38、屈辱的な和睦
天文十七年(1548年)十月
俺達は国境まで行き、塩田城、丸子城に寄った後上田城に戻った。
今回の戦で米の収穫は激減した。大半は奪われたり荒らされたりしたからだ。その為、戦があった周辺地は年貢を取るのを辞めた。その為来年は長期の戦は厳しいことになる。
と言うのも小県郡の半分が武田によって荒らされた為だ。その復旧もしなくてはならない。
だが、年が明けたら苦しいが一気に諏訪に攻め込み信濃を取り返す。武田相手に連勝しており、士気も高いから甲斐へ攻め込まなければ問題ないだろう。
禰津元直に関しては鋸引きの刑に処した。ただし、首ではなく足から切っていった。それも、恨みを持つ百姓達がだ。正直、簑踊り(みのおどり)にでもしてやろうとしたがそれでは気が収まらなかった。
ちなみに、他の裏切った者達とその一族は簑踊りにした。
簑踊りとは、簑で縛り上げた後生きたまま火を着ける処刑法だ。確か、松永久秀が良くやっていたらしい。
ただ、元服していない子供や赤子については寺に入れた。本当は容赦なく族滅しようとしたが周りからの反対が多かったので止めた。まぁ、平清盛と同じ轍を踏むつもりはない。監視を付け、逃げ出せば容赦なく始末することにしており既に忍達に命じている。
今年は豊作かと思われていたところを禰津が引き込んだ武田によって荒らされ、奪われた為百姓達の恨みは相当なものだった。
見張りを立てて一日のみ誰でも一度だけ自由に鋸引いて良いことにしていたら多くの百姓が引いていった。全員、今回奪われたり荒らされたりした者達だ。
夜には四肢が無くなり、そのまま死んだ。
首は長窪城の近くで晒し首として置いておいた。
勿論、何をしたかの説明の立て札付きでだ。
最後はきちんと葬るつもりだ。ただ、当分はそのままにしておく。
上田城に戻った後、俺はすぐに人質を要求した。人質として家族を上田城城下に住まわせるとし、子供だけの場合はきちんと安全と教育を行うことは約束した。
馬場や真田、保科等は直ぐに子供を出してきた。
工藤兄弟は元々上田城下に住んでいるので問題なかった。
次に、長窪城の復旧と改築を馬場信春に命じた。完成後は今回の手柄として城主に任ずることにした。
と言うのも、武田は城に火を着けて帰ったからほぼ一から造り直しだった。それなら信春の好きなように造らせて守らせる方がいいと思ったからだ。
長窪城城主だった満国の子、須田満親は片腕を失い、戦働きが出来なくなっていた。
その為、戦場から遠ざけて内政官とすることにした。満親は死んだ満国とは違い、内政に疎いので苦労はするだろうが見捨てることはしない。
後、父達の方は俺達より凄かった。葛尾城の北にある鷲尾城を落としてくれと頼んだが兄に味方した者達の城を次々と落とし、一番北の高梨との境にある霞城まで制圧した。生まれて初めて父(義清)が凄いと思えた。・・・この時だけは...。
天文十七年(1548年)十一月
俺達が城に戻ってから時間が経つのは早く、気が付けば十一月末だ。
もう、雪のため動くことは出来なくなっていた。
そんな中、俺は昌祐と昌豊を呼んでいた。
「二人ともこんな雪の中済まんな。寒いから入れ」
「はぁ...では失礼します...」
俺はあまりに寒いので、炬燵を作ってもらった。中に火鉢を入れた物だ。
新しく販売する商品でもある。特に越後の方は売れるだろう。まぁ、綿が無いので麻布で掛け布団を作っているが、それでも無いよりマシだろう。
二人も暖かさに驚きつつも顔が緩んでいた。
「これは暖かいですな~。殿、是非一つ頂きたいのですが...」
昌祐はかなり気に入ったようなので、重臣と前回手柄を上げた家臣に贈ることにした。
炬燵自体は古くからあるみたいだがここまで暖かくないそうだ。
「二人共、これを引いてくれ」
俺は二人にくじを引かせた。二人は不思議そうにくじを引いて、昌豊が赤い印の入ったくじを引いた。
「殿、これは?どういうことですか?」
昌豊が聞いてきたので答えてやると物凄く驚いた。
「何、二人を呼んだのはどちらかに武丸の傅役を頼みたくてな。それでどうやって決めようか悩んだが、くじで決めようと思って二人に引いてもらったんだ。昌豊、武丸のこと頼んだぞ」
「と、殿!そんな決め方でよろしいのですか?それに私は重臣ではないですし...」
(昌豊は慌てているが何か問題があるだろうか?)
