110 宣下と論功行賞
永禄九年(1566年)5月中旬
京
内裏では将軍宣下が行われており、俺(義照)は朝廷より右近衛中将から右近衛大将に任じられ御所の護衛と京の見廻りの指揮をするよう命じられ兵を指揮していた。
ちなみに右近衛大将の前任者は久我通堅だが、何かやらかして勅勘を喰らったらしい。
兼照の件とは別件だ。
これには一部幕臣達が、「京は幕府の管轄、田舎者(義照)がでしゃばるな!」、「右近衛大将とは左近衛中将の上様(義秋)より上の位ではないか!」と猛反発してきたが、景虎が「今は幕府に独自の兵もいないので幕府が職務を全う出来るとは思えない。それに、帝からの勅を幕府は無視するのか?」と物凄い恐ろしい剣幕で幕臣達に迫ったので、幕臣達は蜘蛛の子を散らすが如く逃げ去った。
まぁ、あんなこと(皆殺し)があったから仕方が無い。
俺はどのみち兵が足りないので(大嘘)、上洛した者達から少しずつ兵を借りて京の見廻りをした。
あまり恨まれたくないからだ。
借りた兵士達に、狼藉を行えばどこの家の重臣や兵でも誰であろうと打ち首と厳命したのに、舐めていたのか堂々と破り、乱暴騒ぎを起こした。言って早々にやってくれたので打ち首は辞めて容赦なく串刺しにし、三条河原に晒した。
ちなみに、朝倉と浅井の兵である。
これに対して二家の対応は割れた。長政は兵達が指導不足でしたと謝罪してきて、二度とこのようなことを起こさない為に側近の遠藤に見廻りの兵達を指揮させた。
対して義景は兵を殺したことに怒鳴り散らした。義景は乱取りは兵達からしたら当然の権利とまで言ってきたのだ。流石に呆れたので放置しようとしたら朝倉の重臣山崎吉家が内々に謝罪してきた。
どうも義景にとって、俺が田舎者の分際で意気がっているように見えているそうだ。山崎は事の不味さを分かっており、表向きは長尾家の執りなしで纏まったことにしてくれと頭を擦り付けて言って来たので承諾した。その代わり俺が指揮している間は二度と起こさないように徹底して貰った。
暫くして宣下が終わり第十四代将軍として義秋が就任した。
ついでに新しい門出として義秋を義昭に改名した。俺にとっては馴染みのある感じになったと思う。
そして拠点にしている本圀寺に移り、上洛し三好討伐に加わった者達を集めて盛大に幕府再興を喜ぶ催しを行った。
ちなみに、これを主導したのは摂津晴門だと三淵から聞いた。本当に馬鹿だ。これをするくらいなら、京の復興を進め民心の掌握に繋げる方が断然良い。
それと、今回の宴と催し物の金は朝倉と織田が出したらしい。
結局、あれ以降俺のところに金の催促は来なかった。
「ささ!遠慮は要らぬ!皆楽しんでくれ!!」
義昭は大喜びだった。
さて、宴は大盛り上がりだった。義昭は義景や景虎の元に行っては大はしゃぎしていた。摂津も同様だ。だが、摂津は俺や北条には決して近付かなかった。
俺(義照)とは以前揉め、北条とは元政所執事の伊勢との関係で毛嫌いしていた。
俺は、三淵や和田、柳沢等、義輝時代から知っている幕臣達と酒を飲んでいた。
「・・・あの馬鹿弟子(義輝)がこの光景を見れば感動して大泣きしていただろうな....」
「亡き上様(義輝)がわざわざ東まで行かれた成果は大いにあったと言うことでしょう...」
「しかし義照様、いくら弟子とはいえ亡き上様(義輝)を馬鹿弟子とは、無礼ですぞ」
俺は集まった幕臣達と義輝のことを思いだし話していた。
「・・・恐らく将軍としてはどの将軍よりも見事な最期を遂げただろう。初めて会った時は世間知らずの我儘将軍だったが、立派に将軍の名を守り更に高めた。だが、一人の人として見れば虚しい。五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上までだったか?俺としては何としても生きて、その名を天まで轟かせて欲しかった...」
俺は今までを思いだし、何だか悲しくなった。時代が時代なら名将軍だと今なら思えたからだ。
