26、戻って来る者
天文十五年(1546年)二月
上田城本丸屋敷
本当に公家二人(近衛稙家、九条稙通)がやって来て、武丸を溺愛している。
特に稙通の溺愛ぶりは半端ない。初孫らしいので仕方ないかもしれないが...何かモヤモヤする。
後、稙家は息子を連れて来ていた。俺の義弟になる近衛前久だ。まだ十歳なのに、もう連れ回されているのだから、ある意味すごいと思う。まだ幼いので、饅頭と蜂蜜で餌付けしておいた。きっと将来役に立ってくれるだろう。
数日後には近衛稙家は献上品と共に帰っていったが、九条稙通はここに居座るようなので二の丸に九条屋敷を作る羽目になった。
初めは本丸にと思ったが止めた。本丸の地を広くして櫓門や塀などは大手門より固くして作ったが天守などは作らなかった。一応小天守くらいなら作れる広さはある。
本丸は俺の館、兵糧倉、武器庫、万が一二ノ丸が落ちた際の避難所と結構色々ある。
武器庫、兵糧倉は、二の丸、小泉曲輪にも作っており、守りは万全だ。と、言っても武田相手ではまだ不安だ。
まぁ、悩み事が増えたが何とかなると思いたい....。
甲斐の国
その頃甲斐に戻った教来石景政は辛い日々を過ごしている。
間者として失敗し何も知らない者からは冷たい目で見られ、以前は武川衆を束ねていたが今では別の者が率いているので、自分の居場所が失くなっていたのだった。
晴信は失敗したことについては、何も責任を求めることはなかったが、擁護することもなかった。晴信自身、無事に戻ってきたので村上の間者ではと怪しんだのだ。それは他の家臣団も同じだった。
景政の報告を受けて、義照の考えが尚分からなくなったからだ。普通、間者を生かして返すなどあり得ぬので死間として戻されたのではとも思っていた。なので、暫くの間家族を人質として預かっていたが一切動くことがなかったので帰して炙り出そうとしていた。それは他の家臣にも伝えていた。
その為、景政は周りから警戒され孤立していったのだ。
(戻ってこれたが何もかも失ってしまった...)
景政は一人部屋に籠もってしまっていた。
戻ってきた頃は義照の所で学んだ訓練や長槍を実践しようとしていたが、長槍はともかく、訓練に関しては無駄だと仲間に全否定され、一人続けていたが、周りから、ひそひそと村上の間者じゃないかなど疑いの目で見られていたため精神的に病んでしまったのだ。
(まだ、間者として村上の領地で暮らしていた頃の方が良かった....。ワシは何のために戻って来たのだ...)
景政はそのまま自問自答していた。二ヶ月後、景政一家は甲斐から姿を消していた。しかし、誰も心配する者はおらず、気にしなかったのだった。
監視からそれを聞いた晴信と勘助はやはり村上の策略なのではと暫く警戒するのだった。
天文十五年(1546年)四月末
関東管領上杉と北条の戦、河越城の戦い(河越夜戦)があり、史実通り北条が大勝したようだ。
そんな中、縄に繋がれた者達が俺の前に現れた。
孫六は始末しようとしたが、俺に会いたいと懇願したので仕方なく連れてきたのだった。
俺の隣にいる昌祐と昌豊は驚きつつも、警戒した。俺の目の前には男一人、女一人、子供一人、赤子一人だった。周りを陽炎衆によって囲まれ、男と子供は縄に繋がれ、女は赤子を抱いていた。
「戻ってきたら命は無いと言っておいたよな?景政...」
俺は繋がれた男に言った。去年の七月まで間者として俺の元にいた教来石景政とその家族のようだ。
「恥を忍んでお願いします!どうか、私を、また御家来衆の端に置いて下さい!! 」
「貴様!恥を知れ!!」
「景政殿、見損ないましたぞ!前回殿が情けをお与えになった際、戻ることを決めたのは貴方ではないか!!」
昌祐は激怒し、昌豊も蔑んだ目で景政を見ていた。
景政はただ、伏して頭を下げるだけで何も言わなかった。俺が言うのを待っているのだろう。