「重臣じゃないのはお前が断るからではないか?それに昌祐と昌豊の二人ならどちらにでも託せるしな」
俺が言うと何故か二人とも涙目になってた。
二人としては父を殺され甲斐から追い出された所を拾われた恩があり一生懸命やって来た。その結果、傅役を任せられる程信用されていることに嬉しくて涙が出そうになったのだった。
「工藤昌豊、謹んでお受け致します」
昌豊は炬燵から出て伏して頭を下げるのだった。
「昌豊、頼んだぞ!」
その後二人と少し話すのだった。
天文十八年(1549年)一月
新年の挨拶の時に三月に桐原城、大家城攻めをすることを発表した。
と言うのも小笠原長時は先月林城を捨てて父上の所に逃げ込んできたそうだ。話だと、家臣が裏切ったらしいが実際どうだろう...。
その為、伊那郡と筑摩郡は木曽を残してほぼ武田の手に落ちたのだった。
ほんと、ふざけた守護様だ!!...叔父でもあるけど...はぁ。
そのせいで武田は小県で手痛い被害を受けたが、筑摩郡と伊那郡を得たことになる。全く厄介なことをしてくれた!!
諏訪へ侵攻して武田の信濃への足掛かりを奪い、信濃を取り返す予定が滅茶苦茶にされた!
それと、関東管領からの同盟の誘いについては越後の長尾家を含めた三国の同盟なら乗るということを伝えさせた。後顧の憂いを絶つためと説明を加えておいた。
正直言えば俺達が長尾家と同盟しようとすれば高梨政頼を説得しないといけないが、武田以上に争ってきた間柄なので不可能に近かった。和議でさえごねられたしな。その為、まだ残っている関東管領の威光を利用させて貰うことにした。景虎なら直ぐに承諾するはずだ!...多分。
先月戻ってきた孫六達を労い報酬を与えておいた。怪我人はいるが、全員戻って来れたようだ。
それと、追放された兄(義利)だが、甲斐にいることが分かった。しかも、かなりの数の護衛(兼見張り)が付いているらしい。どうも、利用価値があるみたいで屋敷に閉じ込められて何かされてるようだ。
まぁ、暗殺するつもりだったがここまで護衛されては無駄に犠牲が出るので止めることにした。孫六は犠牲が出てもやり遂げると言ってはいたがこれ以上兄に付き合って犠牲を出す方が馬鹿らしい。
ちなみに、義姉(亀)と武王丸(義利嫡男)、華(義利長女)だが父が寺で幽閉していたが殺す前に寺の者の手引きで逃げられたらしい。
勿論俺は激怒して手引きした者達は皆殺し、直ぐに追跡させたが、時既に遅く逃げきられた。孫六達を甲斐に向かわせていたのも逃げきられた原因である。
ただ、後で楽岩寺が教えてくれたが義姉は処刑しようとしたが孫(武王丸と華)は寺に入れて僧にするつもりだったらしい。甘いが、なんとも父らしい。
後、孫六に、各地の店主(忍)を集めるよう指示を出した。販路を拡大と情報を集めるのと陽炎衆の拡大の為だ。今回のように逃がす訳にはいかないためだ。
俺はその後父上のいる葛尾城に向かった。
葛尾城
「父上、高梨のことですが...」
「もう、同盟を結んだ。高梨の娘と源吾(国清)の婚約によってな」
「ええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ~!!!!」
それを聞いて大声で目玉が飛び出るくらい驚いた。俺が悩んでいる間に父義清が既に動いていて、和議を飛ばして同盟まで結んでいたからだ。
「早いですね...。まさか、父上がそこまで早く同盟を結ぶとは思いませんでした。しかも婚姻までするなんて..。よく高梨が承諾しましたね...」
「フンッ!!ワシではない。呆れた守護が動いたからだ」
父の説明を聞いて全て納得した。逃げてきた守護の小笠原長時が動いたから今まで争っていた父と高梨がすんなり?和睦し武田の脅威が迫ったので同盟したのだと。
