121 あせり
元亀二年(1570年)2月
京では、帝が三人の公家を呼んで話をしていた。
「では、兼照、実澄、村上義照に伝えよ...」
「畏まりました。必ず、帝のお心をお伝え致します」
実澄は伏して言う。隣では九条兼照も同じように頭を下げた。
「関白、幕府と浅井に対しては任せる」
「はっ、必ず承諾させます」
関白近衛前久も伏して頭を下げた。
帝の前から退席した三人は帝の願いを叶えるために、人手を集めた。
集まったのは、
近衛前久、九条兼照、三条西実澄、 飛鳥井雅綱、飛鳥井雅春、三条実信、三条公頼だ。
三条実信は三条公頼の孫で、武田信玄の次男。史実の海野信親だ。
公頼は75歳だが息子が居らず、初めは娘が嫁いだ細川家から養子を取ろうとしたが晴元が朝敵となったことで断念し、本願寺顕如の方はまだ子供が居なかったので、仕方なく武田に嫁いだ三条夫人の子を養子にした。盲目だが仕方がないと割りきるしかなかった。その際、後ろ楯としてお願いした相手が近衛家と三条西家だった。
「さて、集まって貰ったのは他でもない。帝より願いを受け、実現するために集まって貰った」
「関白様、それは一体どういう内容なのでしょうか?」
前久の言葉に飛鳥井が尋ねた。前久、兼照、実澄が顔を見合わせた後、内容を説明して集められた四人は驚きが隠せなかった。
「なんと、帝がそのようなことを申されたのか..」
「いや、我等とて下向していた。前の帝もその思いを吐露されたことがあった。帝がおっしゃられてもおかしくはない」
「ですが、我等と帝では状況が違い過ぎます」
「だが、やるとしたら今しか出来まい。その為に皆に集まって貰ったのだ。三条殿は駿河の武田家に、飛鳥井殿は尾張の織田と相模の北条家に、ワシ(実澄)と兼照は信濃村上家に向かう。関白には幕府と浅井の説得をして貰うことになっておる。特に幕府は暴れるであろう...」
集まった公家達と詳しい内容を話し合い、準備をしてそれぞれの目的地に向かうのであった。
元亀二年(1570年)三月
(あー、何故!こうなるのだ!!!)
摂津晴門は苛立ちを隠せられなかった。
と言うのも、各地の大名等から将軍に使者が貢ぎ物を持って来たが、きまって晴門が帝の娘を将軍に嫁がせようとしたことを質問してきて、その対応に追われたからだ。
また、周辺国までこの話は広まり、晴門だけではなく、管領朝倉義景が裏で手を回して、実は将軍の命でなど様々な噂までも流れていた。その為、晴門は箝口令を出したがそれが却って実際にやったと言う根拠にされ、晴門や幕府に対して不信を招いた。
そして、あの男が使者を送った。
「此度のこと、政所執事摂津晴門が独断で起こしたものであれば、即刻首を刎ねるべし。帝に対し上様や幕府の身の潔白を証明するにはそれしか無し。もし、上様の御下知でのことなら、副将軍の職を返上し帝のため!幕府との戦もやむ無しと心得る!!以上が我が主、長尾景虎様のお言葉に御座います。御返答は如何に?」
使者として来た斎藤朝信は物凄い剣幕で義昭に尋ねた。
この場には将軍義昭、管領義景、そして当の本人である摂津晴門だけだった。
「斎藤と申したか!上様に対して無礼であろう!!」
「管領様、本来であれば上様の側に居られる貴方様が正すべき行いを、我が主が行ったまでに御座います!!まさかと思いますが噂通り、管領様も此度の一件に絡んでおいでなのでしょうか?」
「そ、そんな事はない!」
越後の鍾馗と言われる朝信の剣幕に義景は慌てて否定して口を閉ざすしかなかった。
「分かった。摂津を政所執事より罷免し幕府より追放する。だが、今まで幕府に尽くしてくれたことも事実故、命までは取れん。副将軍にそう伝えよ」
義昭は口を開いてそう言った。他の大名等からも批判が多く寄せられ、将軍擁立の立役者で常勝不敗の長尾家を敵に回したくなかった為、受け入れた。
ただ、今まで尽くしてきたこともあったので助命した。
「畏まりました。御館様に必ず伝えます。それと二百貫持参しました故お納め下さい」
朝信はそう言って将軍御所を出るのだった。
(直江殿の申す通り将軍は傀儡か...)
朝信は直江景綱から幕府の様子と将軍が朝倉や摂津の傀儡になっていないか確認するよう密命を言われていた。
そして、その予想は当たっていたのだ。
(御館様に報告せねば...)
朝信は急ぎ越後に戻っていくのだった。
元亀二年(1570年)四月
上田城
(・・・マジかよ、この情勢でか...)