俺が言うと集まっていた三淵達も暗くなっていたり涙を溢していたりした。なんだかんだ、彼らは義輝に最後まで付いて逝く事が出来なかったからだ。
「残された我らは亡き上様の意思を受け継ぎ幕府を磐石にしなくてはならない。義照様、どうか今後も幕府に支援の方お願い致す」
三淵は涙を拭くと頭を下げた。俺は義輝の遺児のことを話そうか悩んだが今は止めることにした。まだ幼い輝若丸を政治の道具として使わせる訳には行かないからだ。代わりに義輝の母の慶寿院と妻だった藤を信濃で匿っていることは伝えた。
「三淵殿、惟政(和田)、元政、分かっているだろうが、今の上様(義昭)は政を一切知らない。摂津と取り巻きには気を付けろ。利用され傀儡にされかねないぞ...」
俺は調子に乗っている晴門を見て集まった幕臣達に言った。三淵達もそれは理解していたので、監視を強めもしもの時は・・・と言った。
翌日
上様の前で今回の三好討伐と幕府再興の論功行賞が行われた。
まず、長尾景虎だが誰よりも先に上洛を宣言し、三好勢を打ち破り三人衆も討ち取ったので副将軍と言う新しい役職が作られ与えられた。副将軍は文字通り将軍に次ぐ権力を持っている。管領より上の位だ。ただし、これは景虎一代限りとした。
また、管領と一緒で幕政に関われる。
次に朝倉家だが、義昭を保護したこともあり新しく管領になった。
三管領の細川、斯波は没落しているので除名された。義景は景虎の下になることには不満を持ったが、景虎は一代限り、自身は今後も一族が管領になれるのでと目を瞑った。
浅井家は管領代となった。以前は六角がなっていた役職だ。と言っても名誉職に近い。管領に何かあれば幕政に参加できるがそれ以外ではただの肩書きだった。
だが、同時に近江守護にもなれたので、まぁまぁの結果だろう。
佐竹は常陸守護、武田は駿河守護、伊達は奥州探題となり、伊達と佐竹に関しては二家が同じ人物を指名すれば羽州探題を指名することが出来ることになった。
ただし、指名する時はそれなりに献金を払わなければならない。
北条は足利義氏が鎌倉公方であることを認めさせ、そして念願の関東管領職を手に入れた。ただし、上野、下野、常陸は鎌倉府の管轄から外れることになった。
遅れてやってきた織田は、尾張守護の容認と新たな奉公衆だったのだが、奉公衆就任を断り幕府に俺達(村上)との同盟の仲立ちを頼みやがった。
何も知らない義昭はいいぞと言い、俺は同盟相手を見捨てるので婚姻同盟でないなら受けるとした。
義昭は何も考えていないのか直ぐに問題無いとした。
信長は不満に思ったようだが、一応同盟を結べるので不満を漏らすことはなかった。
そして俺には朝倉家と一緒で管領職、馬鹿兄に飛騨守護職と奉公衆を与えた。
義景と晴門は物凄く不満そうな顔をして...。
まず、俺については先代(義輝)と親しく、武術の師であり、朝廷とも関係が深く、金も多く持っているので、重職に付けることで幕府に取り込み金をせびろうとしたらしい。三淵が発表より前に知らせてくれた。発案者はやはり摂津だった。
自分で発案しておきながら何故、不満そうな顔をする。本当は管領にしたくなかったのかもしれない。
なので、俺は管領職は辞退した。
理由としては、上様(義昭)を保護した朝倉と同じ職になることは朝倉の顔に泥を塗ることになり申し訳ない(適当な建前)。それに領地は遠く離れており、そう何度も京に来ることは出来ないからとした。
なので代わりに、信濃、甲斐、上野、遠江、三河、美濃、下野の七ヶ国守護にして貰った。
これについては前例が出雲にいたのですんなり認められた。
まぁ、三河はまだ制圧出来てないが問題無いだろう。しかし、よく粘っている。
それと、義景は結構正直なんだろう。俺が理由を言って管領を辞退したら顔が微笑んでいた。
朝倉家を持ち上げたからだろうか?。
他にも色々なことが決まった。
