169 日ノ本連合
元亀十一年(一五八十年)一月
大雪の為、上田城城下では兵士も町民も総動員で雪かきを行っていた。
そんな中、上田城の一室で義照は頭で湯が沸きそうなくらい真っ赤になっていた。毛利領にいる原昌胤と鵜飼照貞から送られた連名の書状を読んだためだ。
「この大雪の中、よく届けてくれた。この者に風呂と温かい食事を用意してやれ!」
義照の言葉で書状を持ってきた男は近習に連れられ部屋を後にした。
部屋に残るは義照の近習の真田信尹と当主輝忠、そしてその家臣達だった。
「国清め……勝手なことをしてくれたな!」
「しかしこれでは父上が兵を率いて行くしかないのでは?私(輝忠)は相模に向かいますし、照親と清勝は既に和泉に入っておりますし…」
村上家では国清達村上水軍を送った後、他の軍の予定を決めており既に動いている。
当主村上輝忠は雪解け後の三月に佐竹、武田両臣従国を含め二万を率いて、北条氏直の援軍に向かい、義照三男の村上照親、弟の村上清勝及び、大和の松永、伊賀の百地、和泉・河内の足利義尊(旧幕臣達)、雑賀衆、合わせて二万で紀伊の畠山及び足利義昭の討伐へ向うことになっていた。
その為、毛利へ援軍を送るにしても国境の防衛を除き掻き集めても五千程しかいなかった。勿論伊勢(仁科)を除いての数だ。
「行くしかあるまい。……輝忠、直ぐに兵を集め雪中行軍の準備をさせよ」
「父上、私(輝忠)の軍と和泉にいる照親の軍から一部兵を回し数を集めます。……利治、利三、吉晴、元正、四人は手勢を率いて父上について行け」
「「「はっ!」」」
「信尹、ワシの手勢を集めさせ、昌幸にも参加させよ」
「畏まりました」
それぞれ指示を受け直ぐに取り掛かった。準備は五日程掛かり、さらに大雪のため出立するまで三日程遅くなるのだった。
元亀十一年(一五八十年)二月中旬
河内 飯盛山城
「まさか、こんなことになるとは……」
「足利義昭様の最期がこれとは…」
飯盛山城に集まっている者達の前に首桶が三つ並べられていた。
一つは畠山秋高、もう一つは安見宗房、そして最後の一つが足利義昭である。
三人は畠山政尚と遊佐信教が自身の保身の為に殺し、差し出された。
「紀伊征伐は予定を変える。目標は畠山政尚と遊佐信教とその配下とし、他の畠山家臣達には降伏すれば一族と身の安全を保証する事とする。…義父上(義照)、宜しいですか?」
足利義尊の問いに皆の視線が義照に集まる。
「義尊、紀伊に関してはお主の一存としておる。好きにせよ。だが、高野山の対処は間違えるでないぞ」
足利義尊は大政奉還後、信濃に戻るつもりだったが、統治者の自由にしてよいとした河内、和泉、摂津に領地を持つ幕臣達が義尊に従うと集まってしまった為、間接的に三ヶ国約四十万石を纏める大名となってしまっていた。
「はい。では予定通り三月に侵攻を始めます。直政、忠興と共に手筈を整えてくれ」
「畏まりました」
義尊は側近の井伊直政と近習の細川忠興に命じる。
井伊直政こと虎松は直虎の命で上田城城下に住んでいたが、その時に当時の輝若丸(義尊)と出会い、共に学び競いながら育ち側近となった。ちなみに剣術は義尊の全戦全勝、将棋や囲碁は始めこそ直政が惨敗していたが今では全勝しているらしい。どちらも根っからの負けず嫌いだ。
細川忠興は父藤孝によって人質として義尊に差し出されていたが、天下一気が短い忠興は直ぐに気性が激しい直政と騒動(喧嘩)を起こしてしまう。
二人(直政、忠興)揃って義尊に叩きのめされたが、それでも忠興は義尊に食らいついたので義尊に気に入られ近習に抜擢されたのだった。ちなみに、父親の藤孝は騒動を聞いた当時顔面蒼白となり、まるで別人のようだったそうだ。
側近は他にも大和の柳生厳勝や故人の本多正信の息子、本多正純等もいる。家臣になると、伊東一刀斎、吉岡直綱、林崎甚助や馬鹿兄(義勝)から引き抜いた諸岡一羽、鐘捲自斎等恐ろしい面々が揃っている。仕官してきたり義尊自身が集めたりしたと聞いて絶句を通り過ぎた。
こう言った面々のお陰で義尊の兵は数は少ないが、雑兵に至るまで剣術の腕前は日々恐ろしいことになっている。
「では、後は任せたぞ」
義照はそう言うと伊勢から来た仁科盛勝達と合流し安芸に向かって出立した。
そして
元亀十一年(一五八十年)三月
安芸広島城には毛利軍四万、朝倉・浅井連合軍六万、村上軍二万五千、その他三万、総勢十五万五千もの兵が集まっていた。
浅井がいるのは義景自ら出て来て長政を引き連れて来たからだ。
広島城大広間には各大名や家臣が勢揃いし、上座の三人を見る。
上座の中央に毛利家当主、毛利隆元、その左に朝倉家当主、朝倉義景、右側に村上家前当主、村上義照。
「これ程の武士が集まるのは亡き義輝公の弔い合戦以来であろうな」
「隆元殿、此度の日ノ本連合の総大将として皆に一言……」
「うむ。まずは、これ程多くの者が集まってくれたことに感謝する。我等は国は違えど日ノ本の敵である南蛮を打ち払う為に集った言わば守護者である!!我等で日ノ本を守ろうぞ!」
おおおおおおおおぉぉぉぉぉぉー!!
