診療所の日常
診療所の朝は早い。
入院するほど重篤な患者は私が働き始めてからは殆どいませんが、日の出前から診療所の受付には人がやってきます。
「はいはい、切り傷用の塗り薬3瓶と腹痛用の粉薬10回分ですね。塗り薬の使用期限は半年、粉薬は2か月です。塗り薬を使用する前に傷口は綺麗な水で洗ってください。粉薬の方は湿気を吸うと効果が薄れるので気を付けてください」
早朝から王都を出立する人が薬を求めてやって来ます。多くの人は前日に準備する物ですが、忘れっぽい人や急遽出立しなくてはならなくなった人が買いに来ます。
「ありがとう。ここの薬はよく効くからいつも助かってるよ。では行って来ます」
薬を購入してくれた冒険者を行ってらっしゃいと言って見送ります。
冒険者ギルドや他の診療所でも薬は購入出来ますが、男爵家の薬となるとそうはいきません。男爵家は他の診療所や商業ギルドには卸していませんし、お城と冒険者ギルドに卸している量もニコルさんの診療所と比べたら凄く少ないはずです。そこでみなさん、ニコルさんの診療所まで買いに来ます。
男爵家の薬、実は今、密かにブームとなっています。
どうやらボーデンで腹痛の薬を無料で配布した事が原因の様で、それから2か月後、誕生祭を過ぎた辺りからじわじわとこの診療所で薬を購入出来る事が広まって行ったようです。
先程の冒険者の男性もボーデンでアリー様から薬を貰った人の1人です。誕生祭の時、診療所の前でアイスやかき氷を販売しているアリー様と遭遇して薬の御礼を言った所、この診療所の存在を知ったようです。王都の大通り沿いには大きな診療所が2店舗有ってそっちが有名みたいですし、この診療所は王都の奥まった裏路地に有りますからね。知られていないのは仕方ないでしょう。
ただし、ブームとなっていることにニコルさんはちょっと怒っています。
元々ニコルさんは自分の手の届く範囲で細々と診療所を運営したかったようで、診察もせずに常備薬を売ることは反対だったそうです。
私が診療所で働き始めたのは誕生祭の後からだったので知らないのですが、誕生祭で屋台を出す事も診療所前の道を使う事も反対しているのだと診療所の先輩が教えてくれました。先輩は年に一度のお祭りを楽しみにしているようですが。
「はい、乗り物酔いの薬6日分12錠です。1錠飲むと半日は効果が有るので、朝と昼の食事30分前に服用してください。私は大丈夫なんですが船酔いは辛いですよね。気を付けて買い付けに行って来てください」
私は昼休憩まで受付で常備薬を売り続けています。
受付で薬を販売していますが、それは元気な人にだけです。明らかに今怪我をしている人や体調が悪そうな人には診察が必要になります。それは絶対です。素人判断で間違った治療をしないためです。
怪我をしたところは綺麗に洗って泥や汚れを落とさなければなりません。縫い合わせた方が良い傷には痛み止めの薬を使った後に縫い合わせます。骨折などの酷い怪我の時には入院を指示したり、毎日通ってもらう事もあります。その判断の為にも診察は必要です。
怪我よりも病気の人の方が厄介です。下痢や嘔吐を繰り返す人、頭痛を訴える人、熱がある人、色々な人が来ます。そういう人達にはすぐにでも薬を売ってあげたいところですが、それは駄目なのです。時間が掛かってもしっかりと問診を取って診察を受けてもらいます。
時間が無い人は別の診療所へどうぞ。はい、これはニコル先生の方針です。王都内には十分診療所が有りますからね。
受付で騒がれるのは迷惑ですので。
それ以上暴れるのなら実力で排除しますよ。
まったく、女性だからって馬鹿にして。マルテ先生から魔法を習った私にその程度の実力で喧嘩を売って来るんじゃないよ。
おっと危ない。笑顔笑顔。ついつい普段の口調が出てしまいました。すみません、お騒がせしました。診察の順番は次ですので、もう少し待っていて下さいね。
午後4時前になると診療所で働く人の中で村へ帰る人は早退します。午後4時に船着場集合です。
すみません先輩、今日は私の番なのでこれで失礼します。あ、乗り物酔いの薬、また買って行きますね。あまり男爵家から無料で頂くのも申し訳ないので。
同僚の皆も頑張って。ニコルさんは診察中でしたので邪魔をしないよう静かに着替えて出て行きます。
診療所に残る人達はまだまだ働き続けます。日が沈んでも患者はやってきます。酔っぱらって転んだ人、喧嘩をして怪我をした人、依頼から帰って来た冒険者など。日付が変わる時刻まで診療所の灯りは灯ったままです。
先輩や同僚は交代で休んでいますが、ニコルさんは働きっぱなしです。往診にも行くし、毎日忙しいです。ニコルさんの下で医療を勉強している先生も数人いますが、ニコルさんが一番長い時間働いています。いつか倒れないかと心配していますが、毎日診療所の中で一番元気なので心配いらないのかなとも思っています。
「おう、今日も時間ぴったりだな。ちゃんと真面目に働いて来たか?」
「うるさいわね、あなたに言われなくてもちゃんとやってるわよ。ほら、乗り物酔いの薬。いい加減船に慣れなさいよ」
毎度毎度言い合いして、よく夫婦関係を続けられるよなと先輩の船頭は不思議に思っていた。