「父上、三月になり雪が溶けた頃に大家城と桐原城に攻め込みます。武田は敗戦続きだからそんなには出られないでしょう。その後は諏訪に向かいます」
「分かった。ワシも青柳城を攻めよう。半月もかからんだろうからな」
「分かりましたが無理をしないで下さいね。父上の軍は長引くと田植えに響きますから」
こうしてこれからの方針を決めた。しかし、これが行われることはなかった。
天文十八年(1549年)1月末
上田城
俺の元に一人の使者がやって来た。
「これは雪斎様、お久し振りに御座います。こんな雪の中わざわざ御苦労様です」
「義照様もお元気そうで何よりに御座います」
今川の黒衣の宰相、雪斎がやって来たのだった。...このまま残ってくれないかなぁ~。
「さて、今回いらっしゃったのは死に体の武田を分け合う為...と言うことでは無いようですね..」
「はい。...荘子曰く、天を以て属する者は、窮禍患害に迫られて相収...」
「荘子ですか。深い信頼関係で結ばれた者同士の場合は、苦境や困難に陥いると、返って親身になって助け合うでしたかな?」
「はい。此度武田は天に通じる和睦を望むとのこと」
「武田は先代を含めて既に三度も裏切っております。仏の顔も三度まで...信用するなど出来る訳がありません! 天の時、地の利、人の和、我らは全てにおいて武田を凌駕しております!」
「そんな事は私も分かっております。しかしながら此度はこの雪斎をご信用下され。我ら今川家としても顔を潰され、同盟の武田を見捨てることなど出来ません。どうか御理解下され....」
雪斎はそう言うと頭を下げた。下げてはいるがこちらの方が追い込まれている。
今回和睦がダメなら今川家がやって来るぞと言うからだ。
今、今川がやって来たら滅亡は確定だった。
「・・・申し訳ありません、家臣達と話したいので少し別室で御待ち下さい...。炬燵もあるのでゆっくりとされるといいでしょう」
俺はそう言って雪斎を別室に案内させた。
「はぁー受けるしかないよな~」
俺は思いっきり溜め息を付くと工藤兄弟と幸隆も賛同した。
「今川家はその気になれば二万を越える軍を出せます。そうなった場合我らに手立てはありません」
「この城の築城もまだ途中に御座います。完成すれば籠城して戦えるでしょうが...」
幸隆と昌祐はどうあっても無理だと言った。
「はぁ、仕方ない。葛尾城の西にある青柳城だけ貰って後は無条件の停戦とするか。そうすれば今川家の顔を潰さずに済むだろう」
俺はそう言って三人から同意を得たので、雪斎を呼んで話をした。
雪斎もそれならばと同意してくれたのだった。
停戦は、青柳城を引き渡した上で、それ以外には無条件の三年間と言う内容であった。
「さて、雪斎様。今川家は関係なく一個人から見て武田をどう見てますか?」
「一個人としてですか...。やはり、私には立場がありますので直接は言えませんが。そうですね。あえて例えるなら...夢に溺れた蜀、ですかな。全く、ここまで当てにならないとは御館様(義元)も寿桂尼様も思っていなかったようです.....。あれ程言ったのに...。ブツブツ...」
雪斎はそう愚痴を言い溜め息を吐くと帰って行った。
蜀と言ったのは恐らく、北伐を続けた蜀と同じと言うことだろう。
雪斎はとうの昔に武田を見限っているが、義元の命だから仕方なく来たのかもしれない。
後で今回の和睦を父に伝えたら今川が出るなら已む無しと理解してくれた。しかし、三年後に向けて準備を進めることで話を進めるのだった。
天文十八年(1549年)二月末
甲斐 躑躅ヶ崎館
「御館様、遅くなり申し訳ありませんでした」
板垣は全員の前で頭を下げた。
