4、酒とまだ若い虎
天文八年(1539年)一月
今日は新年の挨拶と共にある物のお披露目をした。
父上には内緒で義利兄上に手伝って貰った。
そう、清酒のお披露目だ。
父や家臣達は宴の為に集まっている。
そこにいつもの濁酒ではなく清酒を出そうと思い付いたのだ。
「それじゃ、お願いします」
俺は女中にそう言って父達がいる広間に戻った。
少ししたら女中達が酒を持って来て全員に配りだした。
「おい!水を配るとはふざけておるのか!」
父は注がれた物を見て怒鳴った。
「父上、これは水ではありません。新しく作り上げた酒にございます。勝手にですが今回皆様にご賞味頂きたく黙って出させていただきました」
俺が言った後に義利兄上が説明してくれた。中には匂いを嗅いで確認する者もいた。
父義清もそうだった。
「確かに酒の匂いがするが..どう見ても水ではないか?」
義清は匂いを確かめながら言った。集まった家臣達も不思議そうに見ていた。
「百聞は一見に如かず..。とりあえず呑んでみて下さい」
「では、皆呑もうではないか!」
そう言うと義清は注がれていた酒を一気に呑んだ。
俺と義利兄上は全員の顔を見たが成功したと思った。
「何だこれは!いつも飲む酒が泥水のようではないか!」
「いつもの酒より数段酒精が強いが、まるで水のように呑みやすいですな!」
「これなら、いくらでも呑めそうだ!」
義清が驚きながら感想を言ったと思えば皆それぞれ思ったことを口にしだした。
「義照!これはどうやって作ったのだ!」
父が迫って聞いてきたが、詳しくは教えれなかった。
「父上、作り方は秘密です。他国に知られて真似をされてはどうすることもできませんので」
俺は無理だと答えた。まぁ、説明しづらいのも理由ではある。
「では、どれくらい作れるのだ!この酒はまだあるのか!」
矢継ぎ早に聞いてくるので困っていると義利兄上が止めてくれた。
「父上、落ち着いて下さい。義照が答えられないですよ」
兄が止めてくれたお陰である。何とか父の圧迫から逃れた。
「まず、試験的に行ったので後四斗(72リットル)程度しかありません。後、まだ試験的なので言えませんが、三月までくらいしか作れそうにないです」
「なら、すぐに量産しろ!!人手と場所は出す」
「父上、今年はもう無理です。建物を作れば時期が過ぎて作れなくなります。今の設備は大きくないですが出来るだけは作ってみます」
父達の反応からするとかなりの高評価だったようだ。しかし、増産は正直難しい。なんせ、作り方を守りながら作らなくてはいけないからだ。
「では、直ぐに取りかかれ!」
「父上、相談なのですが、この清酒といくらかの金を朝廷に献上して官位を貰いませんか?」
義利兄上に相談したのはこの為だ。父は正四位上、左近衛少将だ。これらを献上し義利兄上に新しく官位を貰えるように取り計らって貰うべきと思ったのだ。出来れば信濃守を貰って欲しいところではある。
「何故、朝廷に官位を貰うのだ?既にワシは正四位上と左近衛少将を貰ってるではないか?」
やはり父は聞いてきた。俺は兄上を見た後答えた。
「父上はありますが兄上にはありません。なので、今回献上して兄上に信濃守を貰えたらと思います。信濃守を貰えたら海野や高梨を攻める大義名分になり、守護の小笠原家に何の文句を言われる事無く攻めることが出来ます。既に守護代の大井は没落したも同然なので、名目上、守護の小笠原を支えることも出来ると思うからです」
父は考えだし、皆に聞き始めた。どちらかと言えば賛成は多いようだ。場合によっては守護の小笠原に取って変わることも出来るからだ。
最終的に、朝廷に送ることになり、義利兄上自ら持っていくことになった。これは朝廷と次期当主の兄上の顔繋ぎも兼ねているそうだ。
俺は急ぎ領地に戻り清酒の増産を始めた。
天文八年(1539年)三月
甲斐 躑躅ヶ崎館
「北条氏綱との和睦がなった今、我らは再度信濃攻めを行う」
武田家当主、武田信虎は重臣達の前でこれからのことを話した。
甲斐の土地は貧しく生きていくには信濃の土地を奪っていかなければならなかった。
「御館様、戦が続き国は疲弊しきっております。ここは一旦立て直しを計り一気に信濃を攻めるべきと存じます」
重臣の甘利虎泰は今年は思い止まるように言った。北条との戦や今川家の内乱に首を突っ込んだ為に出陣が続き、民百姓から臨時の税を取り続けていた為だ。
「信濃の諏訪家と同盟しておりますので、今年一年戦を止め、来年には諏訪と同調して佐久郡を取れることが出来るでしょう」
重臣の板垣信方も甘利と同様、信虎に戦を止めさせようとした。
「甘利、板垣、昨年信濃はかなり豊作だったと聞くが、この甲斐ではどうなのだ?」
信虎の耳にも信濃が豊作だったことが聞こえていた。ゆえに信虎は信濃攻略を急ぎたかったのだ。
「恐れながら、長く戦が続いた為不作にございます...」
甘利は気不味そうに答えた。信虎は豊かな信濃を取りたくて仕方がないのが分かっていた。自分達も貧しい甲斐より豊かな信濃が欲しかったからだ。
「甘利、来年の春まで戦は止めよう...。ただし、今年は税を上げ多くの年貢を得るのだ。さすれば来年には佐久郡を取れるだろうからな」
「ははぁ...」
信虎の指示に従うしかなかったが、これ以上税を上げては百姓が逃げ国人領主の不満が爆発してしまうと思った。
集まっている家臣全員が思っていたのだった。
これ以上は一揆が、起こりかねないと.. 。
評定を終えた板垣は甘利達と今後について話した後、若殿の元へ向かった。
板垣はこの若殿にも頭を抱えていた。
「駒井、若様は如何した?」
「未だお休みにございます。昨夜も遅くまで侍女らと和歌を詠んでおられましたので...」
板垣は頭を抱えた。このままでは家臣に侮られる一方だから。
「若は何故これ程までに...」
この若殿とは武田家の嫡男晴信のことであった。
数日後
夜、晴信はいつものように侍女達と和歌を詠んでいた。
「晴信様、板垣様がおいでになられました」
晴信の付き人である駒井正武が来客を知らせた。
「板垣か。構わん、呼んできてくれ」
そう言うと直ぐに板垣がやって来た。
「板垣、このような時間にどうした?そなたも和歌を詠みに来たのか?」
「若...どうか御人払いを...」
板垣はそう言うと晴信は全員を下がらせた。
「若、何故そこまでうつけを演じられますか...。このままうつけを演じられたままではこの甲斐は滅びましょうぞ」
板垣は頭を下げ涙目になっていた。晴信が父信虎より優れておることは傅役である板垣には分かっていた。しかし、晴信が何故かうつけを演じているのが分からず我慢ならなかった。
「板垣、それ以上言うな....」
「この板垣のこの板垣の前でうつけの真似事は無用にございます」
板垣は伏して泣きながら訴えるのであった。
「もうよい。下がれ..下がるのだ」
晴信も流石に板垣を下がらせた。一人残った晴信も目には涙を浮かべていた。この日以降、晴信はうつけを演じるのを止めるのであった。