131 強すぎる大将
元亀四年(1572年)2月
(あのご老人(元就)もついに逝かれ、九州は更に泥沼と化したか...)
報告書を読み終え俺(義照)は一人考える。
最早、歴史は大きく変わり先は見えず、元の知識は完全に当てにならなくなった。
特に西側はあまり手を付けなかったのだが、隆元が俺の所(甲斐)で学んだ医者(曲直瀬道三の弟子)のお陰で生きており、尼子の遺児を教えたせいで尼子の反乱も無くなっていた。そのせいで九州は毛利、大友、龍造寺で泥沼化していた。そして今回、龍造寺が大友を裏切り大友軍を虐殺したことで泥沼が更に酷くなった。
(しかし、今まで死守していた筑前を小倉を除き龍造寺に明け渡すとは毛利も思いきったことをする。それに大友も油断ならんな。まさか龍造寺を押し返すとは思わなかった。しかし島津の状況が分からんな。追加で忍を送るか)
大友は軍を分け勢いのある龍造寺を筑後で撃退したのだ。ただ、追撃する力は無かったようだ。
「まぁ、あまり関係ないから今は手を出さん方がいいな」
俺はそう呟き、一時の平穏を謳歌していく。側室として輝忠に嫁いだ彦姫が息子長寿丸を産み母子共に健康で伊達にも伝えたら大喜びしていた。しかも伊達晴宗がやって来たいとまで言う始末だ。
だが、伊達は近い内に戦をしそうなので来ることはないだろう。
元亀四年(1572年)6月
上田城
「分かった。援軍を送ろう。奥州探題殿にそう伝えられよ」
「ははぁ!!」
伊達からの使者が広間から出ていったのを確認して溜め息を付く。
「はぁー。また戦か...」
今度の戦は最上、相馬攻めだ。
伊達から援軍のお返しは約束してきたが戦に行くのが面倒だった。佐竹は義重自ら出陣するらしい。最上に対してぶちギレており自ら殺すと明言している。
「殿、陣立ては如何なさいますか?」
(さて、誰を送ろうか...相手は相馬と最上か... )
俺は広間の家臣達を見渡し悩んだ。
今後俺達にとって大きな問題が一つある。
主要な家臣達の高齢化だ。
重臣で一番高齢なのが馬場信春、一番若いのが鵜飼源八こと二代目孫六と出浦昌相だ。
ただ、二人とも代替わりしたばかりで新参だ。その次に若いのが長野業盛と真田幸綱だ。
「・・しかし、業盛や幸綱、代替わりした所(鵜飼、出浦)を除けば皆歳を取ったな...」
つい口に出てしまった。すると、周りからは「確かに」と言ったり懐かしそうに昔を思い出していた。
「大殿(義照)に仕えて早四十年。あの頃の大殿はよく城を抜け出され御隠居様(義清)に昌豊と三人、御叱りを受けてましたな。誠、時は経つものですな」
「止めろ昌祐。その話をするな!恥ずかしいわ!!」
「おぉ!大殿が慌てておる!」
「流石の大殿も若い頃の話には弱いようだ!!」
ハハハハハハハハハ
俺が慌てると最古参の家臣達は笑いだした。まぁ、昔から付き合っているだけあって仲はいいし冗談も言える。逆に若手や国持ちになってから家臣になった者達は困り果てている。
「はぁー全く。お前らも昔と変わらんな。さて、陣立てだが軍を二つに分け、それぞれ大将を命じる」
俺が言うと古参の家臣達は笑うのを止め即座に姿勢を正す。
「まず、第一軍、数は一万。大将を輝忠、副将を真田幸綱、鵜飼孫六(二代目)、軍師に島左近、原昌胤とする。また目付として昌豊、任せるぞ」
「「ははぁ!!」」「御意!」
俺が言うと名前を呼ばれた者が返事をする。今回は完全に若手に任せ、もしもの時の為に昌豊を目付とした。
「次に第二軍、数は三千。大将は...」
俺は指名しようとしたが言葉が出なかった。と言うのもここで指名するより自主的に名乗りを上げさせた方がやる気もあり任せられるのではとふと思ったからだ。
所詮勝っても負けても俺達に影響は殆ど無いし。
「・・・止めた。重臣でなくてもよい。この中で大将をやりたいと言う者は名乗りを上げろ」
「え?」「大殿!!」
突然の俺の発表に集まった者達は騒然となる。
「勿論、三千もの兵を任せるのだ。大将としての責任は重いぞ。誰か居るか?」
俺が言うと重臣達は口をつぐみ、家臣達もリスクとリターンを考えてか尻込みする。重臣(古参)達は第一軍の陣容を聞いて手伝い戦なので若手に任せるのだと思った故に口をつぐんだのだ。
