1話 女神と怒りとフワフワのモコモコ
名前のない僕と名前のない犬は家を無くし、旅に出ることにした。
元々家なんてあってないような物だったので特に【悲しさ】等なかった。
僕には感情がないので仕方がない。
傍らに歩く名前のない犬が昨夜行った出来事。
輝く炎を操り、僕を産みだした人間を殺した行為。
それをどのように行ったのかは僕は気にならない。
名前のない犬は名前のない犬。
それが僕の中にある名前のない犬への感情である。
助けて貰った、【感謝】している、そのような感情は僕は持ち合わせていない。
名前のない僕と名前のない犬は歩く。
ただただ道を歩く。
途中喉が渇いたりお腹が空く度に名前のない犬はどこからか飲み物や食べ物を持ってきた。
それがどのようにして得た物なのかはどうでもいい。
喉の渇きや飢えが凌げればなんでもいいのだ。
満点の星空を眼前に名前のない犬と寄り添って寝た。
季節は冬だが、この辺りは雪が積もっていない。
名前のない犬と寄り添って寝ると寒さなんてものは感じなかった。
僕を産みだした人が良く居た暖炉という物の温かさに似たものだった。
名前のない犬は時折人間の姿に変わったり、僕の影の中に入っていた。
犬という生き物はこの名前のない犬しか知らないので、犬とは大変便利な生物なのだな、と感心していた。
名前のない犬は毎日姿を変え、それは例えば同世代の子供だったり、優しそうな老人だったり、屈強な男性を演じたりしていた。
(姿を変える都度、犬が姿の説明をしていた)
僕は名前のない犬が何に姿を変えようが、それが名前のない犬だと知っているので特に何も思わなかった。
「君は名前のない犬だから、何に姿を変えようが僕は見つけられるよ。だって君は名前のない犬だから」
僕はこの前学んだ感情【笑う】を表現した。
名前のない犬は人間の姿で【笑う】事をし、いつもの大きな犬の姿に戻った。
それが旅の日常。
幾日か歩いていると、ようやく民家に辿り着いた。(名前のない犬がこれが民家だと教えてくれたのだ)
僕は死んだ二人の人間と名前のない犬しか対面した事がない。
初めて知らない人間と顔を合わす事になるかもしれないと思うと心臓が…本来ならばバクバクしていないといけないらしいが、特に変わりはなかった。(それも名前のない犬が教えてくれた)
名前のない犬は姿を人間の形に変えた。
その姿は例えるならば家に飾ってあった「女神」とかいう人間の姿のようだった。
名前のない犬が
「この姿は美しい女の人間というモノです。私はあなたの母という事にしましょう」
名前のない犬は帳尻という物を合わせるために僕に提案してきた。
僕は特に異論はなかったので、従う事にした。
民家の扉を叩くと中から老人が出てきた。(以前名前のない犬が変身していたから理解できた)
老人は【笑う】を表現し、名前のない犬も【笑う】をした。
優しそうな老人は終始【笑う】をしながら
「ここだと寒かろうに。お若いのに旅だなんて大変な事だ。せめて我が家で数日過ごしなされ」
と言い、僕たちを家に招き入れた。
名前のない犬は僕に目配せし、老人に促されるまま家に入る。
家の中は、表からは想像もつかない程ピカピカの家具が配置されていた。
何か大きな生き物の毛のような絨毯もある。
名前のない犬は僕に小声で「これが【豪奢】【お金持ち】というモノの家ですよ」と告げた。
僕はピカピカしている家具や、よく分からない動物の毛の絨毯が【豪奢】だという事を学んだ。
老人はキッチンでカシャカシャと音を立てて何かしている。
その間僕と名前のない犬はソファーとかいうフカフカのモコモコの物体に座り、小声で勉強会を始めた。
「あそこに飾っている角が生えた生首は【鹿】という動物です。鹿の肉は美味しいですよ」
「この絨毯の毛の持ち主は元は【ライオン】と言います。肉は固く臭いので食べ物には適していません」
「棚の上にあるゴツゴツとした四角い物体は財布と言います。金銭を入れるためのモノです。革の持ち主は【ワニ】と言って、とても美味しいのですよ」