やっと将軍家から使者を連れてこれたのだった。
「なに、あれから雪のため村上の侵攻が無く今川が停戦の仲裁をしたのが幸いじゃった。しかし...」
晴信は信繁の方を見た。信繁は村上鉄砲隊によって肩と足を撃ち抜かれていた。
「兄上、私のことは気にしないで下さい。命があるだけ儲けもんですから」
実際、信繁の周りにいた兵は悉く討死していた。信繁は周りの兵士が壁となっていた為、運良く生き残ったのだ。
「信繁、そなたは休め。早く傷を直して復帰してくれたらよい...。さて、板垣、将軍家はどのような条件を出してきたか?」
この後、将軍家からの条件を聞いて晴信は了承し、将軍家の使者と面会した。
天文十八年(1549年)三月
雪も溶けてきたので青柳城の受け取りの用意を始めていたが、将軍家から使者がやって来た。
しかも、父のいる葛尾城ではなく、俺のいる上田城にだ。
使者が言うには武田からこちら(上田城)が本拠地と聞いてやって来たそうだ。
上田城は俺の本拠地ではあるが、村上家の本拠地ではない。使者に伝え葛尾城に案内した。
そこで、父義清や光氏等の重臣達、守護の小笠原長時らと将軍家からの命を聞いたが腸が煮えくり返りそうだった。
単純な和睦の命令だが、領地は現状維持で武田が奪った領地は武田の物とすると言ったものだった。
なので、小笠原の領地や義利兄上が裏切って制圧した青柳城等は武田の物となり、武田は信濃の半分近くを制圧したことになったのだ。
勿論、今川の仲裁で決めた青柳城の返還は無くなった。
ある意味、武田は今川の顔に泥を塗ったかもしれない。
武田に与していないのは高梨、仁科、村上、木曽だけとなり、孤立している木曽も時間の問題だった。
最早滅ぶのも時間の問題の幕府の命など聞く気もなく、ふざけたことをほざく使者を切り殺そうかと思ったが出来なかった。
なんと、父や守護の小笠原は怒りに震えながらも従うと言ったのだ。それは他の重臣も同じだった。
使者が帰った後、父達に怒鳴り撤回を求めたが、どうすることも出来なかった。
俺は腐った幕府の威光は未だに残っていることを思い知らされるのだった。
天文十八年(1549年)三月
上田城
以前呼び集めるよう指示していた各地の店主(忍)が集まった。
「皆、よく集まってくれた。これからのことについて話をしたいので集まって貰った」
俺はそう言った後、各地の情報を聞いた。その中に今回の和睦についてもあった。
武田は大量の甲州金を幕府に献上して今回の和議を結ばせたそうだ。金の無い幕府にとって喉から手が出る程欲しかっただろう。しかも、戦が近いらしいし尚更だ。
ちなみに、将軍は義輝らしいが、実際に幕府を動かしているのはあの良く分からん前将軍、義晴らしい。武田との和睦を進めたのもこいつだ。
他には、越後と美濃では忍達の店が御用商人となったようだ。
「まず、始めに全員、幕府の関係者には何も売るな。粟一粒だとしても許さん」
まず始めに、今回の和議を認めた幕府への荷止めを決めた。決して許す気はなかった。
堺を担当してる岩根勘兵衛には津田にもその事を伝え、売った場合は二度と商品を送らないと伝えるよう命じた。
次に、越前、尾張、博多に拠点を作ることを命じた。全て港がある土地なので、多く捌けると思ったからだ。それと、三郎や角助から近江の六角が楽市楽座を始めたので拠点を作ってほしいと言われたので、甲賀の忍を一人召し抱え近江に拠点を作ることにした。
人選は、孫六や各首領に任せることにした。
そして、武田についてだが糞幕府のせいで和議は結んだが、手を出してはいけないとは一言も言ってないので、更に弱体化させるために嫌がらせ(調略と謀略)は続けることにした。
その後も、それぞれに指示をしていくのだった。