「誰も居らぬか...では」「恐れながら申し上げます!」
元々業盛を大将にするつもりだったので発表しようとすると一人の若者が声を上げ、全員の視線が集まった。
「恐れながら、その任、私にやらせて下さい!」
「・・・諏訪か...」
正直複雑な気分だった。俺の前に出て来て頭を下げたのは諏訪勝頼だったからだ。
「勝頼。確か戦に出たのはこの前の三河征伐で二回だったな。だが三河では戦が無く終わったが、戦を知らぬお主に出来るのか?先に言っておくが責任は重いぞ...」
「...覚悟の上です。何卒お願い申し上げます!!」
義照が手で打ち首だと脅すと勝頼はたじろぎ怯えたが、覚悟を決め真っ直ぐ義照を見てから宣言した。
「・・輝忠、お前の軍から勝頼と諏訪勢を抜いても問題ないか?」
「ありません。父上、何卒勝頼の願いをお聞き下さい」
そう言うと輝忠も頭を下げる。
「…はぁ、分かった。勝頼を大将とし、業盛(長野)と正俊(保科)を副将、軍師として昌幸が付け。また目付は馬場(信春)、任せる」
「ありがたき幸せ!!」
「畏まりました!」
「それと、保科が美濃から離れるのでその間の守りを景持(甘粕)、其方に任せるぞ」
「ははぁ!!」
(さて、強すぎる大将(勝頼)の実力はどうかな....)
俺は全員に指示をした後、今回若手がどんな戦をしてくるか結果を楽しみに待つのだった。
元亀四年(1572年)8月
美濃岐阜城
「三七、しっかり学んでくるのだぞ」
「三七、義照に迷惑をかけるな。直ぐに首を落とされるぞ」
「はい。父上(信長)、兄上(信忠)行って参ります! 」
信長の三男、三七こと織田信孝は人質として守役と小姓一人と信濃に向かおうとしていた。勿論、護衛は付いている
秀吉と光秀から引き継いだ森可成と丹羽長秀が交渉した結果、信忠への輿入れを来年にする変わりに先に人質を差し出すことで合意した為だった。
義照は可愛い娘を出したくなかったことから四女の奈美が十四になってからとしたが、織田は直ぐにでもと譲らず、最終的に義照側が折れたのだった。
信孝達は護衛を含め百人程が岐阜城を出立する。村上領に残るのは信孝を含め三人のみである。
「それで、光秀!村上の領地までどれくらいかかるんだ?」
信孝は護衛として付けられた光秀に訪ねる。光秀が選ばれたのは単に義龍に付いて回っていた為、義照との関係が長いからである。
「信孝様。村上の関城までですので、五里(約20㎞)もございません。一刻半もあれば余裕にございます」
光秀達は関所で一旦止められたが、その後は順調に進み関城に到着した。
関城の城主は元斎藤家重臣、日根野弘就だった。
「光秀が来るとはな...」
「日根野殿、お久しぶりで御座る。此度は..」
「分かってる。大殿(義照)から指示は受けている。こちらの御仁が信濃まで連れて行かれる」
日根野はそう言うと一人の老人を紹介する。
二人は義龍がいた頃は互いに重用され弘就と光秀の仲は悪くはなかったが、龍興の時、明智城を焼き落としたのは日根野だった。光秀も仕方ないと理解していたが心情はやはり許せるものではなかった。
「明智殿、お久しぶりでございますな。最後にお会いしたのは、我が木曽谷城ででしたな」
「木曽谷・・・あ!木曽様で御座いましたか!これは大変失礼致した!」
光秀は誰だっけ?と悩んだが、思い出して直ぐに伏して詫びる。
紹介されたのは木曽義康だった。
義康は既に隠居していたが、義照に頼まれ人質の引き取りの為にわざわざやって来たのだ。
「ハハハ、そう気になさるな。ワシも日根野殿が言わねば分からなかったからな。それでそちらの若者が織田家からの人質か?」
「織田三七郎信孝にございます。この度は宜しくお願い申し上げます」
信孝は礼儀正しく挨拶をし、光秀達と別れ義康と共に信濃に向かう。
その後、上田城に着き、義照と面会した後は城下の学校(足利学校を元に作った物)の宿舎で他の子供等と共に生活することなった。
部屋は四人一部屋で信孝も例外なくこれに宛られた。だが、元徳川や今川家臣の子等もおり、信孝にとって酷く辛い人質生活が始まるのだった。だが、後にここでの生活が信孝の生涯に大きな益をもたらすことになるであった。