「はぁ~...。景政、お主が甲斐に戻ってからのことは孫六から聞いている。誰からも相手をされず蔑んだ目で見られ居場所を失い、最近は部屋に籠もっていたそうだな。だが、それはお主が決めた結果ではないのか?流石に虫が良すぎるのではないか?」
俺が言うと景政は頭を下げて謝って来た。余程甲斐では聞いていた以上に酷い目に遭っていたのだろう。
(一応孫六からの報告では武田との繋がりは無いようだけどどうするか...。逃がすのも勿体無いがタダで許したら他の家臣が納得する訳ないからな~)
悩んだ末、一つ試してみることにした。
「昌豊、景政の相手をしてやれ」
「殿?」
「景政、昌豊に勝てば、再び召し抱えよう。ただし!負けたら全員打ち首だ。孫六、景政を解放して木刀を貸してやれ。昌豊、殺す気でやれ」
俺は木刀を持ってこさせ景政を解放し昌豊と対決させた。もしもの時は孫六が始末することになった。
試合は景政の怒濤の攻めから始まった。負けたら家族全員の死があるから必死だ。昌豊も負けずと捌き反撃していく。元々互角だったと昌佑に聞いていたのでやらせたが本当に凄まじかった。
正直、昌豊が勝つと思っていたので負けた後、情けで召し抱えようと思っていたが予想を覆していた。
「...昌豊が負けたか...。約束通り召し抱えよう。ただし、妻子は人質とし、二ノ丸に住まわせろ。それと、今の名を捨てろ」
「名をですか?」
景政が聞いてきたので武田家に仕えていた、教来石景政の名を捨てろと言った。新しい名前として、馬場信春と命じた。昌祐から聞いていたが、信虎に殺された甲斐馬場氏の前の名籍は教来石で景政と同族だったそうだ。
それを理由に今回馬場信春とした。
まぁ、正直に言えば馬場信春の方が馴染みがあるからだ。
景政は伏して受け取り名を改めた。
また、昌豊と、正俊の預けている常備兵を二百五十人づつ取り五百人を信春に預けることにした。
馬場一家を屋敷に案内させた後、孫六に監視を指示しておいた。武田が密使を遣わしたら全員捕らえ尋問するように指示をした。そして、次裏切れば容赦をするなと...。
天文十五年(1546年)六月
武田はついに佐久郡の内山城を総攻めで落とした。大井貞清は捕らえられ、武田家臣となったようだ。
これで佐久郡で武田に抵抗するのは志賀城の笠原清繁だけとなった。
志賀城には佐久郡の反武田の者達が集まってきているそうだ。
しかし、武田は志賀城には向かわず撤退していた。体勢を立て直すのだろう。
志賀城の戦いが終われば次は間違いなく俺達だ。
父義清も今まで遊んでいた訳ではない。
仁科と婚姻同盟し、馬鹿兄(義勝)が仁科に婿養子に入り、高梨勢と戦を繰り広げて、少しずつだが領地を延ばしている。
馬鹿兄の婚姻についてだが義利兄上が中心となって動いたらしい。その裏で、武田と連絡を取り合っているのを陽炎衆が確認している。
屋代正重を含む数名が馬鹿兄についていった。正重の胃が保つか心配になってきた。馬鹿兄の家臣は武闘派揃いで内政は正重と息子が一手に引き受けているからだ。
今、村上本家(父上達)の総兵力は約一万三千五百、うち、父義清直属がおよそ三千人、義利兄上直属(馬廻り)がおよそ千人で後は地侍や重臣達だ。ただ、兄は少しづつだが兵を増やしているそうだ。
で、兄上が調略しているのは地侍が多いようだ。重臣で味方をしているのは、兄の傅役の清野信秀、石川長昌の二人だそうだ。
正直、兄(義利)がいつ動くか分からなかった。それと、あの兄が本当に謀反を起こすなんてない、と信じたくなかった。
周りが噂するように義姉(妻)に骨抜きにされたんだと思った。
確かに夫婦の仲が誰もが見ても円満で近寄り辛いことは百姓の子供まで知ってるくらいだ。
余りにも度が過ぎると思うくらいだ。
(俺の所に調略は来ていない。恐らく、以前の問答でのことがあるからだろう。しかし、もし来たらどうすべきか...)
俺は悩んだ末、どうするか決断するのだった。




