37、撤退戦
天文十七年(1548年)九月中旬
義照本陣
武田軍から白旗を掲げながら二人やって来たと言うので鉄砲を急ぎ隠させ、弓隊に弓を引かせた。
二人は使者としてやって来たと言ったが交渉することは無いので俺は殺そうとした。しかし、使者が山本勘助と武田信繁と聞いて殺すのは一旦止め会うことにした。何故ならこの状況で信繁がやって来たからだ。正直、勘助だけなら即針鼠にしてやるつもりだった。
それにどんな言い訳をするか気になったからだ。勿論、家臣達も呼んでいる。
その頃信繁と勘助は陣中を移動していた。
信繁と勘助は義照の陣の中が殺気だっていることに気付いていた。どの兵も二人を殺そうと殺気だっていた。二人を案内しているのは馬場信春だ。
「勘助、知らぬ仲ではないから言うが、殿(義照)は初めお主ら二人共殺すおつもりだった。返答次第では帰れぬと思え」
「教..馬場殿、忠告忝ない」
信春の忠告を聞いて信繁と勘助はかなり厳しい交渉になると思った。勘助と信春の関係は信春が甲斐に居た時、一時勘助の面倒を見たり共に軍略や城造りを話し合った仲だった。
ある意味、孫臏と龐涓だ。
本陣に着くと二人は異様な威圧感を感じた。
「殿、使者をお連れしました...」
信春はそう言うと自分の席に戻った。
二人は内心来たことを後悔した。目の前に恐ろしい鬼神がいるように感じたからだ。
目の前には義照がいるが、牙を剥いた鬼のような面具を着けていた。
これは義照が面白半分で作った物で降三世夜叉明王を元にした物だ。しかし、激怒している義照が着けると乗り移ったかのように周りを畏怖させていた。
集まっている義照の家臣達も黙ってそこに居たが皆、内心義照が別人になったと錯覚した。
特に、幼い頃から仕えた昌祐、昌豊の工藤兄弟は心底困惑した。義照がここまで激怒していることも、異様な重圧を感じることも今まで無かったからだ。
使者として来た二人は息を呑み、口頭を述べた。
「此度、使者として参ったのは..」
「和議なら応じない...。それだけなら用は無い。死にたくなければ戻られよ」
信繁が言っている最中に俺は答えた。元々和議に応じる気は無かったからだ。
しかし、信繁は条件を言ってきた。長窪城の明け渡しと、五年の停戦で人質を差し出すという条件だった。
そんな条件呑むこともないので俺は右手上げた。すると本陣に兵士達がやって来て二人に槍を向けた。
「和議に応じることはない。そんなことを言いに来たのなら帰れ!次は無いぞ!」
俺が言うと流石に信繁は黙ったが勘助が信繁の前に出てきた。
「恐れながら申し上げます。我らと致しましては甲斐で行われている火付けをお止めいただきたく和議の話をさせて頂きました。然れど和議をされるおつもりがないのならどうすれば、火付けをお止め頂けますでしょうか?これ以上、民を苦しめたくはないので条件を教えて頂きたく伏してお願い致します」
「民を苦しめたくない?....ぬけぬけと....我らが地の民を苦しめておるのにか!!」
俺は立ち上がり側に置いていた刀を取った。
しかし、民を苦しめたくは無かったのも事実だ。しかし何をするにしても被害は民百姓になってしまうのがこの戦国の世だ。
「晴信の首、もしくは信濃から完全に撤退し人質として晴信の嫡男と奥方を差し出せ。預かっている間は戦をせぬ限りは止めよう...。他国とは言え民を苦しめたくはないからな......」
俺は勘助の首筋に刀を付けて伝えた。
それと勘助の耳元で周りに聞こえないように奥方の代わりに勘助が何故か溺愛している諏訪四郎でも良いと伝えた。
その後、信春に二人を連れていかせ、陣から追い出した。
これで勘助がどういう判断をするか楽しみだ。
本陣に戻った信繁と勘助は冷や汗でびっしょりだった。その為、本陣に戻った時晴信を含め全員が驚き何かされたのかと思った。
