142 同盟の行く末
元亀七年(1576年)8月末
野田城
数日前に岐阜城が遂に落城したと知らせを聞いた俺は美濃野田城に来ている。
信長は生きており、正俊が確保し監禁している。
確保する際、朝倉軍と一戦交えたがこちらが領内に撤退すると朝倉も軍を国境から少し離れた所まで退いた。
恐らく此方に手を出さないと言う意味で龍興が下がらせたのだろう。保科が保護した者達は負傷者がかなりいる。兵士に関しては大なり小なり全員が負傷していた。それよりも、織田が連れてきた人質や家臣の家族の死者や負傷者が多すぎる。鎧など着けてはいないからだ。
負傷者の中で俺が知ってる名前もあった。利家の妻まつや秀吉の妻ねねである。後、秀吉の母なかもいた。
なぜ居たのが分かっているかと言うと、秀吉が大声で「おっかぁぁぁ~ねねぇぇぇ~」と人目を憚らず泣いており、二人が生きていたことを喜んでいたからだ。
ちなみに秀吉の弟秀長は清洲城勤めの為無事である。
死んだ人物では佐々成政の妻(村井貞勝の娘)、森可成の嫡男など多くの者が死んだ。
信長と言うか織田家への信頼は無いだろう。まぁ、多くの者が岐阜城下に移り住んでいたから仕方がないだろう。
普通に考えればあの城(岐阜城)が力攻めで落ちるなんて想像もしていなかっただろう。
俺(義照)も考えた頃はそうだった。生きている間に大砲で攻められるようなことはないとどっかで思っていたのだろう。
まぁ、上田城は三の丸より内側は大砲に関しての対策は一応している。
「さて、これからどうするか……」
「保護した者達は監視の下治療を続けております」
「信長や正室の帰蝶、側室等は大人しくしております。織田兵に関しては一部が騒いでおりますが既に制圧済みです」
「大殿、此度の独断で織田勢の保護、申し訳ありませんでした!」
俺が悩んでいると正俊が前にでて頭を下げてきた。
元々、攻めてこなければ不干渉としていたからだろう。
「正俊、頭を上げろ。信長と兵だけなら咎めただろうが、女子供も居れば仕方ない。よく判断してくれた」
俺が言うと他の重臣からもよくやったと称賛されていた。
「さて、問題はこれからだ。朝倉の動きはどうか?」
「はっ、美濃にいる軍は美濃織田領を制圧後岐阜城の修復を行っております」
「また、織田側の黒田城の方からも距離を取り睨み合いを続けております」
義照が訪ねると、孫六や日根野が答えてくれる。
美濃から尾張に攻めると思っていたが意外にも動かないようだ。
「近江の方ですが、松永久秀が離反し幕府軍と朝倉、浅井連合が激突し幕府軍が敗走、京は応仁の大乱以来の激戦となっております」
義昭は朝倉と決戦をしたが、経験豊富な朝倉、浅井兵に手も足も出なかった。
しかも、一部が命令を無視して勝手に動いたのも原因だ。
負けた義昭は京で三好等四国勢と合流し二条城を中心に反撃している。
京にいる兼照や前久、帝などは九条館に入ったらしい。
兼照が陽炎衆第三軍影鬼(護衛部隊)に総動員の命を出し頭の佐治が全軍千人を集め、他にも前久が孫一達雑賀衆を五百人ほど雇っている。
前久と兼照から援軍をと来ていたので、三河の水軍を使い追加で千人程送ったが間に合っただろうか……
「しかし長尾家の話が本当ならば軍を動かす訳には参りますまい」
「いや、それよりも駿河の方だ。事と次第によっては関東同盟が終わるぞ!」
(ホント、俺って呪われてるよな~はぁ~)
この1ヶ月、周辺国では騒ぎばかりだ。
まず、長尾家だが景虎が死んだと噂されている。と言うのもこの二ヶ月景虎は人前に出てきていないのだ。
長尾家は幕府からの要請に対して反対意見しかなく、景虎も出陣しようとはしなかった。その代わり、毘沙門堂に籠もる回数が増えていた。
正直、毎度の如くただ毘沙門堂に籠もってるだけと思ったが、毘沙門屋の酒の出荷量が激減しているので、もしかしたらと言う可能性がある。
酒の消費量で生存しているかどうか分かるのは世界広しと言えど軍神(景虎)だけだろう。いつも注文が樽単位だけに…。
そして駿河では穴山、小山田が武田に反旗を翻し独立した。
詳しいことは調査中だが裏で北条が糸を引いている可能性が高い。
来年の春には夕と氏直の婚儀が決まっているのに………。
穴山、小山田の反乱に武田は討伐の準備をしている。
ちなみに、うち(村上家)にいる穴山信君の弟、信嘉は俺が呼び出すよりも先にやって来て、本家(穴山)の反乱は何も知らないと必死に頭を下げていた。
今のところ真面目に仕事をしているからそのままにしている。
まぁ~奉行衆筆頭補佐と出世はしているから裏切る可能性は低いだろう。
「正俊、弘就、御主らはこのまま朝倉軍の動きに警戒しつつ国境を守れ」