名前のない犬の教え方は、元の持ち主の名前と美味しいか美味しくないかの二択だった。
これはいつか役に立つのだろうと思い、僕は知識として学んだ。
名前のない犬は老人が戻ってくるまで、部屋にある色々なモノを教えてくれた。
つらつらと喋っている名前のない犬の口がピタリと止まる。
キッチンで何か作業をしていた老人の手には、板の上にティーカップや見た事のない甘い匂いを発する物体があった。
老人は【笑う】をしながら、
「さぁ、お腹が空いているだろう。食べなさい。温かい飲み物も入れてきたからゆっくり飲みなさい」
と促した。
僕は名前のない犬を見る。
名前のない犬は、「さぁ、折角だからお食べなさい。これはとても美味しそうな匂いがしますよ」
と言うので、僕は甘い匂いを発している物体を口元へ持っていった。
僕を産んだ人間がたまに口にしていたような甘い匂いの物体は、口に入れると溶けてなくなり、僕の知らない後味が残った。
一度食べると止まらなくなり次々に口にしては、知らない後味に酔いしれた。
名前のない犬はその光景を見ながらティーカップを口にしていた。
優しそうな老人と【笑う】をしながら言葉を交わしている。
それは僕が今まで聞いた事がない言葉だらけだった。
僕を創った人間は、いつも叫びながら僕を殴っては怒鳴ることを繰り返していたので、他の人間というのはこんなにも静かにふわりふわりと喋るものなのか、と考えていた。
気が付くと窓から差し込む光は暗くなっていて、僕は名前のない犬に寄り添って寝ていたようだった。
何時間経ったのかは分からないが、老人と名前のない犬はまだ【笑う】をしながら喋っていた。
名前のない犬が僕が起きた事を察すると、
「そろそろお暇致します。今日は美味しいお茶をありがとう」
と言い、フカフカのモコモコのソファーから立ち上がった。
それを静かに老人が制する。
「今日はもう日が落ちている。このまま此処に泊まっていきなされ。次の家までしばらくかかるだろう」
【笑う】をしている老人の目が形を歪めずに真っすぐに名前のない犬に向かって言う。
名前のない犬は素直に
「それではお言葉に甘えて…」
と言い、先程まで座っていたフカフカのモコモコに座りなおした。
老人は御した手を引っ込めて、
「それでは儂は夕餉の準備をしてこよう」
そう言うとキッチンへ引っ込んでまたカチャカチャと音を立てて何か作業をしていた。
名前のない犬はキッチンへ向かった老人を見送り、僕の耳元に囁いた。
「今日はあの老人から感情を覚えましょう」
それが何を意味するのかはまだ僕は分かっていなかった。
小一時間ほど経って、老人が温かいスープを持ってきた。
老人はこの辺りで猟師という仕事をしており、これは昨日捕ってきた鹿だという。
「鹿ってあれ?」
僕は先程名前のない犬に教えてもらった生首を指さした。
老人は少し驚いたような表情を見せた。
名前のない犬は
「この子が産まれた所では鹿がいません。珍しかったのでしょう。先程教えました」
と言葉にした。
老人は納得した様子で、鹿の美味しさを問うてきたが、僕は【美味しい】が分からないので少し考えた。
そして先程名前のない犬が【鹿の肉は美味しいですよ】と教えてくれたのを思い出し、
「鹿の肉は美味しいですよ」
と、名前のない犬の言葉をそのままに伝えた。
老人は少し訝しんだが、名前のない犬が「この子は考えることが少し苦手なの」とフォローを入れてくれた。
鹿の肉は美味しいスープを味わっていた時に、ふいにグラッと視界が歪んだ。
この感覚は僕を創った人間が僕の頭を思いきり鉄の棒で殴った時の感覚に似ている。
決して痛くはないが、だんだんと意識が遠のいていく。
僕の手は虚空を掴みかかって、そのまま無くなっていった。
――どこからか声がする…。
―――懐かしい…これは怒鳴り声だ…。
――――僕は…戻ってきてしまったの?