「兄上、申し訳ありません!義照は火付けについて認めましたが、その上で和議の条件は兄上の首か信濃から撤退し嫡男の太郎と三条の方を差し出すことだと言われました!」
信繁が怯えながら言うので、晴信は義照の元で何があったか勘助に訪ねた。
勘助はあったことを、感じたことを全て話した。義照は激怒しており、一切応じるつもりがないこと、火付けを行っているが民のことを案じていること、そして、以前甲斐で会ったときとは違い、恐ろしく感じたことを伝えた。
信繁も落ち着いて話しだした。自分達が知っている義照ではなく、その場にいるだけで恐ろしい鬼神のようであったと、決して怒らせてはいけない類いの物だといい、父信虎が赤児のように思えると語った。
晴信は二人の話を聞いてこの後の方針を話し合った。
取る道は三つ。
長窪城を捨てて撤退する、決戦に持ち込む、仲裁の使者が帰ってくるまでこのまま対陣する、このいずれかだ。
撤退した場合、村上軍がどこまで攻めてくるか分からないと言う問題があるが、決戦した場合現状だと負ける可能性が高く、取り返しがつかなくなる可能性がある。
対陣し続ければ、百姓でもある兵の不満が爆発し反乱や逃亡に繋がる可能性もあった。
長窪城に禰津元直を中心に村上から鞍替えした者達を残そうという案もあったが、直ぐに降伏し時間稼ぎにならないと思われたし、逃げ出すと考えられた。
「板垣が京から戻ってくるまで早くて二ヶ月か...」
「敵も十一月は雪で動けないので後一ヶ月持てばいいのですが...」
「しかし、一ヶ月も対陣しては刈り取りが出来ず兵達の不満が増えるどころか逃げ出す者も出てくるのは明白」
「しかも、敵は甲斐で火付けをし続けておる。被害が広がるばかりじゃ」
「今川家も動くか分かりません」
問題は出てくるが解決案が出てこなかった。
晴信は黙って考えていた。後何れくらい対陣出来るか、退いた場合、今後武田に寝返る者がいるのか、義照は甲斐や諏訪にまで攻めてくるのではないか、それどころか、兵が逃げ出しておることを知った場合攻めてくるのではないかなど、多くのことを考えたが、晴信は決断した。
「・・・今川からの使者が来るまで対陣する。甲斐でのこと決して兵達に漏らすでないぞ!!」
晴信はこのまま対陣することを選んだ。兵達にはまだ甲斐のことを知らせていなかったからだ。
しかし二日後・・・
「おい、聞いたか?おら達の田畑や家が燃やされてるって」
「おい、何だよその話!詳しく教えてくれよ」
「何でも、今相手をしている村上の忍が甲斐の至る所で火を着けて回ってるそうだ」
「その噂ならおらも聞いた!年貢納めた蔵も焼かれて、更に年貢を要求されたって!」
「おいそれ本当か!」
武田軍の兵は農民も多かった。その為この話は直ぐに広まった。
中には軍を抜け出して甲斐に戻る者も出てきたのだった。
この噂を広めたのは真田忍軍の忍だ。
噂が広がり武田本陣では重い空気が流れていた。
「村上にしてやられた...。これ以上は兵達の不満が爆発する。...全軍撤退する。殿は、小幡虎盛、横田高松、禰津元直と寝返った国衆とする。撤退の時期は追って知らせる。何時でもいいよう準備をしておけ」
「「ははぁ!」」
武田は直ぐに撤退の用意を始めた。長窪城を放棄するが敵に渡さないため火をつけることも決め準備に取りかかった。
この情報は幸隆率いる真田忍軍が直ぐに掴んだ。
真田忍軍と言っても全員で二十人程度だ。諜報に特化しており、陽炎衆のように何でも出来るのは佐助や葉月など数名ぐらいだった。
幸隆は直ぐに義照に伝えた。
「と言うことで敵は小県から撤退をすることを掴みました」
幸隆の知らせを受けたので全員を集め追撃戦をすることにした。それと、長窪城は諦めることとした。
それから数日後。
武田軍は闇夜に紛れて撤退をしていたが後方が騒がしくなった。
「「ドドドドドドドドン!!」」
大きな音が聞こえたかと思うと、伝令が急いで晴信の元へやって来た
