115 一時の平安
永禄十一年(1568年)3月
上田城
福が四男になる飛車丸を産み、桔梗が次女、雪を産んだ。
福の方は難産だったが、今は母子共に無事だった。ホント無事で良かった。
他にも京から帰る際、帝にお願いした伊勢神宮の勧請の勅許と伊勢神宮からも了承を得られた。
伊勢神宮の方は難航すると思っていたが献金したのと兄弟子(北畠具教)が密かに動いてくれたらしくすんなりいったのだ。
御礼しとこ。
さて、昨年糞忙しい時に伊達から来た使者だが、内容が輝忠に側室として伊達からの姫をと言うことだった。
あの頃はどうすることも出来なかったので、保留にして来年落ちついたら来てくれと言って帰って貰った。
そして今回やって来て返答を聞いてきた。
輝忠に側室をと言うのは前から昌豊や幸隆に言われていたが、良い相手も居ないので本人(輝忠)次第としていた。
実際正室の桔梗とは仲睦まじく、斎藤家が滅んだ後、「桔梗は正室として価値が無いので離縁した方がいいのでは?」と家臣が話していたのを耳にして、輝忠がその家臣を半殺しにしてしまう程だった。全く、誰に似たのやら..。
そして今回、伊達からの話を受け入れることにした。
細かい、時期や決め事は輝忠の傅役の昌豊に一任するのだった。
それと、相手の名前は彦姫と言うらしい。正直知らない。
永禄十一年(1568年)9月
上田城
京から兼照の婚儀が無事に終わったと知らせも来て、伊達との婚姻も来年六月と決まり、今のところ戦が起こらなかったので平穏な一年になるのではと期待していたが、戦の報告が入り夢は崩壊した。
「はぁ~。信長が伊勢を攻めただと?」
「はい。織田に寝返った木造城城主、木造具政(具教の弟)を前当主、北畠具教が攻め、その救援と言う名目で軍を出したようにございます」
(はぁ、美濃も近江も京も得てないのにあの兄弟子を攻めるなんて...。あれ?信長って一体どれくらいの兵を持ってんだ?)
「織田軍の数は如何程か?」
「はっ、二万五千程とのことです。また、北畠は多くて一万六千弱とのこと」
俺は報告を聞いて二つのことを思った。
一つ目はもし雨が続いて鉄砲が使えなかったら信長が負けるかもな~。
二つ目は負けたら援軍寄越せって言ってくるかな?と...。
北畠家は包囲され和睦せざるを得なくて、織田家に乗っ取られた為、弱いと思われているがそんなことはない。
和睦を進めたのは信長だと言われており、七万もの軍勢を率いていたが北畠軍に押されていたと言う話も残っている程、北畠軍は精強だったのだ。特に兄弟子(具教)の直属は凄まじい。
俺は伊勢で御世話になっていたのでその兵達と手合わせしたが、一人一人がかなりの手練れだった。
まぁ、兄弟子自ら鍛えていたので強くて当たり前・・・と言うか弱かったら「殿(具教)に殺される、助けて」、と兵達が嘆いたので命の危機に瀕していたから強くなったのだろう・・・多分。
「まぁ、続報を待つとするか」
俺は報告を受けた後下がらせた。
俺は一向衆門徒を受け入れたが、良いことと悪いことが起こった為、その対応に追われていたからだ。
良いこととは、この門徒達だが、きちんとこちらの指示を聞き新しく開墾し村を作っている。また、元々居た民達との仲も予想していたよりは良く、互いに協力したりもしている。
それに、超重労働の金山採掘に自ら進んで参加してくれるので効率が上がり、採掘量が増えてきている。元々、労働環境を出来るだけ他より良くしたり死んだ時の保証金として見舞金があるので、一文無しでやって来た門徒達にとって救いの場所になったのかもしれない。
逆に悪いことは、密入国や野盗が増えたことだ。特に美濃と三河は深刻だ。
一向衆門徒が俺の領地に来たが、門徒達が朝倉、長尾両国の領地と比べて住みやすいことや、噂通りの極楽浄土だと話し、さらに差別等が全く無く、誰でも受け入れていると尾ひれが付いて噂が広まった為、土地を捨てて来る者が後を絶たなくなったのだ。
だが、うちでは戸籍を作らせて管理しているので、勝手に村で暮らすことなど出来る訳もなく、野盗に身を落とす者が相次いだのだ。その中には長島に行った一向衆門徒等もいたそうだ。
その為に、駐屯地を増やし常備兵を常に巡回させなければならず、問題となっていたのだ。
その為に重臣や郡代を集めて対応を協議するのだった。
その頃、織田信長は木造城を包囲していた北畠家軍と対峙していた。
天気は生憎の雨が続いており、自慢の鉄砲隊が使えず織田軍は苦しい状況に追われていた。
「この雨では鉄砲が使えぬ..。戦となれば乱戦は必至だな」
「ですが、北畠家の軍は乱戦が得意と聞いております。また、前当主北畠具教の直属は倍の数を相手にできる程の軍団と噂されております」
「殿、我らはほぼ全軍で出陣しておりますので長い対陣は不利でございます。また、尾張の美濃と三河の国境では野盗も多くなっており、村上も対応に苦慮しているようで、野盗が村上の領地で問題を起こし我らの領地に逃げ込めば引渡しか侵攻してくるかもしれません」
「いや、それよりも長島が問題であろう?彼処には数万の門徒がいるのだ。もし一揆でも起こされたりすれば手に負えぬぞ!」