急にガバッと上半身を持ち上げると、頭が割れそうに痛かった。
僕は辺りを見回した。
そこには前の家は無く、先程の老人の家の中だった。
聞き覚えのある怒鳴り声だったので前の家に戻ってきてしまったと錯覚していたようだ。
隣には後ろ手で縛られた女神の姿の名前のない犬がいる。
犬は必至に叫んで老人と会話(?)をしていた。
怒鳴り、泣き、喚き、叫ぶ。
前の家で繰り広げられていた光景を老人相手にしていた。
僕は突然の事で理解できなかったが、自分も同様に縛られているので状況が飲み込めた。
「僕たちを鉄の棒で殴ったりするの?」
疑問を老人に問いかける。
老人は満面の【笑う】をして、こう告げた。
「売り物を殴ったりはしないさ。儂は優しいからな。親子共同じ所に売ってあげるよ」
【売る】という行為が分からなかったが、あまり良いものではないらしい。
名前のない犬は「この子だけは助けて!」と声にならない言葉で叫んでいた。
僕は名前のない犬も叫んだりするんだな、と、妙に感心していた。
老人と名前のない犬は口論をしている。
僕は言葉の殆どが理解できないので黙って学んでいる。
実践で学ぶのは難しい。なかなか理解ができない。
そうこうしている内に外が何やら騒がしくなってきた。
老人は装いを直し、扉を開けた。
扉の外には屈強な男性が数名いた。(名前のない犬が屈強な男性に変身していた事があったのですぐに分かった)
老人は頭を何度も下げ、僕たちの方向へ指をさした。
屈強な男達は僕たちを舐めまわすように見て、老人に布袋を投げた。
チャリン、と音が鳴った。
聞いたことがない音だったので、僕はふいに
「あの音は何の音なんだい?」と名前のない犬に聞いた。
「あれは【お金】という物体の音です。私たちは今【売買】されようとしているのですよ」
冷静な声で名前のない犬が言葉を放つ。
【売買】という言葉の意味が分からなくて、再度問おうと名前のない犬の方向に顔を向けると、そこには女神の姿ではない本来の名前のない犬の姿があった。
口には老人の頭がスッポリと入っており、ゴリゴリ音を立てて咀嚼をしていた。
男達は慌てふためき、長い筒のような棒を持って、雷のような音を立てて【攻撃】してきた。
雷の音がした筒からは煙が出ている。
僕は名前のない犬に問うた。
「あの筒は何?」
名前のない犬は答える。
「あれは鉄砲と言います。当たるととても痛いらしいです。私は痛くないのでわかりませんが…」
名前のない犬が喋っている合間にも【鉄砲】という筒から雷の音がし、何か粒のような物が噴き出ていた。
名前のない犬はさも面倒くさそうな顔をし、男達に飛び掛かって食い散らかせた。
先程まで怒号を上げていた男達の声も老人の声も無くなり、ゴリゴリという咀嚼音だけが辺りに響く。
他者の血でまみれた名前のない犬が僕の方を向き、先程の【お金】が入った布袋を咥えてきた。
「このお金で服や切符や色々なモノを買い、私たちは旅を続けます」
そういうとペロリと口元を舐め、僕のほっぺたも舐めてきた。
僕は名前のない犬に「どうしてさっきは泣いたり叫んだりしていたの?」と疑問をぶつけると、
名前のない犬は「あなたに【人を信じる愚かさ】【恐怖】【優しさの裏側】を教えたかったのです。学べましたか?」
と疑問を返してきた。
僕はじっくり考えながら答えを導き出し、一息で言葉を放った。
「【人を信じる愚かさ】は分からないよ。【信じる】って何だい?まだ難しいね。【恐怖】は雷の音の事かな?僕はあの音は好きじゃないって理解できたよ。それからそれから…【優しさの裏側】は分かったよ!優しさっていうのは甘いモノや鹿の肉は美味しいスープの事で…その裏側って何だろう…?」
僕はうんうん唸りながら考え続けたが、やっぱりまだよく分からない。
名前のない犬はそんな僕を見つめながら
「まだまだ先は長いですね。あなたは覚えが悪い」
そう言った。
その言葉の意味だけはハッキリ理解できた。
「今僕の事バカって言ったでしょ!取り消して!!」
僕は何故か頬っぺたをぷくっと膨らませて【怒る】をしてみた。
名前のない犬は僕が頬っぺたをぷくっと膨らませた事に驚きを隠せないでいた。
そして
「前言撤回します。あなたは覚えの方向が面白い。今日は【怒る】を理解できましたね。ひょんなことから」
と言い、【笑う】をした。それは今までで一番大きな名前のない犬の【笑う】だったので、僕もつられて【笑う】をした。
僕たちは笑うをしながら、死体の転がった家のフワフワのモコモコソファーで寝た。
でも本当にフワフワのモコモコは名前のない犬だったので、ソファーというモノは名前のない犬の真似事をしているモノなのだと考えていた。