まず、幕府の領地だが、山城、若狭、大和、和泉、摂津、河内だが、若狭は朝倉家に、大和は三好義継と松永久秀、他幕臣が管理することになった。
丹波については、久秀の甥っ子(内藤貞勝)を始め多くの国衆が直ぐに義昭に付いたので、そのままだ。
摂津は三淵、細川兄弟、和泉は和田等が代理となって管理をし、山城、河内は義昭の代理として摂津晴門(政所)が管理することに決まる。その中に叔父上(小笠原長時)がしれっと紛れ込んでいたので、見なかったことにした。
幕政に関しては義昭が政治に関して無知な為、二年間は管領朝倉義景、副将軍長尾景虎を中心に合議制とし、その間に政務を覚えて貰うことを提案し認めさせた。摂津が猛反対したが、俺が義景を味方に付け、三淵達も賛同し最後は義昭自身が認めたのだった。
そして、六角一族の処遇だが、承禎は今まで将軍家を支えて来たこともあり助命され、隠居先(幽閉)として京の大徳寺に送られた。
義治だが、将軍暗殺の実行犯だったが、義定に操られていたという事で恩情が掛けられ、切腹としその後大徳寺に葬られることになった。
そして、義定は三好三人衆と共謀し将軍暗殺を計画し自らは手を汚さずに済まそうとしたこと、捕らえられた後、助かりたい為に嘘を撒き散らしたので、凌遅刑と蛇責めに処した。
因みに、なぜ凌遅刑と蛇責めかと言うと鋸引きの刑より苦痛を伴う刑は無いかと晴門と義昭に聞かれたので色々提案した。その中で蛇責めは鎌倉時代には伝わっていたようなので青ざめていた。
凌遅刑については具体的な内容を説明すると想像力が豊かなのだろう、義昭や幕臣達、それに一部幕臣達が慌てて庭に出て戻していた。そうでない者達も青ざめたりはしていた。
他にも、甲斐でやった生きたまま火炙りや久秀の大好きな簑踊り、石川五右衛門で有名な釜茹、他にも火頂責めや中世であった樽と言う方法等も提案した。
ちなみ、樽とは人を樽に入れ、顔だけ外に出させて行われる処刑法だ。牛乳と蜂蜜を塗りつけられた顔には、アブやハエがたかり、皮膚はボロボロになり、数日後にはウジ虫が湧き始め、生きながらにして体が腐ると言う物だ。
もう、この辺を説明する頃には大半の者が青を通り越して白くなっていた。
義昭も何回庭に戻した事だろう・・・。
「も、もう言わなくてよい!!」
「よく、そんだけの刑罰を平然と話される・・・」
「さ、流石閻魔と言われる村上殿だ・・お、恐ろしい・・・」
義昭の悲鳴に近い叫び声を皮切りにその場にいた者達が色々言い始め・・・何故か、全員に恐れられ閻魔の異名を知らしめた。
ただ、内容を知ってるだけでやったことはないのに...。理不尽だ・・・。
まぁ、俺(義照)なら石抱をした後、傷口に塩を塗り込んで激痛を味わわせた後油釜で釜茹だな。
数日後には刑が執り行われ、義定は凌遅刑を行われ、下半身の肉を削ぎ落とし動けなくなった所で蛇責めを行い壮絶な断末魔を叫びながら死んだ。
後から聞いた話だと、執行後数日放置され桶を開けた時には骨しか無かったらしい。桶はそのまま火が付けられ中の蛇ごと処理したそうだ。
六角義治は見事な腹十文字を見せ切腹した。介錯は長政が名乗り出て見事にこなしていた。最後に何か話していたようだが俺達には分からなかった。
そして義治の遺体は予定通り葬られることはなかった。
と言うのもあまりにも見事な切腹だった為、義昭は義治の葬儀をすることを許したのだ。
なので、葬儀を行った後、予定通り葬られるのだった。
同じ反逆者で兄弟とは言え義定とは大違いの対応だった。
その後、俺が朝廷より指示された京の治安維持は幕府が引き継ぐ事になったが、まだまともな兵もいないので、当面は朝倉義景と浅井長政が兵を駐在させることになった。幕府が兵を集めたら撤収する予定だ。
俺達は引き継ぎをし、朝廷や幕府に帰国することを報告し挨拶周りをしたり、密かにゴミ掃除(二条に付いた公家の始末)をしていた。
そんな中、二人の男が俺の元にやってくるのだった。