信長本陣では軍儀が行われ、どうするのかで話し合った。
と言うのも、元々出陣する予定は無かったのだ。なぜなら木造具政の調略は行っていたものの不調に終わっており、長島に門徒が大量に入ったことでそちらの対応に追われていたからだ。
そんな中、具政は突如織田に寝返り助けを求めたのだ。しかも、調略されていたことを周辺に流してだ。
他にも調略の手を伸ばしていた織田にとって、もし見捨てたら信用を失い今後一切の調略が出来なくなる可能性が出てきてしまい、やむなく出陣したのだ。
実は具政も北畠家を裏切るつもりは無かったのだが、具教の耳に織田に調略され寝返っていると言う話が入り、一族でしかも弟が寝返ったと言うことを聞いて具教は激怒し、具政を城に呼び出し問い質そうとした。
具政はそんな兄の様子を聞いて、行けば殺されると思い、已む無く寝返り救援を求めたのだった。
「滝川、御主は別動隊を率いて北畠軍の背後を突け。河尻、先陣を任せる。次方は権六、其方が行け」
「「畏まりました!」」「御意!」
信長は、時間も兵も浪費したくなかったので戦を仕掛け、撃退することだけを目的とし、軍を進めたのだった。
永禄十一年(1568年)11月
上田城
俺は伊勢での戦の結果を聞いていた。
結論から言えば、痛み分けだ。だが、長い目で見たら織田の敗北かもしれない。
「しかし、良く兄弟子(具教)が了承したものだな~」
「管領代、浅井長政様が幕府の使者として軍勢を連れて行き将軍の命で和睦を纏め上げました」
伊勢の戦は北畠軍が敗走したが、死者、負傷者は織田軍が倍以上出て、半壊に近いそうだ。やはり、自慢の鉄砲が使えなったのが痛かったようだ。
織田家の負傷者の中には柴田勝家や森可成もおり、かなりの激戦だったようだ。ちなみに秀吉も負傷したらしい。
それに、今回寝返った木造具政は討ち死にしている。
信長は幕府を通して和睦を申し入れ、木造城より北は織田領だが、信長の次男である茶筅丸(後の織田信雄)を人質として差し出したのだ。
俺からしたら茶筅丸は数奇な運命を持ってるなーと思った。史実では養嗣子で北畠家に入ったが今回は人質だからだ。
兄弟子は徹底抗戦を考えていたようだが、敗北したことと、家臣から必死の嘆願で収まったようだ。
だが、今回の件で兄弟子は対織田に突き進むだろう。
しかし、今回一番の被害者は信長だ。調略が不調で終わったので諦めていたら、突如寝返り、戦に駆り出されたからだ。しかも、負傷者多数だし。
俺も調略する時は気を付けることにしよう。
それにしても幕府は上手く機能し始めたようで、何よりだった。
後は景虎と義景が離れた後も上手く回るかが心配なくらいだな。
京
義照のそんな心配を他所に京は物凄い早さで復興し、将軍義昭の名声は高まっていた。
だが、その影で幕臣同士の腹の探り合いや派閥間の緊張、領地の横領が頻発していたのだった。
本圀寺(将軍仮御所)
「京の復興ですが、予定より早く進んでおり、朝廷も民達も喜んでおります」
「また、管領様と管領代様の見廻りですが、幕府直属の軍も出来ましたので、徐々に入れ替えて見廻りをさせております」
摂津晴門や幕臣達からの報告を聞いて、義昭は満足気で頷いていた。
「上様、我等は予定通り来年3月を持ちまして幕政より離れ、越後に帰国致します」
「副将軍(景虎)よ、このまま京に残ることは出来ぬか?管領(義景)とそちが居れば京は平穏な地になる。三好も手が出せぬ」
「上様のご命令があれば、管領として某はこのまま残りましょう。ですが副将軍様の領地は越後と遠くでございます。領地が気になるのは誰もが同じ。一度帰国されることを御許しになられてはいかがでしょうか?必要とあれば直ぐに上洛を要請すれば宜しいかと...」
景虎は帰国することを告げると義昭は留まるよう頼んだ。しかし、義景は越後は遠い為、一旦帰国を認め再度上洛を促すべきとした。
義景は京の護衛とという事で、幕府からいくらかの銭を貰えているが、景虎は完全に自前で駐屯していた。その数も二千人なので、かなりの銭がかかっていたのだ。
その事で一番頭を抱えていたのが直江景綱で、質素倹約しながらなんとか滞在費用を捻出していたのだった。
万が一、来年も滞在するとなれば長尾家が破産してもおかしくなかった。
なんとか保っているのも、卯松(景勝)の婚姻の為、村上から莫大な銭が送られて来た為、何とか耐えられていた。
「そうか。管領が言うならそれもそうだな。景虎よ、余が求めれば直ぐに駆けつけてくれるか?」
「ははぁ!!」
義昭の問いに景虎は頭を下げて受け入れた。
義昭は仕方がないと、受け入れ帰国を認めるのだった。
景虎の帰国は大きく二つの反応に割れた。
これまで押さえられていた、摂津晴門や朝倉義景は幕府に深く関われると喜び、景虎が居たことで押さえられていたが、いなくなることで摂津等に幕府を牛耳られないか心配する、三淵達だ。
その為、三淵達は何とか留まって貰おうとしたが、景虎が首を縦に振ることは無かった。
そして、翌年の3月、景虎は残りの兵と共に越後に帰国するのだった。