでいるからこんなもんなのだろう。
対して北条は単独で五万近くを集められるらしいので五分五分だろう。ただ、噂での話なので確証はない。なんせ、間者を送り込みたいが風魔が邪魔をして来て始末されるのでまともな情報が得られていないからだ。
俺は孫六や幸隆を中心に佐久と筑摩の国人に調略を仕掛け始めていた。やはり、信濃の武田領は重税の為かなり反発する者は多かった。
しかし、諏訪郡だけはそのような声は聞こえなかった。
流石、両職の板垣信方が治めているだけあると思った。それとも、勝頼と言う後継者がいるからかもしれない。まぁ、ついこの前、諏訪の反対勢力が族滅されたのが真実だろう。板垣が徹底的に滅ぼしたらしい。
それと晴信は躑躅ヶ崎館の北に城を築き始めているそうだ。
位置は新府城があった場所だ。親子して同じ場所に建てるようだ。築城を任されたのは山本勘助らしい。それと義利兄上も絡んでるそうだ。俺の上田城を真似したいのかもしれない。
しかし、兄は城についてはほとんど知らないから意味が無いだろう。
天文二十一年(1552年)四月
「...それは間違いないのか?冗談だろ?」
俺は確認したが間違いないようだ。
何があったかと言うと、長尾景虎が八千もの兵を率いて参加するのを聞いて父が「三千の兵では甘く見られる!」と言って北信濃勢を中心に八千の兵を自ら率いていくと決めた。
その為、葛尾城には五百人足らずの兵しか残らないのだ。やはり、反対はあったが父が押しきった。
何を考えてるのやら....。
「はぁ...昌豊、千人率いて葛尾城に援軍に向かってくれ。後、塩田城の塩崎八郎に高坂範重の五百人、長窪城の馬場信春に千人、内山城の出浦清種にも千人送ってくれ」
「しかし、上田城の守りが薄くなるのでは?」
昌豊の不安は間違いない。各地に送れば残りは三千程度しか残らないからだ。
「仕方あるまい...。もしもの時は松尾城の真田と砥石城の矢沢を呼ぶしかない」
俺は溜め息をつくしかなかった。