「畏まりました」
「大殿、信長は如何しますか?」
正俊が信長の処遇を聞いてきた。輝忠も口には出さないが気になるようだ。
「美濃を失ったのだ。光秀に言った通り信長は殺すつもりだ」
「父上ー!」「だが、今ワシが殺しては不利益の方が大き過ぎる。それに奈美が危うくなる。今はそのまま監禁しておけ」
信長は殺したいが同盟相手なので一気に孤立してしまう。特に周囲が不安定な今はだ。それに殺さないことでの利点も一応ある。
(信長一行をここに監禁しておけば、龍興達からしたら保護したと見て当分尾張攻めはせぬだろう。それまでに尾張を制圧し奈美を取り戻さねばな…まぁ、信長親子が居るから1ヶ月もあれば…)
「父上、朝倉が尾張に攻め込んだ時は如何されるのですか?」
「犬山城を越え尾張に侵攻し清洲城にいる奈美に危害が加えられそうなら朝倉を潰す。黒田城で止まるならそのままだ」
「・・・わかりました」
輝忠がそう言うとこの話は終わった。
だがその後、義照が信濃に戻ると残っていた輝忠が信長を解放し信長と信忠一行を美濃から尾張に落ち延びさせた。
これを聞いた義照は今後の予定を全部ぶち壊されたと激怒し廃嫡も考えるとしたが、工藤兄弟を始め重臣達が義照を宥め輝忠は長期の謹慎処分を命じられるのだった。
そして、尾張の乗っ取りと娘の奪還は困難を極めることになるのだった。
元亀七年(1576年)9月末
上田城
龍興と密約の期間が終わって数日が経った。
美濃守護として美濃を攻める予定だったのだが、越後の件が確定した為動けなかった。
国清からの知らせで長尾景虎の死亡が確実となったのだ。
越後に関しての交渉は国清と昌祐に任せていたがほとんど国清がやっていた。
そして今回、義父である高梨政頼を通じて景虎の死が伝えられたのだ。
家督については景勝が景虎の養子となっておりそのまま継ぐと思っていたが、家中が割れた。
景勝の他にもう一人養子がいたのだ。
名を畠山義春、能登畠山家の次男だ。
正直養子になっていることは知らなかった。と言うのも、義春は上条政繁の養子として入っていたからだ。
ホント、いつの間にだよ。
そして今回、景勝が当主になることを嫌った者達が義春を担ぎ出した。糞大馬鹿将軍義昭の御内書付きで……。
景勝が当主になることを嫌った者達の中心は加賀、越中の家臣の他に、揚北衆も意外に多かった。
その理由として景勝の実の父政景が原因である。
元々政景は景虎と敵対しており降伏してから一門として扱われたが他の家臣からは軽蔑され嫌われていた。
そして、景虎が景勝を養子にする際猛反発したが無理矢理進められたことも原因だろう。
このままでは政景に好き勝手されると思われたのだった。
その事は直江景綱達重臣も思っており、婿の直江信綱や柿崎晴家は景勝に付いたが景綱と柿崎景家は中立を宣言した。
他にも、景虎の側近だった、吉江資賢、揚北衆の本庄繁長、新発田長敦も中立を宣言した。
その為、景勝の味方は史実よりも少なかった。
「では、今回の内乱に関わらないと?」
「景虎との盟約がある以上手は出せん。それに今援軍を送れば、中立と言っている者達が敵になるかもしれん。何か方法はないか…」
(はぁ、斎藤朝信と河田長親が景勝に付いたのは良かったが…景勝も可哀想に…。政景が居なければもう少しまともだったかもな)
政景が生きていることで悪いことばかりだが、良いこともある。
史実の川中島の戦いで先陣を勤めるとされる政景直下の上田衆が健在であることだ。
史実でも政景の死後あるにはあったが、上田五十騎を除いて殆ど名前が出ていない。俺(義照)も正直知らない。
ちなみに上田衆は勇猛果敢で馬鹿兄(義勝)が満面の笑みを浮かべて「全力で殺り会いたい!! 」と褒め言葉を言う程だ。
「では、中立の者達に景勝に付くよう裏で工作をされては?」
「いや、それでは却って敵になるかもしれん」
「ここは景勝殿の手腕に任せるしか…」
家臣達から色々な案が出るがこれといったものはない。
「国清。高梨殿と直江殿の元に行って、村上家は景虎との盟約通り、家督争いには一切、手は出さないとな。だが、娘の安全は保証するよう伝えてくれ」
「分かりました。伝えてきます」
評定は終わり皆出て行こうとする。
そんな中、近従の依田信蕃が慌ててやって来る。
「失礼致します。大殿、武田より使者が参りました!!」
信蕃の言葉に出ていこうとした者達の動きが止まった。
「・・・はぁ~。使者は誰が来た?」
「はっ!武田信繁、武田信貞の二名にございます!」
「はぁ…また面倒事になりそうだな……」
義照は溜め息を付きながらも武田との面会をするのだった。