俺は息子九条兼照と三条西実澄と会っていた。
内容は、帝と誠仁親王様もしくはどちらかが戦が起こっていない関東を巡行されたいと言うものだった。
「我が領地だけなら用意は出来ますが・・・関東となれば北条家が承諾しなければ不可能かと...それに幕府が何を言うてくるか...」
正直、状況が悪かった。
幕府の摂津晴門が政所執事を罷免、追放され朝倉の越前に逃げ込んだ。次の政所執事は仮で三淵藤秀らしい。だが、摂津はだいぶ金銭や領地の横領や賄賂を貰っていたらしく大騒動だ。
俺としてはわざわざ、越後の毘沙門天が摂津と管領を斬れるようにしてやったのに聴聞だけで終わったので不満だらけだ。まぁ、摂津には苦しんで死んで貰うことにしている。既に命は下しているのでそう長くは生きられないだろう。
そして、関東の方だが戦は確かに無かったが、陰ではかなり不穏な動きが多かったのだ。
まず、今年の始めに北条氏康が倒れ、現在療養している。陽炎衆の情報だと中風になっているそうだ。中風とは今で言う脳卒中の後遺症だ。
駿河守護武田義信だが父の信玄との仲が悪く北条に何度も使者を送り、氏政と何か企んでいるようだ。もしかしたら、信玄と同じ事をするつもりなのだろう・・・義信事件が起こる前触れかもしれない。
そして、俺達に関係あるのが、宇都宮が戦の準備を始めていることだ。
今は見て見ぬふりをしているが、恐らく裏切った皆川や壬生を攻める準備ではないかと考え、両家には戦の備えだけはやらせている状態だ。
「北条には既に飛鳥井、武田には三条が行っておる。それに、亡き先代帝も見てみたいと申しておられた。なんとか帝の思いを遂げさせてくれぬか?」
「父上、私からもお願いします。甲斐は泥被れがあるので難しいでしょうが美濃、信濃から上野なら大丈夫ではないでしょうか?」
「こっちとしても受けたいが、かなり危うい情勢だからな...それに、幕府と朝倉が何を言うか...」
「それは心配しなくて良いですよ。叔父上(前久)が既に手を打ってます」
??
俺は一体何をしたと思ったがまぁ、気にしないことにした。
それが分かるのは二ヵ月後だった。
元亀二年(1570年)六月
京
「皆!良く作り上げてくれた!」
「「上様、おめでとう御座います!」」
義昭は大喜びで築城した二条城に入っていた。
城には幕臣達の他に大名や国衆、石山本願寺や興福寺等の寺社勢力も招かれていた。特に本願寺の顕如は三千貫も義昭に献上し、築城の為に門徒が多く参加していた事もあったので厚待遇で招かれた。
大名で来ていたのは、朝倉義景、浅井長政、織田信長、一色義道、畠山高政の五人。後は丹波等の国衆達だった。畠山高政は紀伊の、一色義道は丹後の守護大名だ。
北畠や毛利等、他の大名にも送ったが来ることは無かった。
「これで、京は安泰。いよいよ、四国の三好討伐で御座いますか?」
「・・・そうしたいのだが、朝廷から苦情が多くてな。そちらの対応が先じゃ。はぁ...」
一色の問いに義昭はため息を付ながら答えた。三好討伐はしたいが、朝廷から摂津のしたこと、幕府が朝廷を蔑ろにしている等、多くの苦情が義昭に突きつけられたのだ。
義昭としても朝廷と争う気は無く、渋々従うのだった。
(・・・村上や長尾が居ないか...。さて、どうするか...)
参加していた信長は集まった者達の中に長尾家や関東の諸将が居ないことに気付き、幕府との関係に亀裂があるのではと思案した。特に織田家は領地が村上と接している為、道を間違えれば危ういと言うこともあったからだ。
「義兄上(信長)、如何されましたか?」
「うん?、あぁ、長政か。いや、長尾家や村上家も来て居らぬからどうしたものかと思ってな」
信長のその言葉に長政は顔を歪めた後、信長に耳打ちした。
「実は上様(義昭)が呼ばぬと言われたので声を掛けていないのです。どうも、摂津殿のことで揉めたそうで...。村上殿は朝廷と関係が深く幕府と上様を軽んじていると思われているようで...それに、義兄上(信長)の元にも朝廷から使者が来たと思いますがあの事もあり三淵殿が悩んでおいでです」
「そうか。では、お主の所にも来たか?」
「はい。関白近衛様直々いらっしゃり、まだ非公式ですが右近衛少将の位を授かりました。道中、帝と親王様の護衛の任を命じられ、その時に右近衛中将を与えると言われました」
「何!!!それはまことか!!」
信長は驚きのあまり大声で叫んでしまい、周りから注目を集めた。
信長と長政は、周りに居た者に申し訳ないと謝った。
義昭にどうしたかと聞かれ、長政が子が出来たことを伝えたら信長が驚いたと伝え、義昭を始め周りの者からも祝いを言われるのだった。
(なんてことだ...長政が右近衛中将だと!ワシはまだ弾正少弼だと言うのに..)
信長は内心かなり焦った。と言うのも周辺の大名との官位の差が広がったからだ。
一番官位が高い大名は村上義照で従三位 右近衛大将で頭1つ飛び抜けている。
将軍足利義昭は先月昇叙し従三位権大納言、副将軍長尾景虎は従四位下 弾正大弼、管領朝倉義景は従四位下左衛門督。
そして今回、浅井長政が従四位下右近衛中将を与えられると弾正少弼の信長は一人取り残されてしまう。
ちなみに伊勢国主北畠具教は公家でもあるため、正三位 権中納言である。
(このままではまずい。何か手を打たねば....)
翌日、信長は予定を早め急ぎ尾張に戻るのだった。
今回の浅井長政への異例とも言える昇叙の原因は朝倉義景と摂津晴門のせいであることを、帝と朝廷の一部の人間等を除いて誰も知らないのであった。
数日後、浅井長政に正式に右近衛少将が与えられた。更に、内々だが巡行がほぼ決まった為、中止にならない限り右近衛中将を与えられることが伝えられ、浅井家は大いに喜んだ。
話を聞いた同盟国の朝倉義景と織田信長も祝いの使者を送ったが、三家の間に不穏な亀裂が出来たことはこの時、知る者は居なかったのである。