「申し上げます!!後方の味方が敵の奇襲を受けました!」
その知らせに晴信達は驚いた。後ろには殿を残していたのにそれを越えて後ろの軍が襲撃されたからだ。
「申し上げます!後方の信繁様が負傷!落馬されましたが味方によって運ばれ避難しています!」
「何!信繁が!!」
晴信はその知らせを聞いて馬を止め、信繁の元へ行こうとしたが勘助によって道を塞がれた。
「御館様!行ってはなりません!敵は何丁もの鉄砲を持っておるようにございます!直ぐに御逃げ下さい!」
晴信と勘助は鉄砲のことを知っていた。晴信は今川家で見させてもらったためで、勘助自身は根来寺の津田監物と親交があったので詳しく聞いていたからだ。ついでに百丁程注文をしていた。
晴信は直ぐにその場を離れた。勘助はその場に留まり撤退の指揮を続けた。
その頃武田軍後方は同士討ちまで始まっていた。
暗闇の中襲撃され、誰が敵で誰が味方か分からなかったからだ。
村上軍は一度切り込んだ後は弓と鉄砲だけで敵を混乱させていく。
と言うのも強襲したのは昌祐の騎馬衆と鉄砲隊、清種の弓衆の合わせて千五百人だけだ。
晴信がいつ撤退するか分からなかったので機動力のある騎馬衆に鉄砲隊と弓衆を乗せて連れて行かせ強襲することにした。地の利はこちらにあるので先行している武田軍に追い付くことが出来たのだった。
それ以外の軍は武田の殿部隊を相手にしていた。
「裏切り者は生け捕り二貫!武田武将三貫!、禰津元直、首だけ一貫、生け捕りは百貫!禰津を探せ!!」
「禰津を捕まえろ!」
「百貫だ!決して逃がすな!」
殿の小幡虎盛、横田高松は異様な光景を目にしていた。
始めはただ、突撃して追いかけて来ていた村上軍が禰津元直の旗印を見つけたらそちらに向かいだし、自分達の所には余り敵が来なくなったのだった。
殿軍は千五百人程度なので必死に抑えねばならないことに変わりはないが多少楽になっていた。
「禰津が居たことが幸いだったな。あんなに恨みを買っているとは..」
小幡は直ぐに横田に伝令を出して禰津を残して撤退しようとした。
奇しくも、横田も同じ事を考えていたので伝令を出していたのだった。
その頃、禰津元直は何もかも捨てて山中を必死に逃げていた。
(何でワシだけがこんな目に遭わんといけんのじゃ!)
初めはただ、殿として村上軍を相手にしていただけだが、突如「元直がいたぞ!捕まえろ!百貫だ!」と大声が響いたと思えば村上軍が殺到してきたので軍を見捨てて一人逃げたのだった。
元直が見捨てた軍は押し寄せる村上軍によって一瞬で全滅させられた。同じように裏切った国衆も多くおり、殆どの者が討ち取られたが、中には運悪く捕縛される者もあった。
「探せ!」
「まだ近くにいるはずだ!」
「絶対に逃すな~!!」
周囲では禰津元直を探す兵達で溢れ返っていた。
「はぁ...、こりゃ本隊の追撃は無理だな」
「殿が兵士達を煽ったのが悪いのです。まぁ、禰津を生け捕りにしたいのは分かりますが...」
本陣の俺が愚痴ると昌豊に苦言を言われた。確かに俺が原因だ。
俺が追撃前に、兵士達に賞金をちらつかせたからだ。裏切った国衆は生け捕りしたかったので賞金を付けて捕まえようとした。特に禰津元直は今回の件の主犯だったので首だけだと一貫だが生きて捕まえれば百貫とした。
ちなみに百貫は今の価値でいうと1500万だ。
常備兵達の給料がだいたい一貫五百文でおよそ20万なので、どれだけの大金か分かるだろう。
正直、高く付けすぎた。
半刻後には、生きている敵は一人もおらず禰津元直はボコボコにされ縄で縛られて俺の前に連れてこられるのだった。
勿論、賞金は渡したが数人で捕まえたようなので山分けだった。
その後、昌祐達と合流し諏訪と小県の国境まで行った後帰城することにした。
正直このまま諏訪を攻めようとしたが、流石に兵達も疲弊していたので皆と相談して帰ることにするのだった。