19、婚儀に向けて
天文十二年(1543年)四月
父上に呼び出され葛尾城に来ている。
なぜ呼ばれたかと言うと近衛稙家から九月に輿入れすると連絡が来たからだ。その為の準備を始めろと言われた。
それと、その養女が九条家の娘と言うのを知らなかったようで何を考えているのかと少し怒られた。俺が公家に近すぎるので、馬鹿兄の嫁を考えないといけなくなったからだ。
今未婚なのは馬鹿兄(義勝)、俺(義照)、弟の義邦の三人だ。
義利兄上は武田と繋がり、俺は公家。しかも五摂家の二家と繋がりを持つことになるので、必然的に馬鹿兄の嫁を探すのに悩むことになるからだ。
父から怒られた後、義利兄上の元に向かった。
兄上の所に行くと兄上の子と亀御料人が居た。
「兄上、お久し振りです。義姉上(亀御料人)もお元気そうで何よりです」
「義照か。よく来たな!父上の方は済んだのか?」
兄に父に呼ばれた理由と怒られたことを伝えたら笑われた。
「まぁ、義勝の嫁探しは何とかするから大丈夫だ。しかし、お前も妻を娶るか……。義照、子供はいいぞ!」
俺達は笑いながら話したが兄が変わったなと思った。元々兄弟には凄く優しく、面倒をよく見てくれていた。しかも、結構細かいところにも気付いたりしていた。それに、民や家臣からの評判もよかった。
しかし最近は次期当主としての仕事はするが、部屋にこもり、子供や亀御料人の相手ばかりで領地に出ないそうだ。
その為、周りからの評価は落ちており、一部から、亀御料人の尻に敷かれている、若(義利)が家督を継いだら武田に臣従するのでは?等の悪評も囁かれるようになり、徐々にその影響も出始めてきている。
幼い義邦を除いた兄弟三人の周りからの評価は以下の通りだ。
義利
婚姻し子供が生まれるまで、周りからの評価は高く、後を継げば更に領地を広げ信濃を統一出来るかもしれない!と思われていたが、今では、領地にも顔を出さなくなり、奥方(亀御料人)と戯れてばかりで継いだ後、武田に臣従しないか心配。
義勝
武勇は兄弟の中で一番。武闘派の家臣からはかなり信頼されている。ただし、内政は全く駄目で補助する人間が絶対必要。今は傅役の正重がいるが将来が不安。
百人程だが、常備兵がおり村上家内では精鋭と言われている。ただし、この兵達は義勝と同じような者達ばかりが集まっているので暴走しやすい。
義照
内政に関しては右に出る者はいない。どんな土地も義照に任せれば問題なく、民からは仏の義照と呼ばれるくらい慕われ崇められている。
ただし、剣術や槍術に関しては残念すぎるほど素質が無いが、剣聖塚原卜伝に「良き師を付ければ強くなる」と言われているらしいので、微かな期待は持たれている。
常備兵だけで見れば最大勢力でその軍の実力は高く評価されている。
ただ、他国から家臣を集めていることはよく思われていない。(工藤兄弟や真田幸隆、鵜飼孫六のこと)
って感じだ。
俺自身実績もあるが陰で批判があるのも知ってる。特に他国の者を家臣にすることは結構譜代家臣と問題が起きるが俺の場合、傅役が亡くなった後家臣が一人も居なかったのでそういうことは無かった。
しかし、父の譜代家臣からは冷たい目で見られることはあったのだった。
特に、工藤兄弟を召し抱えた時は酷かった。二人に対して嫌がらせも多く、二人にはじっと耐えて貰っていた。
今では、海野平での戦ぶりからそう言うのは無くなったが本当に辛い目に遭わせてしまっていた。
「兄上、たまには領地を見回ってください。最近全く見ないと百姓達が心配してましたよ」
俺はやんわり伝えるが兄は分かったとしか言わず、多分駄目だと思った。
その後、俺は松尾城に寄って築城中の上田城に戻るのであった。
天文十二年(1543年)八月
武田は南小県郡へ出陣し大井貞隆の長窪城を六千の兵で囲んだようだ。望月城の望月家もそれに与したそうだ。長くは持たないだろう。
俺は相変わらず領地の発展と訓練をしている。
訓練と言っても剣聖塚原卜伝に習った素振りと、孫六と本気で組手(体術)をしているくらいだ。
孫六との組手は実戦形式で何でもありだった。初めて孫六と相手をした時は勝てたが、何度か相手をしたら中々勝てなくなり、今では勝敗が付かなくなっている。
恐ろしいのは俺は教えてないのに孫六は見ただけで俺の動きを真似て八極拳を使ってくることがあるので油断なんて出来なかった。
孫六の配下の忍十人を相手にする十人組手や三十人組手までしている。三十人でも出来たり出来なかったりなのでそれ以上は無理だった。
それでも、どんどん人数を増やして訓練している。目標は百人組手を完遂することだ。
兵士達の訓練も順調のようだ。昌祐の騎馬隊は二つに分け、弓騎馬と槍騎馬としている。主に弓騎馬隊で混乱、動揺させ、その後槍騎馬隊で突撃することを考えている。
槍隊は三つに分け、昌豊に三百人、俺の直属三百人、景政二百人としている。
弓隊はそのまま清種に任せっきりだ。ただ、面で射るだけではなく、指揮官を狙い打ちにする為の訓練を命じている。その為に飛んでいる野鳥を的にした訓練をさせることもある。
最近の悩みは教来石の扱いだ。既に槍兵二百人を与えているがこれ以上兵士を与えるのは裏切った時が恐ろしいし、武田に内政をわざわざ教えるのもなんか嫌だったのでこれからどうしようか迷っている。
孫六は、始末するか聞いてきたがまだ裏切ってないのでそれは止めた。ただ、監視は続けている。
天文十二年(1543年)九月
京から関白近衛稙家、九条稙通ら一行がやって来た。婚儀の日取りまで時間があったのでゆっくり過ごして貰った。勿論俺の領地だ。
………俺は正直今回の婚儀を甘く見ていた。派手だが内輪で終わると思っていたがとんでもないことになったのだ。
朝廷の呼び出しで他国を回ったのと関白(稙家)が来たせいか話を聞いた他国からも名代として多くの人がやってきたのだ。
まず、朝廷からは先の通り関白、近衛稙家様に九条稙通様。ここはまぁ、義父になるから分かる。
次に信濃守護、小笠原長時様の名代で弟の小笠原信定様。
ここも信濃守護の長時は俺の伯父(母の兄)になるので分かる。
美濃斎藤家から斎藤道三の名代で西美濃三人衆の稲葉一鉄と安藤守就。
道三のことだから偵察だろう。後また引き抜きかもしれない。
武田家から武田晴信の名代で武田信繁と板垣信方。
………兄嫁が武田だし、今は!! まだ同盟しているから来たのだろう……。
正直言えば来ない方が助かった。
そして、駿河今川家からあの黒衣の宰相、太原雪斎が来ていた。
(なぜだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!)
恐らく、小笠原と朝廷以外は偵察が目的だろう。正直、無事に終わるか心配になってきたのだった。
ちなみに義利兄上の時は武田家だけだった。ただし、当主信虎本人が来ていた。
(というか、何故、美濃や駿河から来るんだよ!! 嫌がらせか!何の恨みがあるんだ!!)
俺は心の中で絶叫するのだった。