隆元の檄で広間の家臣達から鬨の声が上がる。
集まっているのは、三大国の大名の他に近江の浅井長政、四国の一条兼定、河野通直、三好存保(史実の十河存保)、そして保護されていた大友義統だ。
他に、一条家に逃げていた公家の二条昭実、一条内基等勅勘を食らった者達も来た。なんでも、日ノ本の危機に立ち上がらなくて何が公家かと変に語っていた。まぁ、戦えなくても何かしらの手柄を立てて京に戻りたいのだろう。京は彼等がいた頃よりきらびやかで、残っている公家達も以前よりは裕福になっているからだ。
折角来てくれたので兼照の件の当事者達は全員仲良く魚の餌にしてやった。
流石に当時子供で親に連れられていた者達は温かく迎え入れた。いい例が二条晴良の次男昭実だ。晴良は既に故人である。
昭実や許された公家達は目の前で餌にされる当事者達から恨怒や怨嗟の声に晒された。まぁ、ワシ(義照)には関係ない。毛利や朝倉からは引かれていたが……。
後、今回の原因である大友義統は来て早々謝罪もせず、領地を取り戻したいと馬鹿げたことを言ったので、三国(毛利、村上、朝倉)の満場一致で戦が終わった後に腹を切らせることにした。だが、本人にはまだ伝えていない。
ここで逃げられて南蛮に付いても面倒だからだ。
三好家に関しては既に当事者達は生きてはいないので知らないことした。ただ、親泰達は三好勢を目だけで殺さんとばかりに殺気だっている。これは滅ぼされた側だから仕方がない。まぁ、万が一戦の最中三好勢が巻き込まれてもシラを切ろう。
「この連合軍の総参謀を任されました小早川隆景と申します。僭越ながらこれからについて説明させて頂きます」
参謀の小早川隆景が家臣に地図を持たせ説明を始めた。
今回の連合軍は総大将を毛利隆元、副大将を朝倉義景とし義照は水軍総大将とし全ての水軍の指揮権を押し付けら……貰った。
総参謀が小早川隆景、その下に村上家から原昌胤と真田昌幸、朝倉家から、朝倉景垙と山崎吉健が付いている。吉健は山崎吉家の嫡男だ。とうとうあの御仁(吉家)も隠居したそうだ。まぁ、七十近い歳だし。
これからと言ってもやることは簡単だ。
まず水軍で南蛮船の注意を引き付け、関船と小早で上陸をし、豊後に侵攻する。
地上戦はほぼ互角だったらしいのでこれだけの兵力があれば優勢に進められるだろう。目的としては敵を海まで押し出し挟撃する算段だ。
要はワシに絶対に水軍で勝てと言うことになる。更に言うなら肥前の南蛮船の対策をしろと無茶振りまで付いてくる。
こちらの水軍戦力は
戦列艦三隻
ガレオン船二隻
鉄甲船三隻
安宅船七隻
関船、小早六百三十隻
と四国勢も加わって数は多いが圧倒的に火力が弱い。
更に肥前の南蛮船十隻に対抗するために、戦列艦一隻、ガレオン船一隻、安宅船三隻は回さないといけないので、実際砲撃戦は戦列艦二隻、鉄甲船三隻、ガレオン船一隻くらいで、後は壁くらいにしかならない安宅船と敵船に乗り込む為の関船と小早でしかない。
(やるなら夜戦だな。だが、奴らが纏まってるか?湾は別府と臼杵か………後は南蛮船がどっちかによるな………情報が足らな過ぎる………)
隆景が説明している間、義照はどうやって海戦に勝つか思案を続けるのだった。