106、六角の終焉と真実
永禄九年(1566年)4月
近江 堅田 朝倉長尾連合本陣
「では、三好を追い出すつもりもなく、我らを通すつもりもないと?」
「はい。我らは朝廷より不入の権を認められております。それに我ら延暦寺は誰であろうと救いを求めれば助けます」
延暦寺の僧侶は義景と景虎を前にしても淡々と話していった。
延暦寺は代々京を守護しており三好に味方をしている訳ではなく、京を護るために動いていると伝え、比叡山を攻めるのなら日ノ本を敵に回す覚悟をしろと脅した。
もしも、義照がその場にいたら間違いなく容赦なく比叡山を焼いていただろう。
だが、ここにいたのは義景、景虎だった。二人とも一向衆との戦いで寺社勢力の恐ろしさを良く知っており、景虎に至っては元々仏門に入っていたことがあり影響力の大きさを知っていただけに、この脅迫は効果的だった。
無視して京に向かうことも出来るがその場合背を衝かれるので動くに動けず二人は眼前の比叡山に籠る三好勢を包囲し眺めることしか出来なかった。
その頃、近江観音寺城を目の前にしている関東連合は浅井長政と合流し、長政から六角と観音寺城の説明を受けていた。
観音寺城は日本五大山城と言われただけあって、攻め落とすのが難しい城だった。落とすことは無理ではないが……。正直、史実のように城から逃げ出して甲賀にでも行ってくれたら楽だったのだが、流石に俺の元に甲賀忍がいるのでそんな馬鹿なことはしなかった。
それに、元六角家臣がこちら側にいる。
「さて平井殿、六角の今の石高は如何程か?」
俺達に寝返った平井定武に尋ねた。この人物は六角家の六宿老の一人で、浅井長政が離縁した妻の父である。
「・・・寝返る者も多いので、多くて二十万石もあるかどうかかと・・・それがどうかされましたか?」
観音寺城の話をしていたのに俺が六角の石高を尋ねたので皆不思議に思っていた。
(一貫だいたい2石だから、約十万貫か...)
「長政、六角の領地だが幾らで買う?」
「「「「・・・は?」」」」
本陣にいる全員が同じ反応をした。
「村上殿、それは一体どういうことか?」
「何、このまま攻め込んだら六角は簡単に落とせるだろう。それに領地も手に入る。だが、我等は関東や東北の方から来ており領地を得ることができない。長政を除いてな。だが、戦う以上兵達に報酬はやらんといかん。故に幾らで買うかと聞いたのだ。勿論払えば国はそのまま長政の物だ」
晴宗の質問に俺が答えると長政達以外は納得し、そうだそうだと言う。
「二十万石なら銭だと十万貫くらいか。六家で割ったとしても一家が一万七千貫くらいか?」
「・・・今の我等にそれだけの大金を払える余裕はありません...」
「では、鉄砲でどうか?たしか、国友と言う生産拠点があると聞いたが?」
他の者達から長政への提案(脅迫)は凄まじく、若い長政は受け入れるしかなかった。
ここまでなるとは思わなかったのでちょっと同情した。
「さて、孫六、出雲、陽炎衆と我らに寝返った甲賀衆を率いて門を開けられるか?」
「はっ、敵方に三雲がいるようですが、数に勝るので行けます」
「既に手勢を忍ばせておりますので陽動は出来ます。然れど、三雲が居ますので門を開くには多くの犠牲がでるかと」
俺が二人に聞くと出来ると言っていた。
氏康や長政は甲賀衆が義照に従っていたので何となく察していた。
「では、先陣はどうか我等に。六角とは我等の手で決着を付けさせていただきたいのです!!」
長政の重臣遠藤が名乗りを上げた。多分、手柄をあげることでさっきの支払いを減額させるつもりだろう。まぁ、長らく苦しめられたので決着を付けたいと言うのは本当だと思う。
なので、先陣を浅井とし観音寺城攻めは浅井、武田、佐竹、併せて一万五千とし俺達は周囲の制圧に向かうことで決まった。
そして夜、観音寺城は赤く燃えた。
孫六達の陽動で敵は混乱し、内側から開けるのは難しいと思われていた門を開けられたことで浅井軍先鋒の磯野員昌が突撃、乱戦となった。
数に劣る六角勢も後が無いため必死に戦った。特に凄まじかったのは弓の腕で名を馳せた吉田一族とその配下の弓隊、そして三雲と直属の甲賀衆達だ。
