28、志賀城へ
天文十六年(1547年)四月
上野、箕輪城
俺は幸隆を通じて、箕輪城主長野業正に密かに会いに来た。幸隆と孫六の二人を連れてだ。
目的は志賀城の戦いで共に出陣して欲しいからだ。
史実では河越城の戦いで大敗したが関東管領の勢力は未だ健在で、この志賀城の戦いで再度大敗したことにより力を失ったような物だった。この戦いに業正は反対しておりその為大将も別の者だった。
なので今回は業正直々に出陣してもらいたいので会いに来たのだった。
「御初に御目にかかります。上田城城主、村上義照にございます。此度は長野様にお願いがあり、まかりこしてございます」
「用件は真田殿から聞いている。私に出陣して欲しいとな。確かに志賀城の笠原殿からも管領様に援軍の要請が来ておるが、私は反対している」
挨拶したら直ぐに反対された。それもそうだ。河越城の戦いで大敗したのだ。もしかしたら、留守を狙って北条が攻めてくるかもしれないし、万が一負けてしまっては上杉家は衰退どころか滅んでしまう可能性があるからだ。
「分かっております。今回武田は志賀城を攻めるのに今川に援軍を請うております。我らは志賀城の援軍に出ます。今回出陣し勝利すれば管領様の軍も士気が上がり、北条の調略に対抗出来るでしょう」
「されど、もし負けた場合はその逆であろう。それに前回の戦で失ったものも多い。そなたはいくら兵を出せと言うのだ?」
「六千程にございます。我らは七千の軍で出陣しますので、長野様が大将として出陣されれば負けることはありません」
業正は少し考えこの話に乗ることにしたのだった。
「分かった。ただし、其方らが先に出陣することが条件だ。出陣すれば私が大将として出れるよう管領様に進言しよう」
やったと思い、お礼を述べて箕輪城を後にした。
「幸隆、お前のお陰でこの戦勝てるぞ」
俺は帰りに幸隆に言うと少し困った顔をしていた。心中は複雑だろう。
城に戻った後、俺は千が二人目を身ごもったと知らせを受けて、仰天するのだった。
天文十六年(1547年)六月
父義清から高梨との戦に向かうから武田のことは任せたと連絡が来た。
・・・留守居役は義利兄上だそうだ。
俺は上州から戻った後、兄上が武田と繋がっていることを父に伝えたが一笑に付された。流石にそんなことは無いと言ったのだった。
・・・多分、息子でもある兄を信じたかったのかもしれない。
ただ、家督については戦が終わった後、少し考え直すと言っていた。
俺は警告だけはしておいたので、もう悩んでいたことを実行することにした。
もし兄上が父上を追放したら、独立することも考えていたのだった。最悪、武田の手出しできない同盟相手に逃げ込むことも視野には入れている。
俺は昌祐、昌豊、幸隆、孫六の四人だけにはその胸の内を伝えた。やはり、困惑していたが最後には皆賛成してくれた。
俺達は準備を進めていたが、遂に武田が動き出したと陽炎衆から連絡が来るのだった。
天文十六年(1547年)七月
上田城
「皆集まったな。孫六、報告してくれ」
武田が動き出したことを掴んだので俺は全員を集めた。
重臣
真田幸隆、鵜飼孫六、工藤昌祐、須田満国
家臣
工藤昌豊、出浦清種、保科正俊、矢沢頼綱、須田満親、そして馬場信春だ。
始め信春を入れることに反対されたが、既に家臣だし孫六も武田の手の者が来ていないことを伝えてくれたので今回は呼び出した。
「はい。武田は見せしめとして志賀城を攻めるようにございます。また、今川から援軍が来ることが確実となりました」
兵力は武田軍一万と今川軍五千だそうだ。武田は今回の戦で、関東管領と俺達を倒して完全に佐久郡を手に入れその勢いで俺達の城を攻めてくるつもりのようだった。
今川への報酬は大量の甲州金だそうだ。金山があるって羨ましい.... 。それと、今川が援軍を認めたのは意外だった。
こちらの援軍の兵力は
常備兵五千人
地侍達二千人
反武田勢力(望月や大井、諏訪残党) 約五百人以上
計七千五百人だ。
予定では笠原清繁の志賀城に約千人、関東管領軍が六千はいる予定だ。
正直、兵の数は少し少ないので心許ないが戦専門の常備兵がいるので質では勝っている。
「侵攻の時期ですが九月になるようにございます」
かなりの数を動員しているからそうなるだろう。それに今川との連携もあるだろう。
「頼綱、孫六は城に残りもしもの時に備えよ。幸隆は済まぬが俺の軍師として一緒に来てくれ。城はお主が任せられる者に任せてくれ」
「「はっ!」」
「かしこまりました」
「それと...皆に言っておくことがある。義利兄上が謀反を起こすかもしれん。もし、本家から援軍として軍が来ても決して門を開けるな。父上は高梨攻めをしている以上援軍など送ってくることはない。それと、もしも兄上が父上を追放するなら俺は独立するつもりだ」
俺の発表に初耳の者達は驚いた。満国など顔色を変えていた。
「お、お待ち下さい!義清様は謀反の可能性をご存じなのですか?」
やはり、父のことが気になったようだ。勿論伝えているが一笑に付されたと伝えた。そりゃ、葛尾城を守っているのは兄上だから気が気じゃないだろう。
俺としてはそんなことして欲しくないながらも出陣の用意を始めさせた。ただし、兄の側に忍は入れている。
前の襲撃だが、親武田派の家臣が兄に黙って独断で行ったようだ。勿論黒幕は武田だ。
だが、詳しく知る前に消されてしまったので、そこまでだった。
天文十六年(1547年)八月末
武田、今川連合一万五千が出陣したと知らせが入ったので俺達も直ぐに出陣の触れを出した。
それと同時に長野業正へ使いを出し出陣することを伝えた。
予定よりも早かったが準備はしていたので問題無かった。
天文十六年(1547年)九月
俺達は武田より先に志賀城に着いた。
城主笠原清繁に会った後具体的なことの話をした。まず、武田とは野戦で決戦をすることとし、関東管領の軍が来るまでは籠城し待つことにした。既に出陣していると知らせが志賀城には来ていたのだ。
数日後、武田の先鋒が来たので軽く追い払っておいた。数は千人もいなかった。ただ、大井貞清が指揮をしていたので使い捨ての物見だろう。
それからさらに数日後に武田、今川の本隊が現れた。その数は報告通り一万五千と大軍だった。ついでに、今川軍の大将はあの雪斎だった...。正直、別の者が率いると思っていたので恨み言の一つも言いたくなった。
俺達は志賀城から少し南の平野に陣を敷いていた。今、城に入ってしまえば簡単に囲まれ時間稼ぎも出来ないからだ。
俺は念のため陣の前に簡単な柵と堀を作っておいたが敵は直ぐには攻めてこなかった。やはり警戒してくれたのだろう。
翌日、武田から使者が二人やって来た。内容は降伏し軍門に下れば命だけは助けるだった。
なので丁重にお断りをし、一人は首だけになって貰った。
ちなみに首を落としたのは笠原だ。決して俺ではない。
それから三日程何も無かったが、上杉の援軍が来ないので小田井原まで陣を下げるかの話し合いになった。
そんな時、孫六から遂に緊急の使者が来てしまった。
村上義利謀反、義清の生死不明との知らせだった。