吉田一族は本丸最後の門を死守し攻め寄せた多くの浅井の将兵を射ぬいていった。
その中には突撃した磯野も含まれており危うく討ち取られる所だった。
そして、門を守っていると思われた三雲とその直属達は守りを捨て長政の首を狙い本陣を強襲した。
しかし、圧倒的な本陣の守りの前に三雲達は討ち取られた。しかし、三雲は死の直前長政の首に届きかけた為、長政の手で丁重に葬られるのだった。
そして、吉田一族の弓隊も門を破られ接近されるとなす術なく討ち取られていった。
城攻めから二刻後、観音寺城は落城、先先代当主六角承禎、先代当主六角義治、現当主六角義定は捕らえられ、連合軍の本陣に縛られて座らされていた。
「義賢、いや今は承禎殿でしたな。まさか、このような形で再会をするとは思ってもいませんでした・・・何故、最後まで敵対していた三好に付かれた?」
「・・・・・・」
俺(義照)の質問に承禎は答えず沈黙で返した。
すると後ろで繋がれていた現当主義定が代わりに答えた。
「それは、三好にそそのかされたそこのクズ(義治)が公方様を殺そうとした為です!私はこいつを殺して公方様に詫びようとしましたが、父上(承禎)に止められました!私は三好に付く気はありませんでした!」
義定はそう言った後も自分は公方様に付こうとした、自分は悪くない、だが父には逆らえなかった等、自分に都合がいいことしか言わなかった。
煩く醜かったので、本陣から追い出した。本当は俺自ら殺してやりたかった。
話は平井から全て聞いていた。義定が言った中で本当のことは承禎が殺されかけた義治を庇ったことだけだった。
実際は、義定は三好三人衆から覚慶(義秋)はまだ将軍ではないから殺しても問題ない。次期将軍となる義栄様が六角家を管領にすると約束する、それに暗殺するのは義定ではなく、存在が邪魔な義治を使えばいいといい、もし失敗しても義治一人のせいにすればいいとそそのかされ三好と通じたそうだ。
そして、実際に義治は利用されて暗殺を起こした。だが、覚慶についていた幕臣達の必死の抵抗で失敗した。義定は口封じの為、直ぐに兄を始末しようとしたが承禎に止められた。
実は平井の雇っていた忍が三好と義定が会っていたことを突き止め、平井に報告しそのまま承禎にまで話がいき、承禎が調べさせ全てを知ったのだった。
その後は承禎は義治を庇い、平井と自身が信頼している家臣に見張りと称して護衛を付けた。
そして、俺達が近江に入ると平井を護衛から外し、知ったこと全てを秘密とし寝返るよう薦めたそうだ。
平井は悩んだ末、俺に全てを話してくれたのだ。平井としては承禎の命だけは救って欲しかったそうだ。決めるのは義秋とした上で、出来るだけ討ち取らず捕らえるように他の武将達に頼み、今に至っている。
「承禎殿、平井殿から全て聞いている。何故、家を滅ぼしてまで二人(義治、義定)を守ろうとしたのですか?」
俺が再度聞くと承禎は平井を見た後、俺達の方を見て口を開く。
「・・・我が子だからだ。もし、どちらか一人だけなら切り捨てていただろう・・・。だが、ワシにはそれが出来なかった」
その言葉で、本陣の全員が理解したが反応は分かれた。愚かなと思う者が大半だが、一部は同情した。義照は同情した方だった。そして意外にも長政もだ。
その後捕らえた六角一族は浅井が預かることになった。長政が自分から言った為だ。
そして、2日程で近江六角領を制圧した。忠臣として最後まで籠城していた蒲生一族も承禎からの書状と平井定武の説得で開城した。
三好勢は六角の敗北を聞くと直ぐに比叡山を降り京へ逃げ込んだ。
これに対して朝倉、長尾勢は追撃をしなかった。と言うのも、延暦寺が交渉し三好が山を降り京へ戻ることを邪魔しない代わりに、比叡山は今後三好を受け入れず、手出ししないと言うことで和議をまとめた為だった。
しかし、京へ戻った後は関与しないとしたので、朝倉、長尾勢は直ぐに京に向かうのだった。
三好勢は京を捨て撤退。そして朝倉、長尾連合と関東連合が合流するのだった。